第三十七話 もう一人の天使
毎日投稿予定。
第2部 終わりです。
訓練場から声が聞こえた。
夜だというのに号令と弓を射る音が続いている。夜間訓練が始まったのは三日前からだ。兵の数も増えていた。帝都の空気が日に日に張りつめていくのが分かった。
昼間の帝都も変わり始めていた。北へ向かう荷車が増えたと職人たちが話していた。見たことのない部隊の旗が門をくぐったとも。職人たちの納期は短くなる一方だった。何かが近い。誰もが感じていて誰も口にしなかった。
リサは工房の窓辺でその音を聞いていた。
手元には弦の束がある。編みかけのまま、指が止まっていた。
街があわただしく変貌している。
「急いでいるわね、帝国は」
声がして振り返るとメイルがいた。
相変わらずいつの間にかいる。でも今夜は軽い顔をしていなかった。
「夜中に何?」
「この前の続きよ。連れてきたわ」
メイルが扉の方を見た。扉が開いてナイアが入ってくる。
「ナイア? こんな時間にどうしたの?」
ナイアは答えなかった。
歩き方が違う。いつものナイアより静かすぎる歩き方だった。窓際まで来てリサの前に立つ。目は開いている。でもその目の奥にいるのは別の誰か。
「初めまして、にしましょうか。リサ」
ナイアの声でナイアではない誰かが言った。
リサは弦の束を取り落とした。
「……誰?」
「キヤラ。メイルと同じ、この世界の言葉で言うと、天使よ。この子の中にずっといたの」
リサは老婆がナイアに行った言葉を思い出した。
(お前さんの奥のほうに、暗がりに小さな光が一つ、じっと息を潜めている)
老婆はそう言っていた。言葉の意味がようやくつながった。医務室で老婆が見ていたのはナイアの内側。そこにいたのはこの声だ。
「メイルと同じって……あなた、天使だったの?」
リサはメイルを見た。メイルがとぼけた顔で話す。
「あら、言ってなかったかしら?」
「聞いてない!」
「そんな細かいことはどうでもいいでしょ」
メイルが肩をすくめる。問い詰めたいことが十も二十もあった。でも、ナイア、いや、キヤラの目がそれを許さない。静かで急いでいる目だった。
「ナイアは……?」
「今は眠ってる。体だけ借りてるの。記憶には残らない。夢の切れ端くらいは残るかもしれないけれど」
「勝手にそんな」
「ごめんなさい。でもあなたに直接話す方法がこれしかなかった」
「ナイアを巻き込まないで」
「それは謝る。でも約束するわ、この子を守ることだけは。何があっても」
キヤラの声は静かだった。謝りながらも引かない声だ。リサは落ちた弦を拾わずに、二人の天使を交互に見た。
「……話って何?」
メイルが窓の外に目をやった。
「時間がないの」
---
北の遺跡の話から始まった。
帝都に来てから何度も感じた、あの遠い振動。地下から伝わる低い鼓動。
「夜中に床から響いてくることがあった。あれが?」
「そう。岩盤ごと掘り進めてる音。掘り崩すたびに地脈が軋む。その軋みが地を伝ってここまで届くの」
キヤラが北の方角に目をやった。壁の向こうの、ずっと遠くを見る目だった。
「ベルーヴァ」
キヤラが言った。
「古代の人型兵器よ。帝国が遺跡から運び出しているエンドロンの元になったもの。大きさも力も桁が違う」
「エンドロン?」
「量産型の古代兵器」
メイルが答えた。
「掘り出された分だけで七十を超え、帝国は北の坑の底に並べ始めている。この目で見てきたわ」
寒気が背中を走った。閲兵式で見た兵の列が頭の中で別のものに置き換わっていく。
リサの喉が鳴った。封印された村。眠る石像。あの時は昔話として聞いていた。
「……前にメイルから聞いた。人族が大きな力を持った物を作って、暴走して、天の者と地の底の者が止めたって」
「それがベルーヴァよ」
キヤラが言った。
「悪魔族を利用しようとして、それで暴走を招いたの。悪魔と天使が力を合わせて封じたのに、人間はそのまま悪魔族ごと封印してしまった」
キヤラの目がリサを正面から見た。
