第三十五話 二度目の拒絶
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朝から工房は弓の最終確認に追われていた。納品の期日が前倒しになったのだ。理由は告げられない。「急げ」とだけ伝えられて職人たちは手を早めた。リサは仕上がった弓を一本ずつ検めていく。弦音、ねじれ、重心。手が覚えた手順は考えるより速く動く。
(何かが動いている)
期日を縮めるということは、使う日が決まったということだ。誰も言わないが、それだけは分かった。
「総帥が試射に来られる」
昼前に部下が告げに来た。職人頭の顔が強張る。仕上げた弓を総帥自身が確かめる。それ自体は当然の流れだ。でもこのところの工房での出来事を思えば、誰にも重い知らせだった。
昼過ぎ、レオンが調整の終わった弓を試しに来た。
部下が的の前を空けさせる。工房の奥に置かれた巻き藁の的だ。距離は十五歩ほど。職人たちが壁際に下がって作業の手を止めたまま見ている。総帥自らが調整途中の弓を試すのは、前回とは違う緊張感があった。
一射目。
矢が的の中心近くに刺さった。職人の誰かが息を吐く。二射目も近い場所に入った。姿勢は正確だ。教本があるなら、そのまま図版にできる正確さだった。でもリサには見えていた。放つ瞬間の肩のわずかな硬さ。
三射目。矢は的に中った。中ったが音が硬い。真ん中ではなかった。
レオンが弓を下ろして的を見た。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「だが昨日の弓の方が素直だった」
「弓は同じです」
リサは言った。
「変わったのは射ち方の方です」
部下が息を呑むのが分かった。総帥の射を奴隷が評する。でもレオンは怒らなかった。怒るより先に的を見ていた。自分でも分かっているのだ。
「肩に力が入っています」
リサは言った。
「引き分けながら半分だけ吐いて、そこで止めてください。止めたまま離す。吐きながら放つと、肩が最後に落ちます」
レオンの手が止まった。
弓を持ったまま動かない。視線が的に向いている。あの目だ。クリッカーの時と同じ、自身の内面を見ているかのような目。
数秒の後、レオンは弓を下ろした。
「……誰に習った」
「あなたからです」
部下の一人が顔を上げた。奴隷が総帥に、教えを受けたと言っている。
レオンの表情が明らかに変わった。あともう少しだ。
(人がいる。いる方がいい。逃げ場がなくなる)
「蓮君」
リサがその名前を口にした。
「覚えていませんか? 射場の裏で、私にだけ言ったことです。呼吸が乱れたら、的の前で立て直せって」
「その名で私を呼ぶな!」
レオンが怒鳴った。
職人たちが一斉にうつむく。護衛兵が動きかけたが、レオンの手が制した。リサは動かなかった。
怒鳴り声なのに、語尾がかすかに揺れた。抑えている時の震えだ。
(誰だそれは? とは言わなかった)
レオンは弓を作業台に置いた。音が大きかった。そのまま何も言わずに工房を出ていく。兵が慌てて続いた。
工房に長い沈黙が落ちた。誰もリサと目を合わせない。それでも後悔はどこにもない。
リサは的に刺さった矢を見ていた。
弦に触れてから自分の手のひらが冷たく強張っているのに気づいた。怖くなかったわけではない。あの怒声を浴びて、体の奥がまだ強張っている。
(蓮君に届いている)
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梁の上の暗がりに、洞穴のように昏い黄色の目があった。
ヴァルディスは工房を見下ろしていた。総帥が怒鳴り、奴隷の娘が立ち尽くしている。
ヴァルディスの気配は完全に消してある。誰にも見えない。
総帥。人間はそう呼ぶ。ヴァルディスにとっては据えた駒の一つ、軍事顧問にすぎない。
その精神に小さなひびが入り始めている。
観察すれば分かる。声の震え。眉間のしわ。夜中の甘い菓子。縛った魂は部屋の中でも隠れられない。一つひとつは取るに足らない。人間の精神とはそういう小さなものの集積でできている。だから脆い。
娘の方は、今日は一度も上を見なかった。総帥の背中しか見ていない。
あの夜は迷いなく梁を見上げた娘だ。見えるはずのないものへ、正しい角度で首を向けた。
今日は見ない。都合はいい。ただ、見ない理由が「気づいていないから」ではないことだけが、わずかに引っかかった。
リサの中にもう一人分の記憶がある。しかし急ぐ必要はない。
北の発掘は進んでいる。今日も土が運び出され、古代の装甲が一枚、また日の光の下に現れた。ベルーヴァの全身が掘り出されるまでさほどかからない。あれが目覚めれば、軍事顧問の存在などもはや何の意味も持たない。人間の軍も天使の小細工も。
発掘現場では人間たちが競うように土を掻き出している。命じられたからではあるが、それだけではない。古代の力に取り憑かれたような目をする者が、すでに何人もいた。人間とは便利なものだ。滅びの道具を自分の手で熱心に掘り出してくれる。
闇の中で口の端が上がった。ヴァルディスの牙が、わずかに覗く。
すべてが終わった後、この世界は綺麗になる。その感覚だけが長い時間の中でヴァルディスとともにあった。
黄色い目が閉じた。閉じた場所に、もう何もなかった。
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「怒鳴られたらしいな」
夕方、アレックが工房に来た。工房中が見ていたのだから隠しようがない。
「うん」
「平気な顔をするな。手が止まってないのが逆に怖い」
「平気だよ」
「リサ」
「……平気じゃないけど、悪い知らせでもないの」
アレックが眉を寄せた。
「怒鳴られたくせに、悪い知らせじゃない?」
「無視されるよりずっといい」
「……お前のそういうところがたまに怖い」
「どういうところよ?」
「崖の方に向かって歩きながら、景色の話をする。みたいなところだ」
リサは少し笑った。アレックは笑っていない。
「ごめん。でも引き返さないよ」
「知ってる」
アレックはそれ以上何も言わず、作業台の端に腰を下ろしてしばらく黙ってリサの手元を見ていた。
帰り際、年配の職人がすれ違いざまに足を止めた。
「あんた、命がいくつあっても足りんぞ」
「すみません」
「……だが、あの方は今日、誰も罰しなかった」
職人は声を落とした。
「なんだか変わっちまったな。前は考えられんことだ」
職人はそう言いながら行ってしまった。リサは職人の背中を見送る。
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夜、リサは一人で弦を巻き直していた。
手を動かしながら怒鳴り声を思い返す。拒絶されて震えた。二度目なのに足元が沈む感じはしない。むしろ逆だった。
一度目は「誰だそれは」だった。今日は「その名で呼ぶな」だ。
知らない名前を、人は禁じない。
(蓮君が記憶を取り戻そうとしている)
先輩はいつも遠回りを嫌った。なら、こちらも遠回りはしない。明日も技術の話をする。菓子を渡す。射形を見る。
楔は打った。抜けない深さまでもう入っている。
弦を巻く指に力がこもった。
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