第四十話 取り戻さなければいけない人
毎日投稿予定。
アレックが何か言いたそうにしていた。
夜の回廊。資材庫の戸締まりを確かめた帰り、二人で並んで歩いていた。月が高く、石畳に二人分の影が落ちている。昼間の話をいくつかして、それが途切れてからの沈黙がもう角を二つ曲がるあいだ続いていた。
アレックの歩幅がいつもより狭い。話しかけるでもなく、黙るでもなく、隣で何かを溜めている気配だけが続いている。
「ねえ、アレック。言いたいことがあるなら、言って」
リサが言うとアレックは前を向いたまま、少し笑った。
「……分かるか?」
「分かるよ。顔に出てる」
アレックは足を止めた。回廊の柱の間から夜の中庭が見える。リサも止まる。
アレックがこちらを向いた。目が真剣だった。
「あの男のことが好きなのか?」
言葉が出なかった。
直球だった。逃げ道を全部ふさいでから投げてくる、アレックらしい球だ。
夜の回廊は静かだった。遠くで衛兵の交代の声がしてすぐに消える。中庭の水桶の水が月を映して揺れていた。アレックは急かさなかった。息を止めるようにして答えを待っている。
ごまかすことはできた。笑って流すこともできた。
でもこの目にそれをしたら、何かが二度と戻らない気がした。リサは言葉を選びながら口を開いた。
「好きというより、取り戻さなければいけない人、だと思ってる」
アレックの眉がわずかに動いた。リサが続ける。
「……聞いてほしいことがある。信じられなくても、最後まで聞いて」
アレックは何も言わなかった。
「私には、この世界とは別の世界の記憶がある。そこで弓を引いていた。あの人も同じ世界にいた。蓮という人だった。その人が今、名前も記憶も別のものに変えられてここにいる。技術と体の癖はそのままあるけど、心の中身だけ閉じ込められてる。……そういう人を見つけて、放っておくことは私にはできない」
アレックはしばらく黙っていた。
「……クルは?」
「クル?」
「あいつ、俺が考えた方に跳ぶ。ずっと、普通の犬じゃないと思ってた」
アレックが顔を上げた。
「クルも、あっちにいたのか?」
「いた。あの人の犬だった」
アレックが息を吸う音がした。
「取り戻したら……どうなるんだ?」
「分からない」
リサは正直に答えた。
「取り戻した先のことは考えてない。考えられないの。今は取り戻すことしか考えられない」
アレックはしばらく中庭を見ていた。それから短く息を吐く。
「……分かった」
それだけ言って歩き出した。リサはその背中を見た。
言わずに済ませたものを抱え直したような背中だった。
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数日後、ナイアの「聖域」が移ったと職人の一人が教えてくれた。
奴隷区画の倉庫の半地下だ。湿気を嫌って使われていなかった広い空間にいつの間にか敷物が並び、薬草が梁から下がり、明かりが灯っていた。並ぶ人の列がもう部屋には収まらなくなっていたらしい。
階段を下りて、リサは少しの間、入口で立ち尽くした。
奴隷職人、その家族、老人、子供、そして帝国の兵士が三人。兵士たちは警備服のまま、隅の敷物に行儀よく座って順番を待っていた。誰も彼らを警戒していない。彼らも、誰も威圧していない。地上では決して並ばない者たちが地下では同じ列に並んでいた。
壁際に木の棚が組まれていた。薬草の束、布、湯を沸かすかまど。どれも持ち寄りらしく、形がばらばらだ。かまどの番をしている老人は確か鍛冶場の元職人だった。子供が湯呑みを運び、その横で手当てを終えた兵が一人、そのまま残って薪を割っている。誰かが決めた形には見えなかった。
順番を待つ列の中から囁きが聞こえた。
「聖女様は今日も遅くまでやるのかね?」
聖女、という言葉に誰も笑わなかった。
ナイアはその中心で手当てをしていた。手を動かしながら相談を聞いている。声までは届かない。でも聞いている横顔だけで雰囲気が分かった。
兵士の一人の順番が来た。腕の古傷らしい。ナイアが手を当てると兵士の強張った肩が目に見えてほどけていった。治るかどうかより先にまず楽になる。並んでいる人たちはたぶんそれを知っているのだ。
(ここだけ、帝国じゃないみたい)
リサは長居はしなかった。
帰り際、階段の下でナイアと目が合った。ナイアは手を止めずに口の形だけで「あとでね」と言った。リサは頷いて階段を上がる。地上に出ると帝国の空気が急に冷たく感じられた。
