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第三十二話 仮面の下・部員だけの言葉

毎日投稿予定。

 翌日、レオンは工房に来た。

 朝の光が高窓から斜めに差し込んで、削りかけの木材の上に細かい埃を浮かせていた。職人たちは前日より早く持ち場についている。総帥が連日この区画に現れることに、まだ慣れずにいた。

 昨日のチューニングの続きだと、部下が職人頭に告げた。調整した弓と同じ仕様のものを数本そろえる。それが今日の作業だった。リサが作業台の前に立ち、レオンが少し離れた場所からその手元を見ている。部下は二人、入口の近くに控えていた。


 「ブレースハイトはどの弓も同じでいいのか?」


 レオンが聞いた。


 「弓ごとに変えます」


 リサは弦を張りながら答えた。


 「リカーブを生かせるかどうか、弓の長さによりハイトの高さは変わります。基準は昨日の弓です。最後は実際に射って、弦音と矢の飛び方で仕上げます」

 「弦音?」

 「矢を放った時の弦の音です。濁って重い音がしたら、弦がリムに沿ったままの時間が長い証拠。ハイトを上げます。軽すぎて薄い音なら、リカーブが生かされていない証拠。ハイトを下げます」


 リサは矢をつがえて放った。濁った重い音が響く。ハイトを少し上げる。もう一度放った。今度は乾いた、芯のある音がした。

 レオンが少しうつむいて、指先を眉間に当てた。一秒。すぐに手を下ろす。

 リサの手が止まった。

 (あの仕草)

 見たことがある。大学の射場で蓮先輩が同じことをしていた。試合の前、疲れが溜まった時。指先で眉間を押さえてすぐに下ろす。それから笑って「平気だ」と言うのが先輩だった。押さえ方がまったく同じだった。違うのは、その後に笑わないことだけだ。


 「無理しないで」


 言葉が先に出た。止める間もなかった。

 職人たちの手が一斉に止まった。職人頭が顔を上げる。

 リサは目を逸らさなかった。

 レオンが何かを言おうとした。口が開きかけて、閉じる。今度は眉間を隠さなかった。指先がもう一度そこに触れてゆっくりと手を下げていく。


 「……続けろ」


 声は平坦だった。

 (怒鳴られなかった。怒ってないのか?)

 リサは弦に手を戻した。

 その後の作業の間、レオンは一度も眉間に触れなかった。代わりに弦音が鳴るたびに、レオンの目がわずかに泳いだ。音を追ってしまう自分に気づいて、それを振り払うように的の方を向く。その繰り返しをリサは横目で数えていた。


---


 昼を過ぎて、道具を取りに廊下へ出た。壁にメイルがいた。

 石壁に背をつけて、目を閉じている。金色の髪が肩に落ちて、薄い布のチュニック一枚で、壁の冷たさがそのまま背中に伝わっていそうだった。


 「メイル?」


 瞼が動いた。メイルが口を開いた。


 「あなたはいい方に進んでるわ」

 「……何の話?」

 「工房の話よ。弦の音であの人が眉間を押さえたでしょう」


 息が浅くなった。見ていたのか。


 「……あの人のこと、何か知ってるの?」

 「知ってるわ。全部ではないけれど」


 メイルは目を閉じたまま言った。


 「あの人はね、呼ばれてここへ来たの。自分で来たんじゃない。連れてこられたのよ」

 「誰に」

 「ヴァルディス」

 「……誰?」

 「地上に最後に残った悪魔。それ以上の説明は、たぶん今のあなたには要らない」

 「……なら、一つだけ教えて」


 リサはメイルを見た。


 「あの人はこの世界に十一年いる。私は五年。向こうでは一年しか違わなかった」

 「呼んだ手が違うもの」


 メイルは目を閉じたまま言った。


 「落ちる場所も、落ちる時も、こちらで決められるものじゃないの。私だってあなたを呼んで、どこに落ちたか分からなくてずいぶん探したのよ」


 リサは廊下の石壁に手をついた。冷たさが掌に伝わってくる。メイルの言う「悪魔」という言葉が頭の中で滑って、どこにも引っかからずに零れていく。


 「その悪魔が、あの人を作り変えたってこと?」

 「作り変えようとして、できなかったの」


 メイルは目を開けなかった。


 「知識も、弦を引く体の感覚も、あの人のものとしてそのまま残った。悪魔にも限界はあるのよ。封じられたのは、自分が誰で、誰と一緒に弓を引いていたのか、という記憶の方」


 (誰と一緒に)

