第四十七話 影からの矢
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月の下で、矢がこちらを向いていた。
翌日の、夜の帰り道だった。背には弓袋、腰には矢筒。弓兵向けの改修を終えた一張りを、納品前に居室で最終確認するつもりだった。矢筒には試射用の矢が数本だけ入っている。
職人街の細い路地は寝静まって、自分の足音だけが石畳に響く。隣にはクルがいた。リサの仕事が夜にかかる日はいつの間にか迎えに来ている。誰が教えたわけでもない、クルの習慣だ。
月は雲に隠れていた。
頭の中に声にならない声が突き刺さったのはその時だった。
(危ない!)
言葉ではなかった。感覚の塊が言葉の形を取って飛び込んでくる。方向まで一緒に。
(右上。屋根の稜線)
体が考えるより先に動いた。
弓袋から弓を抜く。矢筒から一本。番える。この一連の動きを体は何回も繰り返してきた。前世と今世、二つの人生をまたいで。考えてから動く速さでは間に合わない世界がある。体に刻んだ手順だけがその世界に追いつける。
雲が切れて月光が路地に落ちた。
音が遠のいた。
屋根の上に人影があった。弓。引き絞られた弦。鏃だけが光を返さない。月明かりの中でそこだけが黒く抜けて、こちらを向いていた。呼吸が深いところで止まり、視界の縁が消えて、その一点だけが残った。
放たれてからでは間に合わない。放たれる前なら間に合う。
(筋は見えてる)
クルが方向をくれていた。引き分け。アンカー。骨が定位置に収まる。狙うのは鏃ではなく、その手前で張り詰めている一本の線。クリッカーはこの弓に付いていない。それでも引き幅が決まった瞬間、体の中で小さくカチッと鳴った。
リリース。
「バチンッ」と乾いた音が屋根の上で弾けた。
断ち切られた弦が跳ね、行き場を失った矢が力なく宙を切って、石畳に落ちた。転がった鏃は黒く塗られていた。月の下でも光らないように。夜の仕事に慣れた者の道具だった。
屋根の上で影が動いた。
逃げる。クルはもう走っていた。白い体が塀を蹴り、屋根の影が降りる先の路地へ回り込んでいく。リサも走った。角を曲がると決着はほとんど着いていた。組み伏せられた男の背にクルが乗り、肩口に噛みついている。顔を歪めたまま、男が身をのけぞらせて腰の短剣に手を伸ばした。
リサはすかさず矢を射った。
短剣の柄を矢が弾く。乾いた金属音とともに刃が石畳を滑っていった。男の手が空をつかんで止まる。
「動かないで」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
騒ぎを聞きつけた夜警の兵が角灯を揺らして駆けてくる。男は最後まで一言も発さなかった。名乗らず、呻かず、リサの顔を一度だけ見て、それきり目を伏せた。黒ずくめの装束に、身元の分かるものは何ひとつ見当たらなかった。
「お手柄だが……あんた、何者だ?」
夜警の一人がリサと弓を見比べて言った。
「弓工房の職人です。納品の帰りで」
嘘ではない。全部でもない。角灯がリサの顔を照らした。夜警の目が一度、大きくなる。
「……あんた、御前で炎を消したっていう」
リサは答えなかった。夜警も、それ以上は聞かなかった。答えを聞いてしまえば報告書に書かなければならなくなる、という顔だった。男を引き立てて角灯が遠ざかっていく。
騒ぎで職人街が少しだけ目を覚ましていた。あちこちの窓に灯りがともり、雨戸の隙間からこちらを窺う目が並ぶ。誰も外には出てこない。この街の人々は夜の騒ぎへの関わり方を心得ていた。見る。覚える。でも出ない。やがて灯りは一つずつ消えていき、路地に夜が戻ってくる。
クルと二人きりで残された。
「……ありがとう。クルの声がなかったら、合わせられなかった」
クルがリサの手に鼻先を押しつける。温かい。さっきまで矢が飛び交っていた路地でその温かさだけが現実の感触だった。手のひらに遅れて気づく。指先が冷たい。震えてはいない。
(クルが筋を見せて、私が射る)
いつの間にか、そういう連携ができあがっていた。訓練で作ったものではない。長い時間を一緒に生きるうちにできあがっていたものだ。村の草地の狩りで、火口の断崖で、そして今夜の路地で。クルの感覚と自分の射が継ぎ目なくつながっている。
弓袋に弓を戻して歩き出す。
同じ弓だ。昼の工房では、職人頭が改修の細工を見て「また妙なもんを付けたな」と笑い、それから真顔で図面を写していった。数刻前の話だ。同じ日のこととは思えなかった。
(誰が何のために?)
