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第五十二話 故郷の煙

毎日投稿予定。

第4章はじまりです。

 セリアの方角の空が濁っていた。

 冬の終わりの朝だった。居室の窓から見えるのは帝都の屋根の連なりと、その先の低い山並みだけだ。煙が見えるはずのない距離だと分かっている。それでも目が地平の際を探した。探して、探し当てられずに、また探した。空の色だけが灰を混ぜたように沈んでいる。

 手にしていた水差しを置いた。置いたつもりだったが音を立てて転がった。拾えない。窓辺から動けなかった。いつもなら聞こえる朝の音……荷車の軋み、職人の挨拶、水汲みの桶の音が今朝はばらばらに乱れて別の音に塗り替えられていく。走る足音。戸を叩く音。誰かの名前を呼ぶ声。

 帝都は朝からざわついていた。進軍が始まった、という声が通りを駆け回っている。新しい兵器が出た、一夜で国境が抜かれた、と。誰かが笑うような高い声で言い、別の誰かがそれを咎めるように低く遮った。「セリア」、という地名だけが、どの声にも同じ発音で紛れ込んでいた。


 「決裁が下りる前に動いたそうだ」


 通り沿いで、文官らしい男が忌々しげに吐き捨てた。


 「総帥の署名もまだだったと聞いたぞ」

 「今更、誰の名前がいる。もう止まらん」


 セリアが燃えている。

 故郷の海の色を思い出そうとしてできなかった。頭の中まで煙が流れ込んでいた。見てもいない煙だ。それでも匂いまで嗅いだ気がした。

 それでも足は工房へ向かう。

 工房にはいつもの半分しか人がいなかった。来ている者も手が止まっている。セリア出身の年かさの職人が削りかけの弓を抱えたまま、壁を見ていた。職人頭が手を二度叩く。


 「手を動かせ。手を止めるとろくなことを考えん」


 乱暴な言葉の、不器用な優しさだった。リサも台に向かった。鉋を握る。木を削る。手だけがいつも通りに動いた。


---


 その数日前、北の遺跡の地下で儀式は執り行われていた。

 降りるだけで半刻かかる縦坑の底にその空間はあった。

 壁は継ぎ目のない黒い石で松明の光を吸って返さない。古代の人類が何のためにこれほどの空洞を造ったのか学者たちは答えを出せないまま軍に追い出されていった。

 地の底とは思えない広さだった。松明の列が闇の奥まで続き、その両脇に掘り出された巨人たちが延々と整列している。

 「エンドロン」。古代の記録にその名だけが残っていた、量産された兵だった。掘り出された数、七十二体。

 沈黙の兵団の前に祭壇が据えられ、ヴォルカ王が立っていた。

 祭壇には古代の文字が刻まれている。王は教えられた通りの呪文を読み上げた。声が地下空間に反響する。

 余の声が古の兵を呼び覚ますのだ。

 声は高揚に震え、震えるほどに大きくなった。長い治世の間、王が自分の声をこれほど大きいと感じた日はない。地の底で何百年も誰にも届かなかった声が今、古の兵に届こうとしている。そう信じる顔だった。

 その背後でヴァルディスの指先から見えない力が床を伝っていた。人の目には、王のほかにその姿は映らない。

 本当の鍵は呪文ではない。王の声に重ねて流し込まれる、悪魔の魔力だった。床の文様が一斉に光り、光がエンドロンたちの足元を駆け上る。暗闇の奥で七十二対の目が同時に灯った。

 量産の兵ですら、これだけの光を放つ。奥の縦坑の、まだ誰も踏み入れない深部で眠るものが目覚めた時、この光がどれほどの大きさになるのか。ヴァルディスだけが知っていた。

 そして、地の底が長く鳴った。

 その震えは北の地脈を伝って南へ走り、遠く帝都の工房の棚まで鳴らした。誰も、それが何の音か知らなかった。


---


 国境を越えた平原でセリア軍はそれを迎え撃った。

 セリアの民は前の晩から逃げ始めていた。荷車に家財を積み、年寄りと子供を乗せ、南へ海へ。街道は列で埋まり、列の後ろからは地響きが追ってきた。振り返った者だけが地平の異形を見た。見た者はもう振り返らなかった。

