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第四十二話 50メートルの静寂

毎日投稿予定。

 炎が遠くで揺れていた。

 翌日、リサは王宮の中庭に立っていた。四方を石壁に囲まれた細長い空間だ。石畳の先に燭台が一基。そこに太い蝋燭が立っているのは分かる。その上に炎があるはずだということも。ただ、光は昼の明るさに溶けて、目には何も届かなかった。

 朝から支度が続いていたらしい。燭台までの距離は兵が縄で測って、五十歩と告げられた。壁際に並ぶ武官の数は昨日より明らかに増えていた。噂が回ったのだろう。奴隷の弓職人が王の前で裸の弓を構えるという噂が。

 入場の前に武官が矢を検めた。


 「一本ずつ、見せろ」


 矢筒から抜いて矢じりと矢羽根を確かめていく。仕掛けを疑う手つきだった。何も出てくるはずがない。ただの矢だ。武官は最後に弓そのものを持ち上げて、裏返し、振り、納得のいかない顔のまま返してきた。


 「……ただの弓だな」

 「ただの弓です」

 「なぜ昨日こちらで用意した弓を使わない」

 「慣れない道具で一発勝負はしません。自分の弓の方をよく知っています」


 それ以上の説明はしなかった。ただの弓で射る。それを見せるためにここに立っている。


 「あの炎を射てみよ」


 ヴォルカ王が石段の上の椅子から言った。


 「的が小さいか? ならば燭台ごと中てればよい。炎だけ消せたら、余はもっと喜ぶがな」


 冗談のつもりの言い方だった。武官たちの間に追従の笑いが薄く流れる。サイトもない裸の弓で中たるはずがない、という笑いだ。

 リサは燭台までの石畳を目で辿った。一直線の石。五十歩。頭の中でその数字が勝手に別の数字へ置き換わる。

 (……50メートル)

 継ぎ目の数を無意識に数えている自分がいた。緊張している証拠だ。なら、やることは決まっている。緊張を消すのではなく、いつもの手順の中に閉じ込めるだけだ。

 リサは立ち位置を決めた。

 風を確かめた。壁に囲まれた中庭の風は壁に沿って流れる。頬に当たる感触と、こめかみの後れ毛の動きを照らし合わせる。左からわずかに来ている。

 矢をつがえる。

 見えないものは狙えない。狙えるのは燭台だ。蝋燭の丈と芯の高さは、入場の時に目で測ってある。あとはその上に炎を置くだけでいい。

 頬の風が周期を持っていた。強く来て、緩んで、また来る。その緩む一拍を待てばいい。

 足の裏で石畳を確かめた。継ぎ目のない一枚の上に両足が乗っている。体重を左右に振って止まる場所を探す。ここが今日の射位だ。


 ふと、美月の時代で行われた大会の朝を思い出した。会場の空気がこんなふうに張り詰めていた。観客席の音が消えて的と自分だけになる、あの瞬間の手前の静けさ。

 (同じだ。的までの距離が違うだけ)

 サイトはない。ロッドもない。あるのはこれまでに放った何射もの感覚だけだ。

 距離だけなら、村でもっと遠くを射った。だがあの的は牛を模した等身大だった。

 今日は、指の先ほどにも見えない炎だ。


 息を吸う。

 弓を上げて、引き分ける。弦が頬に触れた。いつもの場所にいつもの感触。アンカーポイント。ここが合っていれば、世界のどこで引いても同じように矢を飛ばせる。

 中庭全体が静寂に包まれた。

 風の音も周囲のざわめきも遠くなる。残ったのは50メートル先の小さな炎と自分の呼吸だけだった。吸って半分吐いて止める。風が緩んだ。

 体の縦線。腕の横線。正十字。

 (体が弓になる)

 視線を矢先に向け、炎の真上に狙いを定める。狙点をどれだけ上げるかは、弓の強さと距離、体にしみこんだ感覚だけが頼りだ。

 指が弦から離れた。


 弦音。

 矢は見なかった。放れた瞬間の手応えがすべてを語っていた。

 炎が消えた。


---


 中庭が静まり返った。

 50メートルの先で、白い煙が一筋、細く立ち上った。

 誰も何も言わない。いつ終わるのかわからないほど長い静寂が続いた。

 どこかで誰かが唾を飲む音がする。

 炎を断ち切られた煙だけが何事もなかったように空へ上っていった。

 武官の一人が半歩、後ずさった。本人は気づいていないだろう。隣の武官は口を開けたまま、燭台とリサとまた燭台を何度も見比べていた。笑う者はもう一人もいなかった。


 「……中てたのか?」


 誰かがかすれた声で言った。

 兵が一人、燭台まで走った。走って戻ってきて、抜いた矢と芯の落ちた蝋燭を両手で捧げ持った。武官たちがそれを覗き込む。


 「補助具も照準器もなしで……?」


 ヴォルカ王が椅子から身を乗り出した。


 「面白い!」


 前のめりになって目が光っている。


 「見たか、今のを! 飾りのない弓で炎を消しおったぞ!」


 王は子供のように笑っていた。手を打ち、武官たちに同意を求め、また笑う。武官たちはぎこちなく頭を下げた。称賛と恐怖の混ざった、形の崩れた礼だった。


 「レオン、見たか?」


 王が傍らに声を投げた。


 「は」


 「あの娘、余の軍に欲しいのう」

 「陛下のご随意に」

 「つまらん答えだの」


 王は機嫌よく笑ってまた燭台の方を見た。誰も今日のことを忘れないだろう。

 リサは弓を下ろした。指先が今になって少しだけ震え始めていた。

 その時だった。

 レオンが一瞬だけリサを見た。昼から一度も動かなかった顔の中で、そこだけが灯っていた。

 リサの一射の最初から最後までを追っていた目だ。仮面の下から競技者が覗いた

 (蓮先輩。そこにいる)


 「見事である。褒美を取らす。望みの品を申せ」


 王が手を打った。リサは答えに詰まる。欲しいものなら、ある。でもそれは王に言えるものではない。

 言葉を探しているうちにレオンが一歩前に出た。


 「陛下。あの精度には技術的な根拠があるはずです。軍事上、確認の必要があります」


 声はいつもの平坦さだった。


 「検証は私が行います」


 王は鷹揚に手を振った。面白いものを見た後の、機嫌のいい手の振り方だった。


 「よい。褒美は預けおく。励め、弓職人」


 王の興味はもう次の面白いことへ移りかけていた。

 レオンがリサに向き直る。


 「精度の根拠を確認する。夜、改めて来い。それまでは侍従に任せる」


 それだけ言ってレオンは王に一礼し、踵を返した。武官たちがその背中に続く。リサは取り残された。

 侍従が近づいてきて、リサに向かって深く頭を下げた。


 「総帥のご命令です。夜までの間、宮殿をご案内いたします」


 リサは弓を抱え直して、その場を離れるレオンの背中を見た。心臓がさっきまでとは別の理由で鳴り始めていた。


「面白かった!」

「続きが気になる!」

「今後どうなるの?」

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