「あの時、私たちにできたのは眠らせることだけだった。壊すことはできなかったの。作ったのは人間だから、止めることができるのも人間だけ。だから、あなたに話しておきたかった」
「私に何かしろって言ってるの?」
言葉の意味がゆっくりと胸に沈んでいった。昔話が、北の土の下から出てくる。
「待って。止めるってどうやって。私はただの弓職人で……」
「今はそれでいい」
キヤラが遮った。遮り方まで静かだった。
「全部を背負えとは言わない。ただ、知らないまま進むのと、知っていて進むのとでは違うから」
「あなたが技術を広めるより早く、帝国はベルーヴァの発掘を進めてる」
メイルが言った。
「掘り出しが終わってあれが目覚めたら、もう誰にも止められない。人間は気がついていないでしょうが、ヴァルディスの目的は人間を滅ぼすこと。帝国もセリアも関係ない。臨界点まで時間がないの」
「時間はどれくらいある?」
「季節がひとつ変わるかどうか」
メイルは目を逸らさずに言った。
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「あなたたちは止められないの? 天使でしょ」
「私たちの力には限界があるの」
メイルが言った。珍しく茶化さない声だった。
「人の心に直接手を入れることはほとんどできない。扉の隙間から光を差し込む程度。それ以上をやれば、消えるのは私たちの方」
壁にもたれて疲れ気味の様子でいた姿が浮かんだ。あれが「光を差し込む程度」の代償だったのだ。
「……中庭でふらふらだったのは?」
「さあ。日向ぼっこじゃないかしら」
メイルはとぼけた表情で答える。
「私も同じ」
キヤラが言った。
「この子の中にいられるのは、この子の心が拒んでいないからよ。無理をさせれば壊れるのはナイアの方」
「じゃあ、どうするの?」
「まずは、レオンの覚醒が先決」
メイルが言った。
「あの男は帝国の軍事の中心にいる。発掘も軍の動きも全部あの男を通る。蓮として目覚めれば内側から流れを変えられる。それが悪魔の計画にとって一番の誤算になる」
「でも、どうやって?」
リサの声がかすれた声で話す。
「技術も言葉も名前も届いた。でも壁はまだ崩れない。……間に合うの?」
誰もすぐには答えなかった。
夜間訓練の号令が遠くで続いている。
「あなたが今やっていることは間違ってない」
キヤラが言った。
「楔は打ち込まれてる。あとは会い続けること」
キヤラはそこで言葉を切ってメイルと目を合わせた。何かが二人の間で交わされた。リサには聞こえない速さで。
「じゃあ、急がなければね」
メイルが言った。いつもの軽い声に戻っている。
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ナイアの目が閉じて、開いた。
「……あれ? 私、なんでここに」
いつものナイアの声だった。寝ぼけた顔で工房を見回している。リサは弦の束を拾い上げた。
「寝ぼけて歩いてきたのよ」
嘘は思ったより簡単に出た。
「ほんと? 私、夢を見てた気がする」
「どんな夢?」
「とっても綺麗な天使になった夢。なかなか悪くなかったわ」
ナイアは目をこすりながら笑った。何も知らない顔だ。知らないままでいてほしい。でも、いつまでも隠せないことも分かっていた。
ナイアを部屋まで送ってリサは一人で窓辺に戻った。
窓の外に夜の帝都がある。
家々の明かり。どこかで赤ん坊が泣く声。パンを焼く竈の煙が月明かりの中に細く上っている。明日も同じ朝が来ると誰もが信じている街だった。
守りたい、と思った。帝国の街なのに。自分たちを奴隷にした国なのに。あの竈の煙の下にある暮らしと帝国の旗は別のものだ。
メイル達の話が本当なら、ベルーヴァが目覚めた時、これが全部消える。
夜が深くなっていく。次の朝が少しだけ怖かった。
第2部 終わり
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