第四十四話 離さない手
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手首を掴む手はまだ離れていなかった。
夜の射場で二人とも動かなかった。松明の火が掴まれた手首の上で揺れている。レオンの息はまだ整っていない。額の汗が火の色を映していた。
答えなければならない問いが目の前にある。「どこで聞いた?」。
答えはひとつしかない。そして、その答えなら二度出した。
工房でその名を呼んだ時。洋弓部の名を口にした時。どちらもこの人は声を荒らげて背を向けた。三度目に同じ答えを同じ言い方で置いても、返ってくるものは同じだ。
でも今日は違う。今日は、この人の方から聞いている。
(言葉じゃない。言葉はもう二回、弾かれた)
さっきの痛がり方を見た後では、なおさら言葉には乗せられなかった。
思わずリサは口にした。
「その手です」
「……何?」
「私の手首を掴んでいる、その手。その手は蓮君の手です」
レオンの目が自分の右手に移る。
掴んでいる。自分で掴んでいる。近づくなと言って、とっさに掴んだ手。
「私は」
声が割れた。
「私はレオンだと言った!」
怒鳴り声だった。でも声が震えている。怒りの形をした、別の何かだった。しかし手はまだ離れない。
その時、耳元で声がした。
「感情の蓋が外れかかってるわね」
メイルだった。
姿は見えない。気配と囁きだけがリサの耳のすぐそばにあった。レオンには届いていない。
(どうやってここに、とはもう聞かない)
「今よ。優しくね」
ふふふ、という声とともに囁きが薄れた。
優しく。分かっている。でも、優しさの正解が分からない。
問い詰めないこと、嘘をつかないこと、逃げ道を残すこと。その三つの間のどこかに答えがあるはずだった。
リサは息を整えた。
「蓮先輩」
できるだけ、静かに言った。
「先輩と私は昔、一緒にアーチェリーをやっていたんです」
「アーチェ……?」
言いかけて、レオンは口を閉じた。知らない音のはずだった。なのに舌が形を作りかけていた。
「……一緒に? やった、ことなど」
レオンの声が途中で崩れた。
ない、と言い切るはずの言葉が出てこない。目の焦点がリサからずれて、何かを見ている。ここにないものを、あるはずのないものを。
「ない。この世界でお前と弓など……」
この世界で。
その言い方にレオン自身は気づいていない様子だ。リサは気づいた。気づいたことを顔に出すまいと、奥歯を噛んだ。
(急ぎすぎてる?)と、頭のどこかで警報が鳴っていた。さっきの頭痛。あの痛がり方。これ以上進めば何かが壊れるかもしれない。でも掴まれていた手首に伝わる熱が言っていた。この手は進みたがっている、と。
「じゃあ」
リサはレオンの手からそっと弓を引き取った。
「確かめましょう。昔みたいに弓を一緒に引きましょう」
「断る」
レオンは言った。
言いながら、リサの手首を離した。
離れた手が宙で止まり、それから壁の弓掛けへ伸びていく。断ると言った本人の腕が、断った先へ動いていた。
レオンは弓を取った。ロッドもサイトもついていない、検証用の裸の弓だった。
自分の手の中のそれを見下ろして、何かを言おうとして、何も言わなかった。
弓を持ったままレオンは動かなかった。
断ると言った口がまだ閉じきっていない。弓を持った手が置き場所を探している。リサは何も言わずに射線へと歩いた。誘わない。待たない。ただ、隣を空けておく。それが正解かどうかは分からなかったがメイルの言う優しさに一番近い気がした。
二人は並んで立った。
三十歩先の的先の的。松明の火。リサが矢をつがえると隣でレオンも矢をつがえた。申し合わせていない。なのにセットアップする時の弓の上がる速さが同じだった。
引き分ける。
横目に映る引き分けの線が自分のそれと重なっていた。同じ高さの肘。同じ角度の押し手。鏡を見ているのではない。同じ師に習った二つの体が隣に並んでいるのだった。
隣の呼吸が聞こえる。吸う長さも止める瞬間も自分と同じ拍だった。自然と合ってしまう。何百回、何千回と隣で引いた体だけが知っている、あのタイミングだった。
目の端が熱くなった。視界が滲んだら射が崩れる。「泣いちゃダメ」と自分に言い聞かせ、リサは熱を呼吸ごと飲み込んで的だけを見た。
松明の光が二人の影を床に落としていた。二つの影は構えの形のまま一つに重なっている。
(ああ……これだ)
リリース。
二つの弦音がひとつに聞こえた。
二本の矢が同じ的に刺さっていた。
中心とそのすぐ横。どちらがどちらの矢かはここからでは分からない。
夜の射場で的に刺さったまま並んでいる二本の矢。
長い静寂だった。
松明の爆ぜる音だけが時々それを区切る。
二人とも黙っていた。何か喋ればこの時間が終わってしまう気がしたからだ。
やがて、レオンが静かに話しかけた。
「……なぜだ?」
声はほとんど独り言だった。
「なぜ、お前と息が合う」
レオンは的を見ていた。二本の矢を。
「なぜか、お前の隣に立つと……安心する」
最後の言葉は夜気に溶けるほど小さかった。
言ってからレオンの体が硬直した。
自分が吐いた言葉が、遅れて耳に届いた。「安心する」。総帥が奴隷の隣で言ってはいけない言葉を言ってしまった。取り消す方法はどこにもない。夜気の中でその一言だけがいつまでも消えずに残っていた。
レオンは弓を置いた。
置き方だけが乱暴だった。背を向け歩き出す。足が速い。逃げている、と分かる速さだった。肩が上がっている。剥がれかけた仮面を歩きながら必死に拾おうとしている背中だった。
扉が重い音を立てて閉まる。
リサは一人、射場に残された。
弓を下ろした腕から力が抜けていく。今頃になって肘の内側が小さく震えた。一射分の疲れではない。今日の全部の重さが遅れて腕に乗ってきたのだった。
しばらくして的まで歩いた。二本の矢を順に抜く。一本は自分の矢だ。もう一本を手の中でしばらく見ていた。帝国の矢羽根。
(「安心する」って言った)
拒絶の言葉なら、いくらでも積み上げられてきた。でも内側から言葉が漏れたのは今夜が初めてだった。
矢を矢立てに戻してリサは空を見上げた。月が射場の真上に来ていた。
その夜は王宮の客舎に泊められた。柔らかい寝台の上でリサは長いこと天井を見ていた。眠れるとは最初から思っていない。それでも浅い眠りの中で二つの弦音が何度もひとつに重なった。
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