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第三十九話 射形と誓い

毎日投稿予定。

 兵たちの射形を見ていた。

 訓練場に通うようになって数日が経っていた。

 朝は素引きから始める。矢をつがえずに引いて戻す。形だけを体に覚え込ませる時間だ。次に走り込み。弓は腕で引くものではなく、体全体で引くものだから足腰の安定が要る。兵たちは最初、少し嫌な顔をした。弓兵がなぜ走るのかと。三日目には誰も文句を言わなくなった。引き方が安定し始めたからだ。

 昼は実射。午後は二人一組で互いの射形を見合う。


 「今、引き手の肘が下がってたぞ」

 「お前こそ離れで顔が動いてる」

 「動いてない」

 「動いてた。賭けるか?」


 言い合いながら、的に向かう。外してももう誰も怒鳴らない。代わりに原因を探す。原因が見つかると次の一射が変わる。変わると顔が変わる。

 夕方、片付けの時間を過ぎても訓練場の隅に残る者が出始めた。引き上げたはずの兵が素引きを繰り返している。近射をする兵たちはお互いの射形を確認し合っている。誰に命じられたのでもない。リサは声をかけずに見なかったことにして通り過ぎた。命令で射る百射より自分で射る十射の方が確実に上達する。

 (……懐かしいな)

 リサは帰り際、その風景を見ながら美月として練習していた場所を思い出していた。ここでは声の出し方も汗の匂いも道具を扱う手つきも違う。でも空気が似ていた。大学の射場の、あの空気に。

 水野監督は声はでかいが決して怒鳴ったりはしなかった。外した部員の隣に立って、「今の、自分でどう思う?」とだけ聞く人だった。

 蓮先輩だってそうだ。時には厳しい時もあったが、後輩たちの面倒見がよくて尊敬できる先輩だった。


 引き尺の測り直しは一日で終えた。一人ずつ腕の長さと引き幅を測って矢をその長さに切り直す。自分の体に合った道具を初めて持たされた兵たちは最初の一射で顔つきが変わった。


 「……真っ直ぐ飛ぶ。狙える」

 「それが本来の弓です」


 道具が体に合うと、人は道具を信じ始める。信じた分だけ力が抜け、抜けた分だけ中る。その循環が回り始めれば、あとは放っておいても伸びる。


---


 指導の中でリサは道具を一つ増やしていた。

 薄い金属の板をハンドルの側面に付けた、引き尺を一定にする道具だ。矢先が板を通り抜けると「カチンッ」と小さく音が鳴る。鳴った瞬間に放す。それだけで離れのばらつきが目に見えて減った。


 「クリッカーといいます」


 兵たちにはそう教えた。名前の由来は説明しなかった。

 板は工房で夜なべして作った。薄さの加減が難しい。三枚駄目にして四枚目でようやくいい音が出た。乾いた、小さな音。その音を初めて聞いた時、危うく手が止まりかけた。大学の射場で毎日数え切れないほど聞いた音だったからだ。

 自分が調整したあのリカーブは指導用として訓練場に置いてあった。手に取るたびにサイトが自分の目の位置に合っている。当たり前のことなのに、その当たり前が手に馴染んだ。この世界に来て初めて持つ、自分の設定通りに調整できた弓だった。


 「訓練場の話は、城まで上がっているそうだ」


 工房に戻った夕方、職人頭がすれ違いざまに小声で言った。


 「弓の当たりが変わったとな」


 それだけ言って職人頭は行ってしまった。リサは弦を巻く手を止めなかった。


---


 レオンは数日に一度、訓練場に現れた。

 視察の名目だった。端に立って黙って見ている。そして時々、自分でも引いた。総帥が引くとなれば、兵たちは場所を空ける。引くのは決まって、リサが調整した指導用の一張りだった。リサはその射形を矢取りのふりをしながら観察した。

 押し手の肘。引き分けの途中で外側へ返るタイミング。

 クリッカーが鳴る直前、呼吸が完全に止まる、その止め方。

 リリースの後も押し手を伸ばしたまま、三つ数えるほど弓を下ろさない。

 矢をつがえる前には必ず羽根を指先で一度なでる。癖というより儀式に近い動作だった。

 見ているうちに矢を抱えた指先が冷たくなっていった。あの几帳面さで道具を扱う人をリサはもう一人しか知らない。

 見過ぎてはいけない、と何度も自分に言い聞かせた。気配を悟られないために。

 (この引き方は戦場の弓じゃない)

 帝国の射は戦場の射だ。速く、数を面に向けて射る。フォロースルーも肘返しも要らない。レオンのそれは違う。点を狙う競技の体だ。何年も同じ動作を何万回も繰り返した形だった。

 工房で聞いた、あの呟きを思い出す。「ミズノの言った通りだ」と。あの日、確信はもう生まれていた。

 閲兵式の日のことも覚えている。視線が自分の上を素通りした時の、足元が崩れる感覚。あの日は認識されていないことが痛かった。今は違う。頭が認識していなくても体は覚えている。それをこの数日で数え切れないほど見た。


 技術への反応。クリッカーという言葉。指が覚えていた弦の位置。揺れた目。震えた声。そしてこの射形。

 (帝国の誰もこんなフォームで引かない。そして帝国の誰も水野監督を知らない)

 証拠が一列に並んだ。

 頭で分かっていたことに、体がやっと追いついた。あの冷たい目の奥に蓮先輩がいる。閉じ込められて自分が誰かも知らないまま、それでも体だけは覚えたままで。


 リサは矢を抱えたまま呼吸を整えた。叫び出したい気持ちがせり上がり、飲み込むと今度は泣きたい気持ちが喉の奥まで来た。どちらも飲み込む。今はまだ、その時ではない。

 (必ず、蓮先輩を取り戻す)

 誓いは声にしなかった。

 矢を抱え直して歩き出す。夕方の橙色の光が訓練場の砂を長く染めていた。兵たちの笑い声が遠くで上がる。その真ん中をリサはいつもと同じ顔で横切った。誓いを抱えた人間の顔は誰にも見せなかった。


---


 夕暮れ、兵たちが引き上げた後の訓練場にレオンは残っていた。

 道具の検めという名目だった。架けられた弓を順に確かめていく。最後の一張りの前で手が止まった。リサが調整したリカーブだ。弓を手に取った。ノッキングポイントの位置とブレースハイトが帝国の標準とは違うところにある。

 すぐに戻そうとしたが、ふと考え弓を眺めた。

 武器管理の問題も技術検証の必要も、こじつけならいくらでも作れる。レオンはそのリカーブを持って訓練場を出た。

 レオンは自室に入り、弓を壁に立てかけた。机には執務の書類が積まれている。座ってペンを取ったが、もう一度だけ振り返った。


---


 翌朝、その弓は何事もなかったように訓練場の架けに戻っていた。

 リサは何も聞かなかった。架けから外して、いつも通りサイトの位置を確かめる。位置はひと目盛りも動いていなかった。


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