第五十四話 報せ
毎日投稿予定。
行商人が目を伏せた。
報せのない数日が続いていた。
セリアの戦況は帝都の祝勝の声の隙間からしか入ってこない。リサたちは南の空ばかり見る日々を過ごしていた。そんな朝の続きにあの荷車は来た。
工房区画の搬入口だった。帝都に入って以来、ときどき品物と一緒に外の話を運んでくれる、帝都の行商人だ。値切りには渋いが口は固く、目端が利く。南の街道を回ってきた荷だった。その男が今日は荷台に手をかけたまま、なかなかこちらを見なかった。革紐を意味もなく結び直し、ほどき、また結ぶ。話したくない話を抱えた人の手つきだった。
「……あんた、セリアの出だったな」
「はい」
「港側の職人街がやられた」
声が低かった。
「工房のあたりも残ってないそうだ。ただ……親方の話だけは逃げ延びた弟子から聞いた」
「…………」
「弟子を全員逃がして一人で工房に残ったと。道具を全部、弟子に分けてな。逃げた連中は街道で振り返って見たそうだ。工房のあった場所を」
行商人はそこで言葉を切った。
「……そう」
自分の声が遠くで聞こえた気がした。
「教えてくれてありがとう」
男は何か言いかけて、帽子のつばを少し下げた。
搬入口から居室までは歩いて五十歩ほどの道のりだ。
その五十歩の記憶がない。すれ違ったはずの誰かもくぐったはずの戸口も何ひとつ残っていなかった。扉を閉めて二歩進んだところで膝から力が抜けた。床が近くなる。冷たい石の床に手をついてリサはそのまま動けなくなった。
息が浅い。
まだどこかで報せを疑っていた。聞き間違いかもしれない。別の工房の話かもしれない。この目で確かめたわけでもない。でも、弟子を逃がして自分は工房に残った。あの人ならそうする。あの人の生き方に疑う余地が最初からなかった。
視界の中で床の石目が歪んだ。
部屋の中は静かで、自分の息の音だけが聞こえた。
師匠。
最初の記憶は手だった。8歳で雨宿りに転がり込んでから何年も、ただ座って見ているだけの子供をあの太い手は追い出さなかった。弓を持たせてもらえたのは13の歳だ。それからは木の持ち方を教わり、こちらの持ち込んだ理屈は鼻で笑われてから採用された。冬は炉の前を譲り、夏は風通しのいい側の台をくれる人だった。
炉の前の背中。木を叩いて音を聴く太い指。生意気を言うたびに鼻を鳴らし返され、それでも手だけは一度も止めなかった。
深夜の工房で二人して図面を睨んだ冬。初めての弓が完成した朝の工房の匂い。
村の工房を自分の手で焼いた夜も、同じ顔をしていた。怒っているくせに笑っている、みっともないほど整っていない顔。あの時も、もう会えないと思った。今度は、本当だった。
順番も脈絡もなく思い出した。その一つひとつがもうこの世のどこにも続いていなかった。
どれだけそうしていたのか分からない。
窓の光が床を移っていき、時間が過ぎたのだと知った。ふいに別の声が浮かんできた。
(……弓を引くことは自分と向き合うことだ)
蓮先輩の声だった。
大学二年の春、初めての大きな大会の前。緊張で射が乱れていた美月に射場の隅で先輩は言った。的を睨むな。相手に勝とうとするな。弓はそういう道具じゃない。引き分けの中にいるのはいつだって自分一人だ。自分と向き合えた者の矢だけがまっすぐ飛ぶ。
そう言って先輩は美月の肩を軽く叩いた。叩かれた場所から緊張がほどけていった。あの日の射場の光まで思い出せる。夕方で西日が床を照らしていて先輩の影が長かった。
二人きりの時だけの、あの呼び方。呼ぶたびに先輩は少しだけ困った顔をして、それでも止めろとは言わなかった。
いつか伝えるつもりだった。試合が終わったら。この代が終わったら。理由はいくらでも先に延ばせた。
言えないまま、先輩は死んだ。
言える相手はこの世界にいる。同じ壁の内側にいて、それでもまだ届いていない。
(怒りに任せて矢を放てば)
リサは床についた自分の手を見た。
(それは先輩の言ったアーチェリーじゃない。師匠の作った弓でもない)
不思議だった。会ったこともない二人なのに教えは同じ。射は自分と向き合うためのもの。弓は人を守るためのもの。
怒りはある。なくならない。胸の中で熱く渦を巻いている。
でも、この怒りで弓を引いてはいけない。
二人を失った怒りを理由に、二人がくれたものを捨てることになる。
立つ。
膝に力を入れてリサは立ち上がった。
座り込むのは終わりにする。
水を汲んで顔を洗った。髪を結び直し、仕事着の紐を締める。鏡の中の目は赤かったがまっすぐだった。
順番が変わっていた。セリアへ行く。師匠の工房へ。それからあの巨人たちを止める方法を探す。
あの夜、結び目は一つだと決めたはずだった。ヴァルディスを断つ。何を切ってもまた結ばれるのなら、先に糸を断つしかないと。その順番を今日、自分で崩した。崩したことは分かっていて、それでも足は南を向いていた。
荷物はもうほとんどまとまっていた。
弓袋。矢筒。替えの弦。工具の小袋。いつでも動けるように支度だけは数日前から少しずつ整えてあって、足りないのは出発の言葉だけだった。窓の外では南の空が夕暮れに沈みかけている。あの空の下に行く。
「行くよ」
誰もいない部屋で声に出して言った。
扉を開けると廊下にアレックたちが待っていた。
アレックもナイアも何も言わなかった。聞いていたのか察したのか、リサはそれすら聞かなかった。そこにいてくれた。
ナイアが歩み寄ってリサの手を両手で包んだ。何も言わないまま、強く、一度だけ握る。ナイアの目も赤かった。届け物のたびにあの太い手で頭を撫でられた子供の目だ。
アレックは壁から背を離して短く言った。
「支度はできてる」
メイルの姿はない。あの天使は呼んで来るものではなかった。
クルが最後に歩み寄ってリサの手に鼻を押しつけた。
「……行こう」
リサは二人と一頭を順に見て言った。
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