第五十一話 震動と決断
毎日投稿予定。
第三章終わり
帝都が揺れた。
昼の工房だった。棚の矢が一斉に鳴り、吊るした弦が揺れる。職人たちが手を止めて天井と床を交互に見た。揺れは十を数えるほどで収まったが誰も仕事に戻らなかった。
「地震か?」
「……違う。下から突き上げてきた」
「最近、多すぎる。先週は三度、今週はもう四度目だ」
「北の発掘場の方じゃ、夜眠れんと聞いたぞ」
「やめとけ、その話は」
職人頭が低く言って会話が切れた。北の話はこの工房の禁句になりつつある。
帝都に来て、四度目の月が満ちていた。あの低い振動はもう夜だけのものではなくなっている。昼も地の底から一定の律動で響いてくる。鼓動だと知ってしまえば、もう別のものには聞こえない。地震の揺れは意味を持たないが、これは拍子を刻んでいる。刻んでいるものには、必ず主がいる。
揺れで床に散った矢をリサは拾い集めた。一本ずつ検めて矢筒に戻す。曲がりはない。一本ごとに手が止まった。この矢はどこへ行くのだろう。誰の手で番えられ、誰に向かって飛ぶのだろう。職人は矢の行き先を選べない。
リサは作業台の発注書に目を落とした。
弓、三百張。矢、五千本。先月の倍だった。先月はその前の月の倍だ。納期は常に「至急」で用途は誰も問わない。材料の木も竹も森ごと刈られ、鉄は他国から奪った鉱山から来る。奪うために武器を作り、作るためにまた奪う。
この国は止まれない。
ずっと感じていた違和感が、初めて言葉の形になった。
戦争のために戦争をする。勝つために膨らんで、膨らんだ体を養うためにまた戦う。
王も総帥も、もう部品なのではないか。だとしたら、誰が止めるのだろう。
発注書の数字が急に冷たく見えた。この工房の弓も矢も、同じ歯車の一枚だ。そして歯車を回す力の中心に、あの振動の主が据えられようとしている。
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同じ頃、玉座の間に王がいた。そして、灯りの届かない場所にもう一つ。
玉座の間は天井が高く、磨かれた床が足音を四方の壁へ拡散させて消していく造りをしている。広さは権威のためにあり、暗がりは権威の影のためにあった。
その暗がりの奥で何かが動いた。
螺旋状の角を持つ頭部が闇から浮かび上がる。黄色い目が一度、瞬きもせずに玉座を見た。足音はしない。暗がりの濃さが一段深くなった場所にヴァルディスは立っていた。
玉座のヴォルカ王が広げた地図に身を乗り出している。その背後、灯りの届かない場所からヴァルディスの声が落ちてくる。
「揺れたな。今日のは大きかった」
王がつぶやいた言葉に、返事はすぐには来なかった。
「鼓動が強まっている」
闇の中の声は淡々としていた。
「目覚めは近い。目覚めれば、世界はお前のものだ」
「うむ。長かった」
王の声に年月の重みがこもった。即位から二十八年。膨らみ続ける軍と追いつかない国庫と止まれば崩れる治世。止まらないために走り続けた果てに、北の地の底で、走り続けなくてよくなる力が見つかった。そう、王は信じている。
王は地図の上で手を滑らせた。セリア。その先の国々。手のひらが地図の端から端までを撫でていく。
「余の力だ。余の意思で余が手に入れる。父も祖父も成せなかったことを余が成す」
闇の中で、気配だけが微かに揺れた。ヴァルディスは応えなかった。
王は気づかない。自分の野望だと信じている欲望がいつから胸の中にあるのか思い出せないことに。
糸は見えない場所にだけ、張られていた。
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午後、レオンが工房に来た。
納品前の検品という、月例の視察だった。部下を二人連れて台の上の弓を順に検めていく。途中、リサが調整した一張りの前で手が止まった。グリップの削り。押し手の逃がし。レオンは黙ってそれを構え、一度だけ素引きして台に戻した。何も言わない。
その時、また床が低く震える。
短い揺れだった。職人の誰かが手を止め、すぐに戻す。部下の一人が検品簿を繰って読み上げた。
「三百張のうち、二百は前線へ。残る百は北の警備隊へ回すよう指示が出ております。納期は……」
「……何のために掘っている?」
部下が顔を上げた。
工房の音が消えた。鉋も、鑢も、炉の前の足音も止まる。誰も総帥を見ない。見ないことでこの場をやり過ごそうとしている。北の話はこの部屋の禁句だ。破ったのが総帥だったというだけで、禁句であることは変わらない。
「は?」
「いや」
レオンは弓に目を戻した。
「いい。続けろ」
鉋の音が一つ、また一つと戻ってくる。リサは作業台の陰からその横顔を見ていた。今の問いは報告への確認ではない。気づいた時にはもう問いを口にしていた。問うた本人が、いちばん驚いた顔をしていた。
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その夜、小部屋に全員が集まった。
蝋燭の火を囲む顔ぶれはいつもの通りだった。誰の顔も迷いの色が薄い。昼の震動が、それぞれの胸に何かを確信させていた。
リサ、ナイアとキヤラ、棚の上のメイル。今夜はアレックも中にいて、クルだけが扉に鼻先を寄せて伏せている。誰かが廊下に入れば、この耳が先に拾う。床の振動はもう手をつかなくても感じ取れた。
「臨界が早まってる」
キヤラがナイアの口を伝って言った。
「数週間と言ったけれど訂正するわ。もっと早いかもしれない。あの鼓動は私たちが思うより目覚めに近い」
沈黙が落ちる。蝋燭の火だけが揺れていた。リサは順に皆の顔を見た。それから息を吸う。
「待ってても時間が削られるだけ。なら……ヴァルディスと直接対決するしかない」
誰も驚かなかった。
「結び目は一つなの」
キヤラが続けた。
「王を操る糸もレオンの洗脳も発掘も、全部あの悪魔が仕組んでいる。ヴァルディスを断てば、結び目ごと緩む。逆に言えば……あれを残したままなら、何を切ってもまた結ばれる」
(的は、一つ)
リサの中で迷いがなくなった。
届けるのをやめるわけではない。あの人の扉を叩き続けても、外から糸を張り直され続けるなら永遠に届かない。先に糸を断つ。順番が決まっただけだ。
アレックが真っ先に頷く。当然だ、という頷き方だった。ナイアが頷き、その同じ顔の奥でもう一人の気配も静かに重なる。クルが頭を上げ、金色の目でリサを見る。怖くないわけがなかった。それでも迷う者はこの部屋に一人もいなかった。
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同じ夜、執務室の窓辺にレオンは一人で立っていた。
机の上には決裁待ちの書類が積まれている。進軍計画。物資の徴発。発掘場の増員。どれも署名一つで動く書類だった。その一番上の一枚にレオンは今日、署名をしていない。明日でいい、と部下に告げた。明日になれば書くのか自分でも分からないまま。
眠れない夜が増えている。窓の外には帝都の屋根が連なり、その遥か北の闇で今夜も地の底が低く鳴っていた。「何のために掘っている?」。昼の自分の声がまだ耳に残っていた。
レオンは窓の外を見ていた。
いつもなら、痛みの手前で問いは途切れる。今夜は途切れなかった。
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