第三十八話 訓練場の介入
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第3部始まりました。
その日、リサは気づいた時にはもう声が出ていた。考えるより先に口が動いていた。
工房の高窓から差す光が日ごとに細くなっていた。冬が近づいている。
そこに至る数日の間にリサは三つのことに気づいていた。
一つ目は弦音だった。
道具を返しに廊下へ出た時だった。工房では職人が弦音の調整をしていて高い音が連続して廊下に漏れている。柱の陰からレオンの足がわずかに乱れるのが見えた。右手が上がって指先が眉間に触れる。一秒で下りた。歩調が戻る。何事もなかったように靴音が遠ざかっていった。
二つ目は菓子の香りだった。
資材の受け取りで市場の近くまで出た日だった。屋台で飴を煮る甘い匂いが流れてくる。視察に来ていたレオンがその屋台の前で足を止めた。買うわけではない。ただ立っている。それから目を一度、強くつぶった。まばたきが続く。砂が入った時の仕草に似ていたが風のない日だった。
三つ目はクルの声だった。
中庭に面した廊下の端にリサはいた。中庭でクルが短く鳴いた。低い、喉を鳴らすような声だ。廊下を歩いていたレオンの足が止まった。振り返りはしない。足だけが止まって数秒、動かなかった。
本人は気づいていない。それでも蓮としての記憶の断片が、深い谷から這い上がろうとしている。リサはそう思った。
メイルの言葉が浮かんだ。扉の隙間から光を差し込む程度。あの小さな天使が広げた隙間から今、何かが動き出そうとしている。
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訓練場の一件はその数日後に起きた。
弓兵たちの調練にレオンが直接立つ日だった。総帥が自ら調練の指揮を執るのは滅多にない。リサは納品した弓の不具合確認で訓練場に呼ばれていて、端で弦の点検をしていた。
「絶対に中てるという気概を持て。一射も外すな!」
レオンの声が訓練場に響く。並んだ弓兵たちの背中が声のたびに硬くなっていった。歴戦の顔をした兵たちが、一回りも年下の総帥の前で直立不動になっている。その光景自体がこの帝国の異様さだった。各自必死になって弓を射る。一人が的を外した。
「なぜ外す? 気概が足りんからだ。次!」
次の兵が進み出る。構えた時点からもう硬かった。押し手の肩が耳に付きそうなほど上がっている。離れの瞬間に顔が逃げて、矢は的の縁を掠めて外れた。
「顔を動かすな! 何度言わせる」
叱責が重なる。外す者が増えていく。外しては怒鳴られ、怒鳴られては外す。リサの手の中で弦の点検作業が止まっていた。
(悪い回り方をしてる)
兵たちは的を見ていない。総帥の顔色を見ている。肩が上がり、引き手が縮み、リリースが乱れる。怖がる体で中る矢はない。
また一人、外した。若い兵だった。膝が震えている。レオンが息を吸った。叱責の前の呼吸だ。
リサはレオンを見た。数日前に弦音で足を乱したあの横顔を思い出した。
「中てようと思っても中たるものではありません」
声が出ていた。
訓練場が静まり返った。
弓兵たちが一斉にこちらを見る。レオンがゆっくりと振り返った。リサは弦を置いて立ち上がる。引き返す場所はもうなかった。
「気持ちを落ち着けて、力を抜いてください。基本は正十字……体の縦の線と、腕の横の線です。その十字を意識して射てば、結果は後からついてきます」
外套の裾を握るレオンの指に、目に見えて力がこもった。
「きさま」
レオンの声が低くなった。
「奴隷の分際で私に意見するつもりか?」
「意見ではありません。射撃の理論を提案しているだけです」
弓兵たちが震え始めた。目に見えて分かる震え方だ。
奴隷が総帥に言い返している。次の瞬間に何が起きてもおかしくない。誰にもそれを止められない。
「ほら」
リサは兵たちの方へ手を向けた。
「この人たちだって怖がってるじゃないですか。弓は怖さでは上達しません。自分から上手くなりたいという気持ちがないと、いつまで経っても伸びないんです」
レオンは答えなかった。
弓兵たちの顔が青ざめ、体がガタガタと震えだした。一人はふらついて今にも倒れそうだ。訓練場が完全に凍り付いている。
