第四十六話 「両方よ!」
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その夜、ナイアの声が変わった。
奴隷区画の半地下は夜になると底から冷える。壁際の松明は二本きりで人々は毛布を肩に寄せ合っていた。梁から下がった薬草の束。手当ての順番を待つ列。子供を寝かしつける母親。隅で咳き込む老人。いつもと同じ顔ぶれの夜だ。ただ、空気だけがいつもより重かった。北の発掘に人手を取られ、配給が減ったという話が昼のうちから区画を回っている。誰もが先の見えないまま、身を縮めて座っていた。
ナイアは老人の背中をさすっていた。
胸の奥がふっと温かくなる。怖い熱ではなかった。冬の朝、リサが先に入って温めてくれた寝床にもぐり込む時の、あの温かさに似ている。
「大丈夫。息はゆっくりでいいの」
自分の声だ。自分の言葉だ。なのにいつもより静かで、いつもより遠くまで届いた。ざわついていた半地下が水を打ったように静まる。老人の咳がすっと収まった。
「……今のはあんたの声かい?」
老人が振り返る。ナイアは答えられなかった。
次は鍛冶場で腕を焼いた少年だった。
包帯を替えるだけのつもりだった。布をほどき、赤く爛れた皮膚にそっと手のひらを重ねる。温かさが胸から腕へ、腕から手へ流れていくのが分かった。手を離す。爛れが薄れていた。少年が目を丸くして自分の腕とナイアの顔を何度も見比べる。
(今のは私じゃない)
うまく言えない感覚だった。誰かが一緒に手を当ててくれている。そんな感じ。
かまどの前で湯を沸かしていた老人が手を止めた。湯呑みを運んでいた子供も立ち止まる。誰もがこちらを見ていた。列の後ろで誰かがすすり泣く。配給の話。北の話。行き場のない不安が、その泣き声に集まっていく。
ナイアは思わず口を開いた。
「大丈夫。ひとりぼっちの人は、ひとりもいない」
言ってから、自分でも何を言ったのか分からなかった。それでも続きが勝手に出た。
「私はここにいる」
大きくないのに遠くまで届く透き通った声。ナイアの声であるはずなのに違う響きとなって広がる。
考えて出した言葉ではない。でも借り物でもない。ずっと自分が言いたかったことを誰かが一緒に言ってくれた気がした。
最初に片膝をついたのはあの老人だった。続いて子供を抱いた母親。職人たち。入口で見回りをしていた帝国兵までが槍を握ったまま、ゆっくりと片膝をついた。兵士は自分でやった動作に自分で驚いた顔をして、それでも立ち上がらなかった。
「聖女様……」
誰かの呟きが落ちる。前からそう呼ぶ人はいた。手当てをしてもらった礼のような、身内の呼び名だった。
今夜のそれは違った。遠くにあるものを呼ぶ声だった。
ナイアは慌てて首を振った。
「やめてください。私はただの手当て係ですよ」
いつもの自分の声に戻っていた。それでも人々はしばらく立ち上がらなかった。
向けられる目が今までと違う。手当て係に向ける目ではなかった。
ナイアは自分の内側に、小さく問いかけてみる。
(ねえ。今のはあなた?)
