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第三十一話 呼べない名前

毎日投稿予定。

 「総帥がお呼びです」


 兵士が工房の入口に立っていた。リサを見ている。

 アレックが手を止め、リサに目を向ける。「気をつけろ」と小声で言った。

 リサは道具を置いた。

 (技術の話なら対等でいられる)

 廊下を歩きながらそれだけを考えた。


---


 案内された先は工房棟の奥にある部屋だった。弓の調整のためだけに作られた部屋だと、後で知った。

 縦長の部屋だ。奥行きは二十歩ほどある。石造り。窓がない。壁沿いに松明が等間隔に並んでいる。奥の壁に近射用の的座が設けてあり、革張りの表面が松明の光を鈍く反射していた。手前には作業台があり、弓を置くための溝が彫られていた。

 逃げ道はない。リサは部屋に入りながら、天井と壁を一度だけ確かめた。

 窓がない。風が入らない部屋だ。矢の精度を測るには都合がいい。

 レオンが作業台のそばに立っていた。部下が二人、離れた位置に控えている。

 リサはまっすぐ歩いた。レオンの前で立ち止まる。


 「お呼びになったのは弓の調整のためですか?」


 リサが聞いた。


 「そうだ」

 「弓を見せてください」


 作業台の上に弓が一本置いてあった。

 リサは弓を手に取り弦を指で弾いた。音が部屋に広がる。少し高い。次にグリップと弦の距離を確かめた。指を横にして測る。ブレースハイトが高すぎる。これではリカーブの力が殺され、矢の速さが落ちる。矢が相対的に固い方向に散る。側にある矢を見たが、どれもシャフトが太い物ばかりだ。次にノッキングポイントの位置を確かめた。弦の上に巻いてある細い紐。矢をつがえる基準点だ。


 「ブレースハイトが高すぎます。矢のスパイン値が引き重さと合っていないかもしれません。もしかして、射った時矢は左に散りませんか?」

 「なぜ分かる?」


 リサは弓を引く。弦が指に食い込む感触。引きの重さは中程度。弓が持つ力に対して矢の硬さが合っていない。硬すぎると矢は左に散る。


 「ブレースハイトを下げれば矢の速さが戻ります。その上で、引きの重さに合わせて矢を柔らかくしてください」


 レオンが少し間を置いた。


 「……スパインについて、どこで学んだ」


 答えは二つあった。

 はぐらかす。それとも、投げる。

 はぐらかせば、明日も同じ距離のままだ。この部屋には部下が二人いる。意味が分かるのは一人だけだ。

 リサは弓を持ったまま顔を上げた。


 「大学の洋弓部です」


 レオンが、わずかに息を止めた。


 「ダイガク? ヨウキュウブ?」


 レオンが繰り返した。声がわずかに変わっていた。問い返しではなく、言葉の形を確かめるような繰り返し方だ。

 レオンが作業台の縁に手を置いた。何かを思い出そうとしている様子だ。

 部下の二人は微動だにしない。総帥が奴隷の言葉に立ち止まったことに、気づいてもいなかった。

 リサは表情を変えず、作業台に目を戻す。


 「調整していいですか?」

 「やれ」


 レオンはゆっくり答えた。


---


 弦を外した。撚りを何回か戻して弦を長くする。張り直してもう一度、指を横にして測った。指の幅一本ぶん下がっている。

 ノッキングポイントは少し高めに付け直した。矢が上下に暴れる時はここで整える。

 その間、レオンが作業台のそばから動かなかった。見ている。手元ではなく弓全体を。リサが弦を調整する指の動きを何かを確かめるように追っていた。

 矢は今あるものから、柔らかそうなものを選んだ。一本ずつ撓めて、曲がり方が揃った三本を残す。


 「……それで分かるのか?」


 レオンが言った。リサの知識を試しているようにも感じる。


 「揃えておくと飛び方が安定して、スパインの傾向が分かります」


 レオンが黙った。それから弓棚の方へ目をやった。それきり動かなかった。

 リサは手元から目を離さなかった。


 「試射します」


---


 リサは矢をつがえた。的座に向いた。的座までの距離だ。

 弓を起こして、引く。

 弓の長さが自分の引き尺に合っている。他人のために作られた弓のはずなのに、引き切ってもリムが素直にしなった。リカーブが殺されていない。合わないのはサイトの高さだけだった。この弓は別の射手の目の位置で組んである。リサはサイトを自分の目に合わせ直した。弓の強さとドロー時の矢の角度で大体サイトの目安がつく。

