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第三十三話 触れない名前・ナイアの聖域

毎日投稿予定。

 呼べる名前が、まだ一つ残っていた。

 前の晩、リサは寝床の上で天井を見ていた。隣でナイアが眠っている。規則正しい寝息を数えながら、頭の中では同じ場面が繰り返されていた。固まったレオン。自分に問いかけるような声。

 (届いた。確かに届いた)

 クリッカーの一件から、リサは同じことを考え続けている。技術の言葉は届いた。洋弓部の部員にしか通じない言葉も届いた。なら、次は名前だ。順番は最初から決めてある。技術、専門用語、名前。外側から内側へ一段ずつ。

 怖くないと言えば嘘になる。拒絶されたらもう近づけなくなるかもしれない。総帥の不興を買えばナイアやアレックにまで累が及ぶ。

 でも待っていても扉は開かない。

 今の自分にできることをやるだけだ。

 名前にも段がある、とリサは思う。部活で誰もが使っていたのは「蓮先輩」。もう一つ、二人きりの時だけの呼び方があった。部の誰も知らない方だ。そちらは、まだ出さない。届かなかった時に、もう一枚も残らなくなる。

 レオンはまた工房に来る。それだけは確かだった。朝の工房で弦を張りながら何度も呼吸を整えた。名前ひとつ。前世なら、廊下ですれ違いざまに投げていた言葉だ。それが今は命の重さを乗せないと口に出せない。

 (それでも呼ぶ)


---


 午後、レオンが工房に来た。

 昨日の退出が嘘のような、いつもの顔だった。部下を二人連れて調整の終わった弓を確認しに来ている。職人頭が応対し、リサが弓の説明をした。引き重さ、矢との組み合わせ。レオンは短く頷きながら聞いていた。

 説明が終わった。

 部下が弓を抱えて先に工房を出ていく。レオンが背を向けかけた。

 リサの心臓の音が耳の奥で鳴っていた。レオンとの距離は五歩。部下は廊下に出ている。職人たちは作業に戻っている。この一瞬しかない。リサの口が開く。


 「あなたは、蓮先輩!」


 声が思ったより通った。

 工房の作業での削る音が一斉に止まった。誰も顔を上げない。上げれば巻き込まれる。

 レオンの足が止まった。

 振り返る。目がリサを見た。表情は動いていない。でも目の奥で何かが揺れた。一瞬だ。しかしすぐに消えた。


 「レンセンパイ? 誰だそれは」


 声は変わらず冷たかった。


 「私はレオンだ」


 リサは頭を下げた。


 「……申し訳、ありません」


 謝罪したのではない。表情を見られないための動作だった。息が漏れた。笑みとも震えとも分からなかった。

 (見つけた)

 目は嘘をつけない。冷たい声の奥に確かな揺らぎがあった。

 (あなたはそこにいる)

 レオンは何も言わずに工房を出ていった。足音が廊下を遠ざかる。削る音が一つ、また一つと戻ってくる。リサは頭を上げて作業台に戻った。指先の感覚がまだ戻らなかった。


---


 廊下の途中でレオンは足を止めた。

 (レンセンパイ)

 その音が頭の中に残っていた。意味のない言葉。奴隷職人の人違いだ。処罰するほどのことでもない。忘れればいい。このまま歩いて行けばいい。

 足が動かなかった。

 振り返る前の一瞬、その音に反応した自分がいた。呼ばれた、と体が判断していた。理屈より先に。

 「私はレオンだ」と、言い終わった後でその言葉が自分の耳に残った。

 すれ違った兵士が敬礼をして過ぎ去った。総帥が廊下の真ん中で立ち止まっている。それだけで噂になる。それでもレオンはすぐには動けなかった。

 理由が分からない。レオンは歩き出した。わだかまりは廊下の終わりまで消えなかった。


---


 夕方、指先の震えが止まらないまま、リサは医務室に足を向けた。ナイアの顔を見ておきたかった。

 扉が開けてあって薬草の匂いが廊下まで届いていた。覗くと窓際に低い寝台が置かれ、その手前の床に敷布が広げてあった。

 乾かしている薬草が梁から下がっている。敷布の上に奴隷職人の女が一人座っていた。ナイアが手首の包帯を巻き直している。


 「強く握りすぎなんです、道具を」


 ナイアが言った。


 「力を抜くと落としそうで」

 「落としたら拾えばいいんですよ。手首は拾えませんから」


 相手が笑った。ナイアは包帯の端を留めて手を放した。


 「はい、終わりです」


 礼を言って出ていく。

 その時、扉の外で影が動いた。

 廊下の奥に帝国の兵士が一人立っていた。若い。鎧の上に外套を羽織って槍を持っている。医務室の前を何度も通っている顔だ。外から声をかけたことはあっても、中に入ったことはない。

 入っていいのか分からない、という立ち方で扉の前を行ったり来たりしている。奴隷職人が二人、順番を待って壁際に座っていた。二人とも兵士を見ていない。見ないようにしている、という座り方だった。槍を持った男が奴隷の列に並ぶ。この区画の誰も見たことのない光景だった。

 兵士が一歩下がった。帰るつもりだ、とリサは思った。

 ナイアが顔を上げた。


 「どうぞ」


 兵士の肩が揺れた。

 順番を待っていた奴隷職人の一人が、黙って体をずらして場所を空けた。兵士はそこを通り、おずおずと入ってきて敷布の上に座る。腕に布を巻いていた。


 「……中に入るのは、初めてで」

 「手当てが必要な方はどなたでも受け入れます」


 ナイアが布を解きながら言った。手つきに迷いがない。腕に浅い切り傷が走っていた。訓練でついたものだろう。何日か経っている。

 兵士は自分の腕ではなく、ナイアの手元を見ていた。


 「……こんなに丁寧に触られたのは、いつ以来か分からない」


 言ってから、自分で言ったことに驚いた顔をした。

 ナイアは何も返さない。包帯を巻いて、端を留める。兵士の肩から力が抜けていくのが離れた場所からでも分かった。

 兵士が何度も頭を下げて出ていった。壁際の奴隷職人が、その背中を見送っていた。さっきまで見ないようにしていた男たちが、今は普通に見ている。

 ナイアが次の薬草の束を解きながらリサに気づく。


 「あ、お姉ちゃん。いつからいたの?」

 「さっきから。繁盛してるね」

 「繁盛って言わないでよ。怪我人が多いのはいいことじゃないんだから」

 「ごめん」


 ナイアは手を動かしながら笑った。


 「でもね、最近気づいたの。ここに来る人、傷を治しに来てるだけじゃないみたい。みんな、しゃべって、それで軽くなった顔で帰っていく。傷が塞がるのはその後」


 窓から夕方の光が入ってナイアの横顔を照らしていた。

 帝国も奴隷もない。痛いところのある人とそれを治す人がいるだけの場所だった。この部屋の中でだけ、槍を持つ側と持たされない側の線が消えている。

 その線を消しているのが自分だということに、ナイアだけが気づいていない。


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