第三十六話 天使たちの再会
毎日投稿予定。
リサが弓兵訓練場の前を通りかかったのは資材の運搬を頼まれた時だ。
石壁の向こうから怒鳴り声が響いていた。
「遅い! 引き直せ!」
レオンの声だ。続けて弦音が鳴り、カンッカランッ! と矢が的を外す音がした。
「腕だけで引くなと言ったはずだ。次に外せば交代だ」
壁の切れ目から中が見えた。弓兵が二列に並んで順番に射っている。外した兵士が直立して怒鳴られていた。隣の兵士の肩が自分の番でもないのに縮こまる。
(あれじゃ中らない)
口を出したい衝動をリサは飲み込んだ。
資材を抱え直して歩き出した。怒鳴り声を背中で聞きながら歩いた。
(先輩は、ああいう教え方をする人じゃなかった)
下級生が外してもまず呼吸を見る。フォームの癖を本人が気づくまで何度でも付き合う人だった。
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午後、工房の裏手で物音がした。
覗くとアレックとクルがいた。資材置き場の空き地で向かい合っている。アレックの手には短い棒があった。
「いくぞ」
アレックが棒を振る。クルが跳んだ。棒の動きより速い。アレックの背後に回り込んで低く構える。
「……今、俺が考えた方に跳んだな?」
クルは答えず、尻尾が一度だけ揺れた。
「もう一回だ。今度は逆を考える。……左だ。左と考えるぞ」
アレックが棒を構えた。視線は右に向けてある。クルは左に跳んだ。アレックが考えた方に。
「やっぱりだ」
アレックが棒を下ろしてリサに気づいた。
「見てたか? こいつ、俺の考えが分かる」
「前からでしょ。クルはずっとそうだった」
「俺が考えていることも分かるってことだ」
アレックは少し得意げになってにやけている。
「いつから練習してたの?」
「収容所を出てからだ。時間に余裕ができたからな」
「それで棒、振り回してたんだ」
「お前ばかり戦わせるわけにはいかないだろ」
アレックの声が一段高くなった。クルがアレックの隣に歩いてきてその手に鼻先を押しつける。
「もう一回、見ててくれ」
アレックが空き地の中央に戻った。今度は棒を二本、左右の手に持つ。視線をわざと遠くへ向け、体の向きもどちらを振るか分からない構えを作った。クルが低く身を沈める。
棒が動く前にクルが走った。右。アレックが右の棒を振り抜いたその先に。
クルは棒が振り抜かれる先ですでに待ち構えて、見事に棒をとらえた。
「……完璧だ」
アレックが笑った。声を出して笑うところを久しぶりに見た気がする。
訓練というより気持ちを確認しているようだ。お互いがお互いをどこまで信じられるかの。
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夕方、リサは奴隷区に薬草を届けに行った。
ナイアに頼まれた荷物だ。区画に入ると空気が以前と違うことに気づく。座り込んでいた人々の背中が少しだけ起きている。
区画の角でナイアが老人と話していた。
手当てではなさそうだった。老人は壁にもたれて座っていて、ナイアはその横にしゃがんでただ話を聞いている。リサが近づくと老人の声が聞こえた。
「不思議なもんだ」
老人が言った。
「あんたの声を聞くと心が静まる。薬より効く」
「薬も飲んでくださいね」
「飲むさ。でも本当だよ。あんたの声は何かが違う」
「気のせいですよ」
老人が目を細める。
「年寄りの気のせいは当たるんだよ。昔、巡礼の尼僧に会ったことがあってな。その人の声と似てる気がする。聞いてるだけで痛いところを忘れる声だ」
「私はただの手当て係ですよ」
「ほっほっほ、そういうことにしておこう」
老人は笑って壁に頭をもたせかけた。
ナイアが困ったように笑った。リサは少し離れた場所で足を止めたまま、その横顔を見ていた。
医務室で聞いた老婆の言葉がまた浮かんだ。
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その夜、誰かが密かに話していた。
帝都の屋根が月明かりで青白く沈んでいる時刻だった。見回りの兵の足音が遠ざかり、犬の声も絶えて街がいちばん深く眠る時間。部屋に月の光が差し込んでいる。奥の寝台でリサは深く眠っていた。
ナイアが目を開けた。
夢と現のあいだのようなぼんやりとした表情。体は寝台に寝たまま。でも意識が半分どこか遠い場所に引っ張られている。その枕元にメイルが立っていた。
扉は開いていない。窓も閉まったままだ。メイルが小さく言った。
「やっと来たのね。会いたかったわ」
「遅れてごめんなさい」
ナイアの唇が動いた。ナイアの声で、ナイアではない誰かが答え、続けた。
「あなたの方は?」
「あの娘がよくやってる」
メイルが少し微笑む。ナイアの口がまた開いた。
「北の遺跡はどこまで進んでる?」
「掘り出しは装甲の三割まで。北へは何度か行ったわ。臨界点は思っていたより近い」
「……そう」
短い沈黙が二人の間に流れた。急ぐ話は終わっていた。
「そういえば」
メイルが思い出したように言った。
「この子、聖女様って呼ばれてるそうよ。触れると治りが早いって」
「知ってる。困った気持ちでいた」
「あなた、どこまで手を貸してるの?」
「少しだけ」
「言わないの?」
「人を治したい意思はこの子のよ。私はその意思に少し力を注いでやってるだけ」
「ふーん」
メイルは窓の方を見たまま言った。
「あの弓使いの娘も同じことを言いそう」
「……似てるのね、あの姉妹」
ナイアの声が急に細くなった。
「今夜はここまで。次に表へ出すには何日か置かないと、この子の体がもたないの」
「分かってる。無理はさせない」
ナイアは静かに目を閉じた。メイルはナイアの髪を一度だけ撫でる。それから月の光の中に溶けるように姿が薄れていった。
ナイアの寝息が戻る。部屋には月の光だけが残った。
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しばらくしてリサは目を覚ました。まだ深夜だ。隣の寝台でナイアがすやすやと寝ている。リサは喉が渇いたので桶を持って中庭へ出た。
外廊下にアレックが座っていた。眠れないらしい。
(眠れないのは昼間の訓練のせい? それとも)
聞かないことにした。その隣にクルが静かに座っている。寄りかかるのでもなく、離れるのでもない。ちょうど肩が触れる距離だった。
リサは声をかけずに、その場を離れた。
中庭の柱の陰にメイルがいた。月の光の中で壁にもたれている。どことなく疲れている様子だ。リサが声を掛けた。
「また日向ぼっこ?」
「夜だから月ぼっこよ」
「ずいぶん詩的なことを言うじゃない」
メイルが小さく笑った。笑ってからリサを見る。いつもの軽さの奥に今夜は別の何かがあった。
「話がある」
リサは桶を柱の横に置いた。
「今、聞くよ」
「今日じゃない」
メイルが北の空を見た。
「それに、私だけじゃ足りないの。もう一人、連れてくる」
「もう一人?」
「近いうちにね」
それだけ言って、メイルは夜の中へ消えた。足音がなかった。
リサは月を見た。
(もう一人?)
桶を持ち直して歩き出した。
月が高かった。同じ月の下で誰かが眠り、誰かが眠れずにいて、誰かが密かに言葉を交わしている。そのどれも知らないまま、帝都の夜は静かに更けていった。
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