第五十話 充分すぎるくらいだ
毎日投稿予定。
アレックはナイアを見ていた。
渡り廊下の襲撃から三日が過ぎた朝、工房の医務室で、アレックは肩の傷の経過を診てもらっている。いつもの包帯替えだ。
ナイアが古い布をほどき、傷口を確かめ、新しい布を巻いていく。手際は静かで迷いがない。
あの日から、アレックは布を見ていない。巻かれていく布でも自分の傷でもなく、巻いているナイアの手元を見ている。手元からときどき視線が上がり、上がった先で慌てて窓の外へ逃げる。逃げる回数だけが日ごとに増えていた。
そんなアレックの動きを、リサは薬棚の整理をしながら見ていないふりをした。
「はい、終わり。もう重い物を持っても平気だけど、無茶はしないで」
「……ああ、助かった。ありがとう」
アレックの返事が半拍遅れた。ナイアは気にも留めずに片付けを始めた。アレックはその背中を見てから、逃げるように出ていった。
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その日は弓兵訓練場で行射練習の指導をする日だった。アレックが道具運びの手伝いで一緒に来ている。
着いてみると、訓練場の隅に人が集まっていた。
木剣を並べた台。地面に引かれた円。非番の兵まで見物に出てきている。荷を下ろしたアレックのところへ兵が一人来て、今日は簡単な試合をやってもらう、と告げた。噂は朝のうちに兵舎を一周していたらしい。総帥の精鋭と例の奴隷の少年がやるのだと。
「三人がかりだ、すぐ済む」
誰かが笑い、賭けの符丁が小声で飛び交った。掛け率は聞くまでもない。少年の側に賭ける者はほとんどいなかった。
レオンが来た。
「先日の襲撃を受けて、工房区画の警備を査定する」
兵たちに向けた声だった。襲われたのは王宮の渡り廊下だ。なのに査定に上がるのは工房区画になっている。誰も疑問を口にしなかった。
「賊は複数で連携していた。一人で抑え込める戦力が要るかを見る。……賊を想定する。三対一だ。獣は使ってよい」
アレックに木剣が渡され、向かいに帝国兵が三人並ぶ。総帥直属の選りすぐりだという。アレックが小さくうなずく。レオンが開始の手を振った。
三人が散開する。教科書通りの包囲だった。正面が誘い、左右が回り込む。アレックは正面だけを見ていた。視線も体の向きも正面だけ。「脇が空いているぞ」と見物の兵が囁いた。
剣を習ったことは一度もない男だ。リサはそれを知っている。あの夜、短剣一本で狼に向かって、一合で肩を裂かれていた。
クルが跳んだのは右側。
回り込みかけた兵の腕に体当たりして木剣を叩き落とす。クルの速さに兵の木剣が間に合わなかった。
数える間もなく、三対一が二対一になっている。
アレックは右を見ていない。見る必要がなかった。右はクルが潰す。そう考えた時点で、アレックの中ではもう起きたことだった。だから左だけを見ていればいい。
左から来た打ち込みは避けきれなかった。木剣が肩に入る。息が詰まる音がここまで届いた。
それでも足は止まらなかった。打たれた勢いのまま懐へ入って、両手で握った木剣を兵の手首に叩きつける。技ではない。石材を担いで固めた腕で、重い物をただ振り下ろしただけだ。
乾いた音とともに木剣が地面に転がった。
兵が手首を押さえて後ろへ下がる。信じられない、という顔だった。負かされた顔ではない。打たれることを厭わない相手と初めて向き合った顔だ。
残るは一人。正面の兵がアレックににじり寄る。アレックの隣にクルが戻っていた。兵の重心も手足の位置も、すべて読み切っているのが立ち方で分かる。
正面の兵は果敢だった。三合打ち合って、三合とも押されたのはアレックの方だ。木剣が鳴るたびに踏み止まる足が半歩ずつ下がっていく。四合目、崩れかけた膝が砂を掻いた。
その足元に、クルの牙が音もなく当てられた。
兵は振り上げた木剣を止めたまま動かなくなり、それから両手を上げた。
「参った。……何だ? この犬は」
兵は土を払いながら、本気で訊いていた。負けた直後の顔に悔しさより先に不思議さが浮かんでいる。
「相棒だよ」
アレックが答えた。肩を押さえたままだった。
訓練場が妙な沈黙に包まれる。総帥の精鋭が三人がかりで、奴隷の少年と獣を抑え込めなかった。誰かが小さく「ひゅー」と口笛を吹き、慌てて飲み込んだ。レオンは何も言わなかった。ただ最初から最後まで瞬きの少ない目で見ていた。値踏みの目とも警戒の目とも少し違う。何かを思い出しかけている目にリサには見えた。
輪が解けると負けた三人がアレックを取り囲んだ。悔しがるより先に訊きたがっている。どうして脇を空けたまま平気なのか。あの犬とどうやって意思疎通しているのか。アレックは肩をさすりながら、うまく答えられずにいた。クルはその足元でもう寝そべっていた。仕事は終わった、という顔だ。
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人がはけた後、レオンがアレックを呼び止めた。
リサは弓袋を抱えたまま、数歩離れた場所で片付けの手を動かしていた。動かしながら、耳だけがそちらを向いている。
「訊きたいことがある」
アレックは木剣を台に戻す手を止めなかった。
「お前は奴隷だ。命じられた仕事のほかに、命を張る理由はない。先日の渡り廊下でお前は矢の前に出た。なぜあの娘に従う」
「従ってるつもりはない」
「では何だ」
木剣が台の上で揃った。アレックが顔を上げる。
「好きだから。それだけだ」
風が砂を運んで、地面の円の線を少しだけ崩した。
リサは手を止めなかった。あの草地の夕方に聞いた声とは、色が違っていた。奪い返そうとする声ではない。ただ自身の立つ場所を告げる声だ。
「……それだけで充分なのか」
レオンの声が変わっていた。詰問ではなくなっている。
「充分すぎるくらいだ」
当たり前のことを訊かれた者の答え方だった。理由の後ろにさらに理由があるとは思ってもいない声。
レオンは答えなかった。
答えの代わりに、自分の手のひらを一度だけ見た。何かを握っていたはずの手を確かめるような、短い動作だった。それから踵を返して歩いていく。歩幅がいつもより狭かった。
リサは小さく息を吐いた。
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夕方、アレックの包帯の具合が気になって医務室へ戻ると、扉の手前で声がした。
「今日、三人相手に勝ったんだって?」
ナイアの声だった。
「クルとだ。俺一人じゃない」
「アレックは強いね」
少しの間があった。
「……お前の方がずっと強い」
「私? 弓も剣も持てないよ?」
「そういう強さの話じゃ……」
言葉がそこで止まる。
「じゃあ、どういう強さ?」
もう一度、間があった。今度は長かった。
「……俺は殴られたら殴り返す。それしかできない。お前は倒れてる奴の手当てをする。相手が誰かも訊かずにな。収容所でもそうしてただろ」
「あれは、ただ手が空いてたから」
「この前、俺に怒鳴っただろ。あれで俺は次から気をつける。何十回言われても直らなかったことだ」
布を巻く音が止まっていた。
「俺は人を止められない。お前は止められる。……そういう強さだ」
しばらく何も聞こえなかった。
それから、ナイアの声がした。
「……そんなこと、言ってくれたの初めて」
リサは扉に手をかけたまま、中に入るのをやめた。
廊下の窓から夕日が入る。妹の声が、聞いたことのない高さで少しだけ笑った。
「面白かった!」
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