長い沈黙だった。レオンがリサを見据える。
リサは目を逸らさなかった。レオンは一瞬目を閉じ、兵たちを見た。それから的の方に目をやった。中らない理由がどこにあるかは、その目にも見えているはずだった。
何かを逡巡している目の動きだった。
「……分かった」
声は平坦に戻っていた。
「ならば、弓の指導はきさまが責任をもって行え。上達しなければ厳しい罰が待っていることを忘れるな」
「承知しました」
言質を取られた形だった。
リサにとっては蓮との約束に思えた。気がつくと弓兵たちが、その場でうなだれていた。
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リサは兵の一人から帝国製のリカーブを借りた。
サイトとロッドの付いたドラヴァルの量産弓だ。手の中で重心を確かめる。
「弓を調整します。少し待ってください」
一射目は的の下、左寄りに入った。サイトを下へ送る。外れた側へ送るのだと口の中で確かめながらネジを回した。二射目は上がりすぎた。半分だけ戻す。三射目で高さが合った。今度は左右。左に外れた分だけサイトも左へひと目盛り送る。四射目が中心のすぐ横に入った。最後のひと回しでネジが止まるべき場所に止まる。指が位置を覚えるまでの、いつもの手順だった。借り物の弓に自分の居場所ができた瞬間だった。
「見ていてください。力を抜くとこうなります」
構える。引く。縦の線と横の線。呼吸を半分残して放した。
矢が的の中心に中った。
もう一射。同じ場所のすぐ横に入る。三射目も寄った。弓兵たちのざわめきが怯えから別のものに変わっていくのが分かった。誰かが小さく「おお」と声を漏らして、慌てて口をつぐむ。
「力はこれだけでいいんです」
リサは弓を下ろして兵たちを見た。
「皆さんは力を入れすぎています。押す方向と引く方向の軸を意識すれば最低限の力で弓を引くことができます。それに、矢が体に合っていません。腕の長さは人それぞれです。明日から一人ずつ引き尺を測り直します」
誰も返事をしなかった。リサは構わず続ける。
「外しても罰はありません。その代わり、なぜ外れたかを一緒に考えましょう。それが私のやり方です」
最前列の若い兵がおそるおそる手を上げた。さっきふらついていた兵だ。
「……質問してもいいのか?」
「どうぞ」
「その、正十字というのは……誰にでも作れるのか?」
「作れます、誰でも」
兵たちの間に小さなざわめきが戻った。さっきまでの凍った静けさとは違う種類のざわめきだった。
「もう一度、引いてみますか?」
リサが促すと若い兵は弓を取り直した。リサは兵の肩に手を添えて力を抜かせる。縦の線、横の線。それだけ伝えると押し手の肩が下がった。引き手の肘も少し上げた。兵の呼吸が深くなった。
兵が矢を放つ。矢は的の縁に中った。中心ではないが、的の上にはあった。兵が信じられないという顔でリサを振り返る。
「ほら。中てようとしなくても中るんです」
誰かが小さく笑った。笑い声なんて、さっきまでこの訓練場のどこにもなかった。
レオンは訓練場の端でそれを見ていた。
何かを言いかけて、やめた。それから小さく首を振る。何かを払い落とすような振り方だった。リサと目が合いそうになる寸前で体の向きを変えた。
しばらくするとレオンは訓練場を後にした。
弓兵たちが一斉に行射練習を中断し、一列に整列して直立不動の姿勢をとる。
外套の裾が石畳の上で揺れて遠ざかっていく。誰も声をかけられない背中だった。
リサはその背中をずっと見ていた。
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その夜、レオンは日記を開いた。
書くことは決まっているはずだった。訓練の結果。兵の練度。明日出す命令。
ペンが動いた。
「兵の背が硬い。あの娘の理屈は通っている」
手が止まる。
理屈が通っていることが、なぜか腹立たしい。腹立たしいのに指導を任せた。
訓練場を後にし、歩きながら、言いようのない懐かしさを感じてしまった。
その理由だけが書けなかった。レオンは日記を閉じた。
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