 借り物の弓だ。それでもこの一射だけなら十分だった。

 リリース。

 弦の音が部屋中に響いた。

 矢が的に刺さる。中心に近い場所だ。「ふさっ」という柔らかい音がした。

 レオンが動く気配がした。

 振り返らない。もう一本つがえる。引く。リリース。また同じ音がした。


 「……問題ない」


 レオンの声が少し低かった。

 リサは弓を作業台に置く。振り返った時、レオンと目があった。レオンが口を開く。


 「お前、その射ち方をどこで?」


 レオンはそう言うと、目を閉じて人差し指を眉間にあてた。一瞬だけ、痛みをこらえる顔になった。弦の音がまだ部屋の石壁に残っている。その残響を追うような閉じ方だった。

 (今、何かが来た)

 リサには分かった。でも確かめる方法がない。


 「下がれ。……この者と技術の話をする」


 レオンが言った。部下に向けた言葉だ。

 部下が一礼して部屋を出る。二人きりになった。

 レオンはまた的に目をやった。


 「……もう一度」


 リサは弓を取った。矢をつがえる。引く。

 フルドロー。リリース。

 真っすぐ押して、真っすぐ引いて、真っすぐ離す。そして矢は真っすぐ的に向かって飛び、的の中心に刺さった。

 その瞬間、レオンは目を大きく見開き、激しく瞬きした。


---


 レオンの中で何かが動いた。

 リサのフルドロー、正十字、リリース。弦の音。矢飛び。この技術。全部が。

 この形を、自分は見たことがある。同じ射場に立っていた。隣にいた。

 その相手に呼びかけようとした。

 呼ぶための言葉が、口の中のどこにもなかった。

 名前が置いてあるはずの場所に、何も置かれていない。手を伸ばしても指が空を掻く。

 次の瞬間、何かが激しく押し戻した。蓮としての記憶は暗い闇の壁に阻まれた。

 レオンは動かなかった。弦音が耳に残っている。

 その音をこの体で数え切れぬほど聞いてきた。あの光景を見てきた。その記憶の断片が今、微かに蘇ろうとしていた。なのに、すぐさま深い闇の底へと沈んでいってしまった。


---


 「お前は誰だ?」


 レオンがリサに聞いた。


 「弓使いです」

 「それだけか?」


 リサはレオンの目を見た。


 「帝国に捕虜として連れてこられた、今は弓使いの技術者です」


 レオンが黙った。

 言葉を重ねるたびに、レオンの顔が微かに動いていた。何かを認識しようとしている。でも、そこで必ず止まった。


 「……下がれ」


 レオンはそう言いながらリサから目を離した。

 リサは弓を置いて部屋を出た。


---


 来た廊下を戻ると、工房へ通じる角にアレックが立っていた。壁にもたれて腕を組んでいる。

 持ち場を抜けてきたのだと分かった。リサの顔を、無事かどうか確かめるように見ている。


 「どうだった?」

 「技術の話ができた」

 「それだけか?」

 「……それだけじゃなかった」


 アレックが壁から体を離した。


 「何をされた?」

 「何もされてない」


 リサは首を振った。


 「ただ……、弓を見ている目が私のよく知る人と同じだった」

 「よく知る人というのは?」

 「……言っても、アレックには分からない」


 アレックが眉をひそめた。


 「なぜ分からない?」


 リサは来た廊下の奥を見た。


 「アレックに嘘をついても仕方ないから言う。あの総帥は、私がよく知っている人。それだけ」

 「それだけか?」

 「今は、それだけ」


 アレックが小さく息を吐いた。怒っているのではない。ため息の種類が違った。


 「……無茶をするな」

 「してない」

 「してる! 帝国の総帥に一人で呼ばれて技術の話をして帰ってきた。それだけで十分無茶だ」


 リサは手を見た。指先がまだ少し震えていた。


 「……そうかもしれない」


 アレックが先に歩き出した。リサはその後ろについていく。廊下が長かった。


「面白かった!」

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