あの場所はナイアが作ったナイアの場所だ。
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その夜だった。居室の扉が叩かれた。ナイアはまだ戻っていない。
職人頭かと思って開けると、見たことのない男が立っていた。帝国の文官の服。後ろに兵が二人いた。
「弓職人のリサだな?」
男はリサの顔と部屋の中を素早く見た。それから直立の姿勢をとり巻物を開く。
奴隷の住まいに立つことに慣れていない目の動きだった。
「ヴォルカ王のご命令である。明後日、王宮へ出頭せよ。弓使いとして御前にてその技を披露せよとの仰せだ」
言葉の意味を理解するまで少し時間がかかった。
王宮。御前。帝国の、いちばん奥。
(危険だ)
最初に来たのはその感覚だった。権力の中枢に奴隷が一人で呼ばれる。中で何が起きても外からは誰にも分からない場所だ。
でもその次に来たのは別の感覚だった。
(レオンもいる。あの肖像画。王の隣に立っていた。御前なら、あの人もいる)
帝国のいちばん奥はレオンのいちばん近くでもある。工房に来た時のレオンではなく、王宮にいる総帥としてのレオン。
「……承知しました」
声が思ったより落ち着いて出た。自分で驚いた。
使いが去る。
扉を閉めてリサはしばらく動かなかった。
心臓が遅れて鳴り出した。受け答えの間は静かだったのに一人になった途端、膝の裏が頼りなくなる。壁に背を預けて、ゆっくりと三つ数えた。
御前。百も二百も視線のある場所でたった一人で射る。怖い。怖いけれどその奥に別の感触があった。
会える。工房でも訓練場でもない、あの人のいる場所の、いちばん近くで。
翌朝、アレックとナイアに召喚のことを話した。
「王宮って……、断れないの?」
ナイアの顔が曇った。
「断れない。王命だから」
「俺も行く」
アレックが即答した。
「無理だよ。呼ばれたのは私一人」
「門の外までなら、ついて行ける」
譲らない言い方だった。結局、門まで一緒に行くことになった。ナイアが何も言わずにリサの袖をつまんだ。指に力がこもっている。
(行ってくる。大丈夫)
声には出さずにその手の上に自分の手を重ねた。
ナイアは少しだけ手に力をこめて、それから自分からほどいた。顔を上げるともう笑っている。
「お姉ちゃんなら大丈夫。帰ったらいろいろ聞かせてね」
強がるのが昔より早くなっていた。
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同じ頃、レオンは自室で押収品の目録を見ていた。
王命の写しが机の上にある。明後日、弓職人のリサが御前で射る。
目録の一行に指が止まった。セリア国、弓一張。
(得物の持参は許されている)
それだけだ。書類の上では、何一つ間違っていない。
ペンを置いてから、レオンは長いことその一行を見ていた。
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その日の夕方、工房に兵が二人来た。
布に包んだ細長いものを抱えている。作業台の上に置いて、それだけで出て行こうとした。
「……これは?」
「総帥のご命令だ」
兵は振り返らずに言った。
「押収品庫から出せと。それだけしか聞いていない」
布を解いた。手が止まった。ドロスと二人で作った、あの弓だった。
あの街道で下ろしたきり、二度と見ないと思っていた弓。照準器も安定器具もない。飾りが何もない。丘の上の広場で何百射も引いた、あの重さがそのまま手の中に戻ってきた。
(どうして?)
理由は書かれていない。伝言もない。
工房の窓から城の方を見た。灯りがひとつ点いている。
(あなたは、なぜこれを出したの?)
本人にも答えられないのだろう、とリサは思った。
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夜、リサは弓を膝の上に置いた。弦を外し、リムを拭き、握りの革を確かめる。手順が体から出てくる。蓮先輩に教わった、あの頃の手順だ。
御前で射ることになるのなら、連れて行くのはこの弓しかない。飾りはなくても自分の射を一番知っている弓。
手入れを終えて布で包んだ。
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