返事の代わりに温かさがそっと引いていった。出しゃばらない誰かの気配だった。
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帰り道、リサが待っていた。
薬草を届けに来て、後ろの方で見ていたらしい。二人で夜道を歩く。月が高く、吐く息が白い。並んで歩くと歩幅を合わせてくれるのが分かる。小さい頃からリサはずっとそうだった。
「お姉ちゃん」
ナイアは白い息と一緒に言葉を押し出した。
「最近、自分の中に誰かいる、って感じるの。ほんとはずっと前から少しだけ感じてた。今夜、はっきり分かった」
リサが歩調を落とした。
「……怖い?」
「ううん」
即答できた。それが自分でも少し可笑しい。
「怖くない。一人じゃない感じがしてあったかいの。なんていうか……」
言葉を探して見つけた。
「生まれた時から会いたかった人に、やっと会えたみたいな」
リサが立ち止まった。月明かりの下でリサが瞬きをこらえている。泣くのを我慢する時の顔だ。
小さい頃から知っている。でも姉が何を我慢しているのかまでは分からなかった。
「ナイアは何も変わってないよ」
リサは静かに言った。
「変わったのは言葉の届き方だけ。あなたの優しさはあなたのものだから」
届き方。それなら腑に落ちた。今夜の言葉は確かに遠くまで届いた。でも言いたかったのは紛れもなく自分だ。
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部屋に戻ってしばらくして、戸を叩く音はしないのに気配がした。
振り向くと、月明かりの中に女の子が立っていた。白っぽい服。金色の髪。ナイアは息を呑んだ。
「こんばんは」
村の工房で、菓子を取り合ってその中をぐるぐる回った子だ。それから、山の中の暗い場所へ一緒に降りた日のことも思い出した。石像の翼から光が滲んで、自分の体に吸い込まれていったあの日。
その子が、あの日と寸分も違わない背丈で立っていた。
「……メイル?」
「ひさしぶりね」
驚いて声を上げかけて、ナイアは気づいた。隣にいるリサが少しも驚いていない。
「あなたの中にいるキヤラの、古いお友達。あなたに直接話すのは初めてね」
(あなたの中にいるキヤラ?)
その言い方がすとんと胸に落ちた。やっぱり、いるんだ。胸の奥がまたあの温かさを帯びる。そして自分の口が開いた。
「こんばんは、メイル。この子が起きたまま話すのは初めてね」
声の調子が少しだけ低い。少しだけ静かだ。自分の声なのに自分の声ではない。それなのに奪われている感じはどこにもない。隣に座っている誰かに口を貸してあげた。それくらいの近さだった。体のどこも軋まなかった。
メイルがまじまじとこちらを覗き込む。
「ちょっと待って。この子、起きてるの?」
ナイアは少し笑った。笑ったのは自分だ。答えたのはもう一人だった。
「ええ。だから借りるんじゃなくて、貸してもらってるの」
「もー、面倒。じゃあ呼ぶ時はキヤラでいいわね」
メイルは肩をすくめて寝台の端にちょこんと腰掛けた。長い付き合いの友達同士の、遠慮のない距離だった。今夜は輪郭がはっきりしている。
「それにしてもずいぶん居心地が良さそうじゃない。この子の中」
「ええ。優しい子だもの」
「あなたがそういうことを言うなんてね。昔は石像の中で何百年も黙ってたくせに」
「あれは黙っていたんじゃなくて、眠っていたの」
言い合いというよりじゃれ合いに近い。ナイアには難しいことは何ひとつ分からないのに、二人が長い長い時間を一緒に過ごしてきたことだけは分かった。メイルの足が寝台の縁で小さく揺れている。仕草は子供なのだが、その目だけが何百年も生きてきたような目だった。
(キヤラ。……それが、あなたの名前)
ナイアが自分の中に呼びかけた。
すると、肩の力がふっと抜ける。それが返事だった。
「お姉ちゃんは?」
ナイアは自分の声でリサに訊いた。
「知ってたのね?」
「……うん。黙っててごめん」
「いいの。怖がらせないようにしてくれてたんでしょ」
リサがふっと息を吐く。長いこと抱えていた荷物をやっと下ろした時のような息だった。
それから三人ともう一人で、少しだけ話をした。難しい話になりかけるとメイルがひらりとはぐらかす。
帝国のこと、レオンのこと。ベルーヴァ、という聞き慣れない名前も一度だけ出た。整理しておかなければならないことは、まだ沢山ありそうだった。
「その話はまだ早いわ」
キヤラが言った。
「いつか、ちゃんと話す日が来るから」
窓の外で夜が深まっていく。
話が終わると、メイルは窓辺で振り返った。
「ねえ、ちょっと。あなた、今は……どっちなの?」
ナイアは胸に手を当てた。温かい。自分の鼓動とそれを包む誰かの気配。
境目を探したけれど見つからない。どうやら、探す必要もなさそうだ。
「両方よ!」
ナイアとキヤラが答えた。
「面白かった!」
「続きが気になる!」
「今後どうなるの?」
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