 その一言が胸の底に落ちた。技術は残して、一緒に引いていた人間だけの思い出を抜き取る。そんな抜き方があるのか。


 「……なんで、そんな面倒なことを」

 「知識が要ったからよ。あの人が現世で知らなかった技術まで、頭の中に流れ込んでいたの。あなたが体験したのと同じことが、あの人にも起きていた」


 自分の頭の中に知識が雪崩れ込んできたあの日のことを、リサは思い出した。同じことが、あの人の中にも。


 「ヴァルディスはレオンを使って、この帝国を大きくした。道も、橋も、弓も、みんなそう」


 メイルが少しだけ間を置いた。


 「そして、あの人の中には今も蓮がいる。あなたが近づくたびに、その部分が目を覚ましていく。あなたの存在、あなたの技術、あなたの声。全部が引きずり出す」


 メイルが息をついた。


 「それが『いい方に進んでる』ということ」

 「……あなたが仕組んだこと?」

 「私はただ、あなたたちを会わせただけよ。後は、あなたたちの魂の選択」


 会わせた、という言葉が引っかかった。


 「……街道の待ち伏せも? あの斥候は、私たちが通るのを知ってた」


 メイルは目を開けなかった。


 「あの村の人に手は入れてないわ」

 「じゃあ何をしたの?」

 「怖がっている人はね、押さなくても倒れるの」


 メイルが壁に背を預け直した。


 「ヴァルディスは完全な支配を望んだ。だけどこの世界には完全なものは何もない。蓮の本能はあの人の中で何度も目覚めようとする。そしてあなたが来るたびに、もっと強く目覚める。ヴァルディスの洗脳は、あなたの前で少しずつ砕ける」


 それきり、メイルは口を開かなかった。壁にもたれた姿は彫像のように動かない。リサはしばらく待って、諦めて歩き出した。意味の分からない人だ。でもその言葉は妙に胸に残った。

 (あの人の中には今も蓮がいる)

 その一言だけが、リサの中で何度も反響していた。


---


 夜、レオンは自室の机に向かっていた。

 飾りのない部屋だ。寝台と机と剣を掛ける壁の金具。それ以外に物がない。余計な物は判断を鈍らせる。そう考えてそう作った部屋のはずだった。

 日記を開く。毎晩の習慣だった。書くことは決まっている。今日の作戦の進捗。物資の数。明日出す命令。記録は武器だ。記憶は薄れるが文字は薄れない。一昨日の頁には、理由を後から付けた二行が残っている。その前の頁には行軍の予定。そこにあるのは揺るがない人間の字だった。

 ペンを持った。

 書くことがなかった。

 作戦は動いていない。物資は予定通りに入っている。命令は昨日のままでいい。それなのにページを閉じる気にならなかった。白い紙が開いたままそこにある。

 ペンが動いた。

 (弓の弦音を聞いて泣きたい気持ちになった。理由が分からない)

 手が止まる。

 自分の書いた文字を見た。見覚えのない種類の文だった。作戦でも物資でも命令でもない。報告書のどこにも入らない一行が自分の日記の中にある。

 (自分はこんなことを書く人間ではない)

 ペンを置いた。

 (では自分は今、何者なのか?)

 答えはなかった。レオンは日記を閉じる。

 手が表紙から離れなかった。


 翌朝、気づけば工房に向かって歩いていた。

 命令はない。用事もない。視察の予定すら入っていない朝だ。廊下を歩きながら、頭のどこかが問いを組み立てようとしていた。なぜ行く。何のために行く。

 問いが形になる前に工房の扉の前に立っていた。


---


 扉が開いてレオンが入ってきた。

 部下を連れていない。一人だった。職人頭が慌てて頭を下げる。奴隷職人たちが作業の手を止めて壁際に寄った。


 「続けろ」


 レオンが言った。職人たちが恐るおそる手を戻す。

 レオンはリサの作業台の前まで歩いてきた。昨日仕上げた弓が並んでいる。一本を手に取って弦を指で弾いた。音が揃っている。それを確かめるような弾き方だった。


 「ブレースハイトは適正な高さに調整しました。最後の詰めは実射で見ます」


 リサは言った。


 「あとは引き尺の基準です。射手ごとに引き幅が違うと矢の速さも変わるので」


 「引き尺の基準はどう決める」


 レオンが聞いた。


 「射手の腕の長さから割り出します。矢の長さもそれに合わせるので兵ごとに測るのが本当です」


 「全軍では現実的ではないな」

 「であれば、体格で三段階に分けるだけでも違います」


 レオンが小さく頷いた。会話が技術の上では滑らかに流れていく。その流れに乗じて、リサは切り出すことにした。

 手を動かしながら、心拍が上がっていくのが分かった。

 (聞くなら、今だ)

 技術の話の中になら、自然に滑り込ませられる。リサは弦から目を上げずに聞いた。


 「リカーブのクリッカー、先輩はどの位置で合わせてましたっけ?」


 その言葉を口にした瞬間、レオンが止まった。

 弦に触れていた指が空中で動かない。視線が弓の上に落ちたまま、固定されている。呼吸の音が消えた。


 「クリッカー?」


 低い声だった。問い返しの形をしているのにリサに向いていなかった。

 リサは手を止めてレオンを見た。

 レオンの目が弓を見ている。唇がかすかに動く。


 「……知っているのか?」


 誰かに聞いたのではない。リサにはそう聞こえた。自分自身に問いかけるような声だった。


 「先輩なら、知っているはずです」


 リサは言った。レオンの肩がわずかに動いた。

 それから何事もなかったように弓を作業台に戻した。指の動きは正確だった。体の向きを変えて扉に向かって歩き出す。職人頭が何か言いかけて、口を閉じた。理由を言わない退出だった。

 扉が閉まる。

 リサだけがその背中を見ていた。


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