第四十八話 盾
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アレックが前に出た。
考える間もなかった。資材を運ぶ、朝の渡り廊下でのことだ。
「今日は荷が軽いな」と笑い合っていた。荷の横をクルがついて歩いていた。ナイアも一緒だ。薬草の補充のついでに荷運びを手伝うと言って聞かなかった。リサの背には納品用の一張りと矢筒がある。荷を置いた足で弓兵訓練場まで、改修の済んだそれを届ける手筈になっていた。
その途中だった。横を歩いていたアレックが、飛び込むようにリサの前へ出た。直後、空気が裂ける音。短い矢が三本、続けざまに来た。一本がアレックの肩口を掠めて背後の柱に突き立ち、残りは壁と柱に食い込んだ。
「伏せろ!」
アレックの声と同時にリサは柱の陰に荷を投げ出す。空いた手でナイアの腕をつかんで石柱の後ろへ引き込み、そのまま背の弓を抜いた。考えてはいなかった。廊下の先に三つの影が立っていた。足音がない。動きが揃っている。黒い装束に小型の弩。
(昨日のとは違う)
昨夜の刺客は夜と単独を選ぶ闇討ちだった。これは朝の、人目のある王宮の廊下だ。ここで動ける部隊は帝国の内側にしかいない。それもよほど高い場所の指図でなければ。うなじの毛が逆立つ感覚があった。
クルが低く身を沈めた。
アレックはクルに何も言わなかった。視線だけを先頭の影に振る。クルが跳んだ。アレックの考えた方へ寸分違わず。白い体が床を蹴り、先頭の男の腕に牙が食い込む。次の矢を番えかけていた弩が落ちた。あの午後、資材置き場で棒切れを相手に重ねていた訓練だった。それが実戦で初めて形になった。
二人目が撃ち終えた弩を投げ捨て、短剣を抜く。
リサは弓を構えていた。ほとんど無意識のうちに。
番えた矢の先に男の喉があった。
(殺せる)
その思いは驚くほど静かに来た。距離は十二歩。この距離で外したことは一度もない。
喉は白く、無防備だ、と感じる自分がいちばん怖かった。
アレックを掠めた矢。ナイアまで届くかもしれない刃。この一本で終わらせられる。
殺したい、とはっきり思った。
きれいごとの混じる余地のない、熱く煮詰まった感情。誰かを守るため、という言い訳の形すらしていない。
指が弦を引き絞っていく。
「リサ、止まれ!」
アレックが叫んだ。肩口を押さえたまま、こちらを見ている。
「お前の弓は殺す弓じゃない」
はっとした。リサの表情から力が抜ける。
弦の張力が指にある。男の喉が狙いの先にある。
ドロスの声が胸をよぎった。
(急所を外す腕がねえ奴に、中てるかどうかを選ぶ資格はねえ)
あの工房の炉の匂い。削りかけの木の白さ。
引き絞った弦の内側で二つの力がせめぎ合っていた。
リサは狙いを下げた。
矢は男の足を射た。短剣を持つ手から力が抜け、落ちた刃が石床を滑っていく。
(急所は外した)
それだけだ、と自分に言い聞かせる。武器だけを弾く、といつか言った。今の一射はその約束から半歩はみ出している。はみ出した分を、指がまだ覚えていた。
三人目はまだ装填の途中だった。その手が弦を掛け終える前に、リサの二の矢が弩の弦を断つ。乾いた音とともに張りを失った弩が石床に落ちて、重い音を立てた。
クルは先頭の男の腕を噛んだまま、床に押さえつけていた。
警鐘が鳴った。
渡り廊下の両側から衛兵が雪崩れ込んでくる。三つの影は申し合わせたように抵抗をやめ、床に伏せた。
捕まった後の沈黙まで訓練されている。連行されていく三人を見送りながら、リサは弓を降ろす。指が弦の感触を覚えたまま離れない。
足元に短い矢が一本、落ちていた。拾い上げて、矢柄の仕上げ、矢じりの鍛え、羽根の付け方。指先が勝手に検めていく。職人としての癖だった。そして検めた指が冷たくなる。
これは闇市の粗悪品ではない。規格の揃った、軍の工程で作られた矢だ。作り手には罪のない、ただ精確なだけの仕事が今朝は自分に向けて飛んできた。
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同じ日の朝、レオンは執務室で報告書を読んでいた。
昨夜の刺客の件だった。
弓工房周辺。単独犯。身元不明。標的、の一行に目が届く前に視線が勝手に工房の名を探していた。
(無事だったのか?)
その問いが最初に浮かんだことに遅れて気づく。レオンは書類を置いた。帝国の備品が損なわれていないかを確認する。それが総帥の職分のはずだった。なのに、問いの順番が違う。
「工房区画の夜間巡回を増やせ」
部下が顔を上げた。
「総帥、あの区画の優先度は……」
「治安維持だ。問題があるか?」
部下は下がった。レオンは窓の外に目をやった。
(俺は何を守ろうとしている)
問いはそこで途切れた。続きを探すと頭の奥が軋んだ。痛みの手前で思考が逸れ、安堵した。
扉が乱暴に開いて伝令が転がり込んできた。
「王宮区画で襲撃です。渡り廊下に賊が三名、すでに制圧されて……」
気づくとレオンは立ち上がっていた。
椅子が背後で鳴った。伝令が言葉を切って目を丸くしている。総帥が報告の途中で立つ。そんなことはこの執務室で一度も起きたことがなかった。
(……何をしている、俺は?)
レオンはゆっくりと座り直した。
「続けろ。死傷者は?」
「軽傷一名のみです」
「そうか。詳細の報告を急がせろ」
声はいつも通りに出た。机の下で拳だけが固く握られていた。
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王宮の医務室に通された時には、ナイアがもうアレックの肩に布を巻いていた。
傷は浅い。掠っただけだ。それでもナイアの手はいつもより速く、いつもより強く動いていた。
「痛っ……おい、もうちょっと優しく」
「我慢して」
「掠っただけだって。大丈夫だ」
「大丈夫じゃない!」
医務室が静まり返った。
ナイアが怒鳴った。リサは妹が人に怒鳴るところを生まれて初めて見た気がした。ナイアの目に涙が盛り上がって落ちる寸前で止まっていた。
「あと少しずれてたら、掠っただけじゃ済まなかった。そういうのを大丈夫って言わないで」
アレックが目を見開く。
それからゆっくりと表情がほどけて、笑った。困ったような、嬉しいような、初めて見る種類の笑い方だった。
「……悪かった」
「うん」
ナイアは洟をすすって布の続きを巻き始めた。今度は丁寧だった。アレックは肩を預けたまま、巻かれていく布ではなく、巻いている手元を見ている。クルがアレックの足元に伏せて目を閉じる。
リサは少し離れた所からそれを見ていた。
守られた。アレックの背中に、クルの牙に、そしてあの声に。お前の弓は殺す弓じゃない。あの一言がなければ、どうなっていたか。考えると胃がきゅっと縮む感じがした。
それから自分の右手に目を落とす。あの瞬間、喉を狙って引き絞った手だ。殺したいと思った。あの思いは消えてくれない。なかったことにはできない。抱えたまま、それでも降ろす。たぶんこの先も何度でも。
息をひとつ吐いて、握って開く。その手はまだ、弦の形を覚えていた。
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