 それは、三階建ての石の家ほどの背丈で、人の形をしていた。関節の継ぎ目に金属の鱗が並び、一歩ごとに大地が揺れた。

 七十二体の巨大な兵が、隊を組んで歩いてきた。

 セリア軍に兵数の優位はあった。矢が一万本の雨になって降ったがすべて弾かれた。騎兵が突撃し、隊列ごと薙がれた。セリア軍最強の魔法兵団が集中攻撃を浴びせた。村人の使う火種とは桁の違う炎と雷が、エンドロンの装甲の表で散り、煤の跡さえ残さなかった。一刻もしないうちに、平原の上で兵の数の優位が意味を失った。百人で挑んでも一万人で挑んでも、変わるのは数字の減り方だけだった。

 前線の指揮官は声が枯れるまで陣形を立て直し、立て直すたびに陣形ごと消えた。撤退の角笛を吹かせた時、指揮官の手は震えていた。退けば町が燃える。退かなければ、軍が消える。どちらかしかない選択をその日、何十人もの指揮官が強いられた。

 軍は退いた。退いた先の町が燃えた。


---


 報せは切れぎれに帝都へ届いた。

 帝都の側は奇妙な明るさに包まれていた。連戦連勝。新兵器「エンドロン」の無敵。酒場は祝杯の声で膨らみ、広場には戦果を讃える布告が貼り出される。その同じ通りの隅でセリア訛りの者たちだけが口をつぐんで歩いていた。同じ報せが、立場によって祝歌にも弔鐘にも聞こえる。

 昼は行商人の口から届き、夕方は兵士の噂話から届いた。工房でも誰かが手を止めるたび、新しい断片が回ってきた。国境の砦が半日で落ちた。守備隊は矢を射る前に潰された。どの断片もにわかには信じがたい形をしていて、それでも全部つじつまが合っていた。

 工房の終業の鐘が鳴ってもリサはしばらく台を離れられなかった。削りかけの弓が手の中で重い。この一張りも完成すればあの戦場へ行く。行かせないためには戦場そのものを終わらせるしかなかった。

 夜、リサは窓辺でナイアとアレックと並んで立っていた。

 空はもう暗く、濁りも見分けられない。それでも三人とも同じ方角を見ていた。ナイアがリサの手を握っている。その手が汗ばんでいた。


 「……お父さんとお母さん、逃げられたかな」


 ナイアが小さく言った。


 「逃げてるよ。うちは畑の側だから、山の方へ回れる」


 声に確信を混ぜて答えた。半分は自分に言い聞かせていた。両親の顔が浮かぶ。あの村で育ててもらった。無事でいて。祈りは短く、深かった。

 言えなかった名前が一つ残った。

 工房は港側の職人の通りにある。港を落とさずに南へ抜ける道はない。あの通りは軍の進む線の上にまっすぐ乗っている。

 (師匠は、逃げてくれるだろうか)

 考えるまでもなかった。あの夜、村中の目を工房の火に引きつけて自分たちを逃がした人だ。逃げろと言われて逃げるのは弟子の方で、親方の方ではない。

 胃の底が冷たくなった。それでも口には出さなかった。出せば本当になってしまう気がした。


 「……このまま、見てるだけなのか」


 アレックが低く言った。答えを求めた声ではなかった。ここから何ができるかを、この男も知らない。

 それでもリサの頭は勝手に動き出していた。

 あの夜、キヤラは言っていた。ベルーヴァは古代の人型兵器で、エンドロンはその量産型なのだと。元が人の形をしているなら、写しも人の形をしているはずだ。

 (人の形なら、曲がる場所がある。継ぎ目。関節。動くものには必ず動くための隙間がある。クルの目と自分の矢がつながれば……動きの癖ごと見えるかもしれない)

 まだ形も見ていない相手だ。噂の断片と、天使の言葉が一つきり。それだけを頼りに指が図面を引き始めている。

 ナイアが握る手に力を込めた。アレックは暗い空の方角を睨んだまま動かない。クルが窓枠に前足をかけて、低く喉を鳴らした。三人と一頭の影が窓の中で一つの塊になっていた。

 こんな時でも戦い方を探すのをやめられない。それが自分の性分だと、もう知っていた。

 最後に一つだけ、考えても仕方のないことが胸を突き上げてきた。

 帝国の道も、兵站も、軍の練度も、そしてあの発掘さえも。

 (蓮先輩の知識が故郷を燃やしている)


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