第五十三話 これが俺の答えだ
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ドロスは一人で残った。
地響きが遠くで低く続いている。まだ遠い。
「師匠、逃げましょう!」
一番若いのが叫んだ。
「逃げろ。俺はここに残る」
「なぜですか!?」
年長の弟子が食い下がった。
焼けた工房は、あの年の秋に同じ場所へ建て直した。石組みは残っていたから炉の位置は変えていない。隅の椅子だけは焦げ跡のついたまま、同じ場所に置いてある。ドロスが口を開く。
「弓職人は工房と弓を守るものだ」
声はいつも通りの太さだった。怒鳴る時と同じ声で静かなことを言う。弟子たちはその声の調子で全てを察した。親方が一度この声を出したら動かないことをみんな知っている。
「師匠も一緒に……」
「弓と道具を持てるだけ持て」
ドロスは壁の道具を外して順に弟子たちへ押しつけていった。鉋、鑿、弦巻き、型。一人ひとりの手にその者の腕に合った道具を選んで渡す。間違えなかった。誰がどの道具を使っていたのか親方は全部知っている。
「お前らの腕は、お前らだけのものじゃない。教わったもの全部、生きて運べ」
年長の弟子が最後まで動かなかった。
「俺は残ります。師匠一人を置いて……」
「馬鹿野郎!」
ドロスは弟子の胸に使い込んだ鉋を押しつけた。
「お前はもう人に教えられる腕だ。残る贅沢は教え終わった年寄りのもんだ。若いのを連れて行け。全員だ」
「師匠!」
「行け。どこかでまた弓を作れ。それが返礼だ」
弟子たちは泣きながら、それでも従った。
職人は親方の言うことを聞くもの。長年そう仕込んできたのはドロス自身だった。
足音が遠ざかり、街道の方へ消えていく。あれだけ騒がしかった工房が静かになった。
ドロスは戸口の閂を内から掛けた。
それから工房の中をいつもの順で回り始める。炉の灰を均し、床の木屑を掃き寄せ、台の上の刃物を布で拭く。閉店の手順は三十年変わらない。今日が最後の閉店になるとしても順番を変える理由にはならなかった。
ドロスはゆっくりと工房の中を見回した。
炉にはまだ火が残っている。壁には道具の外された釘穴が並び、台には削りかけの弓が一張り。
隅の椅子は昔、生意気な目をした娘が座っていた場所だ。スパインだのアーチャーズパラドックスだの、聞いたこともない言葉を平気な顔で口走る娘だった。木の癖を読む目だけは本物だ。
笑いながら怒鳴って、怒鳴りながら教えて、いつの間にか、こちらが教わっていた。
初めて娘の矢が遠くの的を捉えた日、二人で焼き菓子を食った。うまく焼けた日の菓子より、あの日のは少し焦げていて、それでいて甘かった。
冬の夜には図面を挟んで夜中まで言い合った。「お前のその仕掛けは木に無理をさせる」「させません、木と相談しますから」。
木と相談だと? 生意気な娘だ。しかし減らず口の数だけ弓は良くなっていった。
雨の日のことも思い出す。客の来ない午後、娘は工房の隅で近射を繰り返していた。雨音の中、弦だけが鳴る工房で、何百回目かにふと手を止めて言った。「ドロス、弓って静かですね」。その一言だけが妙に長く残った。
あの夜のことも覚えている。村中の目を工房の火に引きつけて、娘たちを逃した夜だ。あの時も、まず弟子を先に逃がした。道具箱を持たせて、闇の中へ散らせた。今夜とやり方は変わらない。同じことを二度もやる羽目になるとは思わなかった。
娘が兵に連れて行かれた日のことも覚えている。あの娘はこちらを一度だけ見た。泣いていない。職人の目のまま、連れて行かれた。こちらは怒鳴ることも追うこともできず、ただ立っているだけで何もしてやれなかった。できたのは信じることだけだ。あの腕はどこへ連れて行かれても錆びない。あの目はどこにいてもくじけない。職人が弟子に賭けるものはそれで全てだった。
あの椅子にもう誰も座らない。それでも工房は工房で主は主だ。炉の火を最後まで見届けるのは、この家では主の役目と決まっている。
作業台の端に完成したばかりの一張りがあった。
飾りのない弓だ。注文主はいない。誰のために削ったのか口に出したことは一度もなかった。出さなくても手が知っていた。森で木を選んだ日からこの弓の引き手は決まっていたのだ。北の斜面で風に揉まれて育った一本だった。目は詰み、癖は強く、並の職人なら避ける木だ。だが癖の強い木ほど、読める者の手では粘る。あの娘と同じだと思いながら削った。削っている間だけは戦の足音を忘れられた。あの娘が帰ってくる場所が世界のどこかに一つは要る。
窓の外で夕陽が傾いていた。
港の方角の空が燃える前から赤い。この窓から何千回と見た、ただの夕焼けだった。今日のはことのほか良い色をしている。ドロスは手を止めてしばらくそれを見ていた。
棚の工具が小刻みに鳴り始めていた。
地響きが近づいてきた。
弓の仕上げを最後にもう一度だけ確かめた。握りをなぞり、反りを指先で追う。それからドロスは弓を布で巻き、矢束を添えて作業台の下の奥へ押し込んだ。床板の陰、火の回りにくい石壁の際だ。あの娘のあの目なら、見つけられる。確信があった。
殺さぬ弓で何が守れる、と笑った顔は数えきれない。一度も言い返したことはなかった。言い返す代わりに作ってきた。今日のこれが、最後の一本だ。
それから炉の炭を一本つかんで台の裏板に太く書いた。
(これが俺の答えだ)
炭を置いて手の煤を前掛けで拭う。仕事のあとはいつもそうしてきた。今日もそうする。湯の残りで茶を一杯淹れて、立ったまま半分だけ飲んだ。残り半分は炉にかけた。火がじゅっと短く鳴く。長年の癖だった。火の神様への、おすそ分けだ。
あの娘にも、よくこうして半分だけ押しつけてやった。「もったいない」と口を尖らせながら、結局最後まで飲んでいた。
弦を張る日のことを思った。張るのは自分ではない。それでいい。弓は張られた日に完成する。作った日ではなく。だからこの弓はまだ未完成のまま、完成の日を待つことになる。職人の仕事にこれほどふさわしい終わり方もなかった。
外の音が変わっていた。
逃げる足音と荷車の軋みであれほど騒がしかった通りが静まり返っている。みんな間に合っただろうか。間に合っていてほしい。願いごとはそれで最後にした。
椅子に腰を下ろして炉の火を見た。
いい火だ。何百張の弓をこの火で曲げてきたのだろう。数えたことはない。職人は数を残さない。残るのは弓だけでいい。俺の弓は弟子の手の中にある。俺の技はあの娘の指の中にある。なら、ここに残っているのはもう殻みたいなものだ。殻の番をして終わるのも悪くない人生だった。
外で建物が軋む音がした。次の瞬間、扉が吹き飛んだ。
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