黒い鏃。夜目の利く腕。雇い主の影は見えない。でも狙われる理由なら、心当たりが増えすぎていた。王前の射撃。訓練場への介入。総帥との距離。目立つことはこの国では安全と引き換えになる。その代価を今夜、払わされただけ。そう自分に言い聞かせる。言い聞かせないと足が止まりそうだった。
居室に戻るとナイアがまだ起きていた。
顔を見ただけで気づかれた。何があったかを話すと、ナイアは包帯の箱を引き寄せてリサの手を取り、どこにも傷がないことを確かめてから、ようやく息を吐いた。
「……明日、アレックにも言うからね」
「うん」
言われる前にそのつもりだった。一人で抱えて動く段階ではなくなっている。それだけは今夜のうちに決めておきたかった。
居室の前でクルが先に伏せる。今夜はここで寝る、という伏せ方だった。
「……おやすみ。ありがとう」
扉を閉める寸前、金色の目がこちらを見ていた。
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同じ夜、高い場所からそれを見ていた者がいた。
塔の上の暗がりでヴァルディスは路地の小さな決着を眺め終えたところだった。
駒が狂い始めている。
総帥と呼ばれるあの男の精度が、会うたびに、日を追って乱れていた。訓練場で奴隷の娘に理屈で言い負かされた。執務の判断に説明のつかない遅延が混じる。娘が去った後の射場に一人で残る夜が増えた。あの娘と接触するたび、洗脳の層が薄くなっていく。かつては誤差など計算に入れる必要もない駒だった。人の心を縛る術において己の仕事が狂った例は長い長い時間の中で一度もない。その自負が初めて揺らいでいる。
発掘は最終段階だ。
駒の洗脳が解ければ、発掘の指揮系統が崩れ、すべての計画が遅れる。ならば、乱れの源を取り除けばいい。娘を消す。それだけの、単純な算術だった。
その算術が今夜、外れた。
犬が知らせ、娘が射ち、互いを庇い合う。ヴァルディスは塔の上からそれを最後まで見ていた。娘は刺客を殺せた。なのに殺さない。犬はあえて肩口に噛みついた。なぜ首に牙を突き立てない?
理由が分からない。
あの犬はなぜ矢の前に身を晒せるのか。あの娘はなぜ自分を殺しに来た者を生かすのか。損得の線で結ぼうとするとどこかで必ず切れる。切れた線の先に何かがあった。それが何なのか分からない。
もう一つ、前の晩から兵の間で妙な話が回っていた。奴隷区画の半地下、手当てをする娘のいる場所でのことだ。
見回りの兵が一人、娘の前で槍を持ったまま膝をついたのだという。報告は途中で消えた。誰かが握り潰したのではない。報告しようとした兵自身が、言葉を見つけられずにやめたのだ。
ヴァルディスはその話を切り捨てた。奴隷が奇跡を語るのはいつの時代も同じだ。
眼下の帝都は何も知らずに眠っている。
屋根の連なりの下で何万の人間が呼吸をしていた。憎み合い、庇い合い、明日の心配をして眠る生き物たち。長い間、駒として動かすだけだった群れの中に計算の外で動く小さな点がいくつか生まれている。あの娘。あの犬。手当てをする娘。そして、工房の裏で犬相手に棒を振っていたあの少年。点と点が線で結ばれていく。その線の名前をヴァルディスは知らなかった。
なぜ、互いのために命をかけられるのだ。答えは出なかった。
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