第三十四話 指先の記憶
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懐の布包みから、かすかに甘い匂いが漏れていた。昨夜、老婆がリサの手に押しつけてきたものだった。
老婆は奴隷区の縫い場で繕い仕事に従事している。ナイアの手当てを受けてから、また縫い場に座っていられるようになっていた。リサはナイアの薬草を届けに、その区画へ足を運ぶことがあった。
昨夜、繕い物の山の前で老婆が針の手を止めた。
「あんたにも分けてあげる」
リサが口を開く。
「大事にしてるんじゃなかったんですか?」
「大事だから分けるんだよ」
琥珀色の小さな塊が三つ布に包まれて、断る隙のない手つきでリサの手に載せられた。メイルが老婆に渡したあの菓子だ。
「甘いものはね、一人で食べると半分の味になる」
老婆は笑ってまた縫い物に戻った。
「疲れた時に舐めるといい。半日は動けるようになる」
「あの、これをくれた人のこと……」
「いいんだよ」
老婆はそれ以上聞かせない口調で、針の手を止めなかった。
工房に向かう道でリサは布包みを懐に入れ直した。
(蓮先輩、甘いもの好きだったな)
合宿の夜、差し入れの饅頭を誰より早く確保していた姿を覚えている。キャプテンの威厳はどこへやら、という顔で食べていた。あの菓子はあの顔を引き出せるだろうか。試す価値はある。
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午前中、レオンが工房に来た。
このところ、来ない日の方が少ない。職人たちも慣れ始めていた。最初の頃のような凍りつき方はしない。手は止まるが息までは止めなくなった。
今日の話はプランジャーだった。
「この部品の押す強さを調整できる作りに変えたいんです」
リサは作業台に置いてある板の上に図を描いた。
「今は木を小さく加工して突起状にしているだけです。これをプランジャーに置き換える。鉄のバネを内蔵して、ネジで押し込む深さを変えれば強さを調整できます」
「変える必要があるのか?」
「あります。矢のスパインが変われば、押し返す最適な強さも変わるので」
「ネジで調整できるのか」
「はい。バネの圧縮量をネジで決める構造です。現場で工具なしに変えられます」
レオンの目が図の上を動いた。否定の言葉を探して見つからなかった時の動き方だった。
「ではセンターショットの基準も変えるのか?」
「いえ、そこは固定です」
「弦の中心に合わせるのが帝国の作り方だ」
「それだと矢は真っ直ぐ飛びません。矢の太さの分、わずかに外へずらすのが正しい基準です」
レオンが眉をひそめた。
職人頭が首をすくめた。他の誰も口を挟まなかった。
「根拠はあるのか?」
「同じ矢で合わせ方だけ変えて射ち比べれば分かります。お望みなら、今ここでお見せします」
レオンはしばらくリサを見ていた。それから図に視線を落とす。
「……バネの試作を許可する」
不機嫌な声だった。でも許可は許可だ。
(知らない、という顔じゃなかった)
リサは図の線をなぞりながら思う。
(思い出せない、という顔だ)
帝国の弓を描いたのはあの人のはずだ。なのに、その図面の一部だけが本人の手から抜け落ちている。知識は残して、誰と一緒にそれを覚えたのかだけを沈めた。メイルはそう言っていた。抜けているのは知識そのものではなく、その知識の隣にあったはずの何かなのかもしれない。
その日のうちに、鍛冶場から取り寄せた鉄のバネを筒状の木枠に収めて一つ目を組んだ。総帥の許可、と言うと職人頭は材料の手配を渋らなくなった。
ネジを回すと内部のバネが沈み、指を離すと静かに戻る。構造は難しくない。詰めにはあと数日かかる。それでもリサの設計に十分近いところまで来ていた。
この世界の弓がまた一段階進化する。
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レオンが工房から帰ろうとした時だった。
リサは懐から布包みを出した。
「これを」
レオンが包みを見た。
「何だ?」
「甘い菓子です。奴隷区のお婆さんにもらいました」
「いらん」
レオンは短く言って視線を図面の方に戻そうとした。リサは続ける。
「疲れが取れますよ」
「毒見もしていないものを私に渡すつもりか」
「私が今、目の前で食べます」
それでもレオンは受け取らなかった。奴隷から物を受け取る、という行為そのものが問題なのだと、リサにも分かった。
レオンの背後で護衛の兵が身を硬くし、一歩前に出た。レオンが手を軽く上げると兵は踏みとどまった。
リサは一つを口に入れる。甘さが舌の上で溶けた。思わず笑みが浮かぶ。
レオンはその様子をしばらく見ていた。
リサはその顔を初めて近くで見た。目の下にわずかな疲れの色があることに、初めて気づく。
断る言葉を口が探している間に、レオンの手が先に動いていた。
「……不問にする」
言ったのは、包みがその手に移った後だった。
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その夜、レオンは自室に戻ってから外套を脱がなかった。
卓の前に立ったまま、外套の内側から布包みを取り出す。昼間のものだ。琥珀色の塊を一つつまんで口に入れる。
動きが止まった。
「……この味は」
油皿の炎が揺れる。
出てきたのは名前ではなかった。声だった。
この味を口に入れた時、必ず誰かが笑っていた。近くで。すぐ横で。笑い声の形だけが口の中に残っている。誰が笑ったのかは出てこない。どこで笑ったのかも出てこない。
その声を探して、レオンは長いこと動かなかった。
やがて包みを丁寧に畳み直して外套の内側にしまった。
しまう手つきが、自分でも思ったより慎重だった。
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