第四十五話 朝の断絶
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翌朝、廊下でレオンとすれ違った。
客舎の朝は早かった。眠りの浅いまま夜が明けて、窓の外で衛兵の交代の声がした。顔を洗うと水が冷たい。その冷たさでようやく頭が今日に切り替わった。
王宮の客舎から工房へ戻る手続きのため、リサは朝の回廊を歩いていた。向こうからレオンが来た。部下を三人連れて書類を受け取りながら歩いている。
昨夜と同じ人だとは思えなかった。
背筋。歩幅。視線の高さ。すべてが定規で引いたように戻っていた。顔には何の色もない。完璧な総帥が完璧な朝の執務をしていた。
すれ違う、その瞬間だった。
「昨夜のことは忘れろ」
声は前を向いたまま、歩調も変わらない。部下たちには何の指示かも分からなかっただろう。
リサは足を止めて振り返った。
「忘れません」
廊下に自分の声が思ったより大きく響いた。
レオンの足が半歩だけ乱れた。
止まりはしない。振り返りもしない。
「蓮君」
リサはその背中に向けて言った。
今度は足が止まった。
部下たちが怪訝な顔で総帥を見る。レオンは振り返らなかった。三秒だけ止まってまた歩き出す。何も起きなかったかのように回廊の角へ消えていった。
(怒鳴らなかった)
これまでなら、「その名で呼ぶな」と声が飛んでいた。今日は止まっただけだ。
この名前への反応が、あの人の壁の減り方を教えていた。怒鳴る。止まる。そしていつか、振り返る。
ふとリサは壁に手をついた。石が冷たい。昨夜はほとんど眠れていない。指先にはまだ弦の感触が残っている気がする。袖からは松明の煙のかすかな匂いがした。
疲れていた。悪い疲れ方ではなかった。
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工房に戻ると王宮の話はもう知れ渡っていた。
「百歩先の炎を消したんだって?」
休憩の時に職人の一人が聞いてきた。
(五十歩が一晩で倍になっている)
「消えたのはたまたま」
「たまたまで王様の前に立てるかよ」
職人頭が奥から顔を出した。
「お前さん、とんでもない人になっちまったなぁ」
呆れ半分、誇らしさ半分の言い方だった。工房の納品物が王宮で使われている、と誰かが言い、いや使われたのは腕の方だ、と誰かが返す。
笑い声が起きた。少し前までリサと目を合わせることさえ避けていた人たちだ。距離が確かに縮まっている。それが嬉しくて、同じだけ怖かった。目立てば、いつか代償が来るのかもしれない。それでもと思う。訓練場で兵たちに言ったことが、そのまま自分に返ってきていた。
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訓練場の前を通ると兵たちが手を止めて会釈をした。
敬礼ではない。でもただの黙礼でもない。射場で師に向ける、あの角度の礼だった。リサは同じ角度で返して通り過ぎた。
午後、リサが訓練場に入るとアレックが柵の内側に道具袋を下ろしてもたれていた。替えのリムが数本と調整用の工具が袋から覗いている。
アレックは兵たちの行射を眺めている。リサが隣に並ぶとアレックは前を向いたまま言った。
「王宮で何があった?」
「弓を射った。五十歩の距離」
「中ったのか?」
「中った」
「……お前は本当に」
アレックは短く笑って、それから表情を戻した。
「あの男とも射ったんだろう。顔に書いてある」
「……二人で引いた」
アレックは前を向いたままだった。
しばらく黙って訓練場を見ていた。兵たちの矢が的に吸い込まれていく。前には考えられなかった精度だった。
「俺はさ」
アレックが言った。
「あの男には勝てない。腕力でも立場でも……たぶん、お前の中でも」
「アレック」
「いいんだ。順位の話をしてるんじゃない」
アレックは柵から体を起こした。
「勝てない相手だと分かったから決めた。俺はお前の盾になる。お前が前を向いてる間、横と後ろは俺が見る。それなら、あの男にも誰にも負けない」
静かな声だった。気負いも悲壮さもなかった。ただの役割分担を告げる声だ。だからこそアレックの言葉の重さが伝わる。
リサが何か言う前にクルが歩いてきた。
大きな頭をアレックの手の下に置く。クルが自分から置いたのでアレックは少し驚いた。それから手のひらでゆっくりとクルの頭を撫でた。
「……お前もそう言ってくれるのか」
クルは目を閉じた。それがクルの返事だ。
リサは何も言わなかった。
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夜、部屋に戻るとメイルがいた。
窓辺に腰掛けて、月を見ている。寝台ではナイアが眠っていた。穏やかな寝息に、もう一つ別の気配が重なっていた。
メイルの輪郭が心なしか薄い。昨夜あそこまで近づいた代償なのかもしれなかった。
ナイアの目が薄く開いて、唇が動いた。
「進んでいるのね」
ナイアの声だが、ナイアではなかった。
「昨夜のことメイルから聞いた。感情の蓋が確かに緩んでる。……でもリサ。一つだけ、警告させて」
「……何?」
「焦りすぎると逆効果になる」
響きは静かで急いでいた。あの夜と同じだった。
「楔は効いてる。でも壁は内側から開くものよ。外から無理にこじ開ければ、壊れるのは扉じゃなくて、あの人の心の方。昨日の頭痛を見たでしょ」
「……あの頭痛は何が起きてるの?」
「思い出そうとする力と、思い出させまいとする力がぶつかってる。楔が開けた隙間の分だけ、ぶつかり方も激しくなる。皮肉な話だけど、進んでいる証拠でもあるの」
進んでいる。その言葉をリサは胸の奥にしまった。
見た。指が額に食い込む、あの痛がり方を。
「分かってる。でも……」
「ええ。時間がないのも本当」
キヤラが先に言った。
「急がなければならないのに急ぎすぎてはいけない。理不尽よね。ごめんなさい。それでも両方とも本当なの」
メイルは窓辺で何も言わずに月を見ていた。茶化す言葉が一つも出ないことが事態の重さを語っていた。
「ね、リサ」
メイルが月を見たまま口を開いた。
「昨日のあの人、気になって後をつけてみたの。……帰り道でね、三回、立ち止まったのよ」
「……三回?」
「そう、三回。立ち止まって振り返りかけて、また歩いて。それを三回」
メイルはそれだけ言ってまた黙った。慰めとも報告ともつかない言い方。でもその三回のことを思うと、今夜は少しだけ眠りやすくなる気がした。
話が終わると、寝台のナイアの目がゆっくりと閉じられ、寝返りを打った。
北の方角から今夜もあの低い振動がかすかに伝わってくる。
時間がない、という感覚が足の裏から戻ってきた。
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