第三十話 クルの本能・それぞれの夜
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三日前から雨が続いていた。
外の杭は水を吸って泥になり、クルは工房の中の柱に繋がれている。雨で縄が緩んでいた。入口の戸は半分閉ざされ、風は入口から工房の奥へ抜けていた。
その朝、クルが「ワン!」と鳴きながら飛びだした。
止められなかった。柱の縄を引きずったまま、次の瞬間には工房の中を走り抜けていく。リサが名前を呼ぶより早かった。
(怒っているんじゃない。これは)
体が勝手に動いていた。奴隷職人たちが後ずさりする。入口の方角から廊下を歩いてくる足音が近づいていた。
風は今日だけ、あちらからこちらへ流れている。
間に合わない。
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レオンが、護衛を二人連れて工房の入口に姿を見せた瞬間だった。
縄を引きずった白い塊が廊下から飛び込んでくる。
護衛の兵士の一人が剣に手をかける。もう一人が前に出ようとした。しかしレオンはすでに受け止めていた。大型の獣が前足を両肩にかけ、大きな尻尾を振りながら顔を舐め回す。
「殺せ!」
前に出た兵士が言った。
レオンが片手を上げる。
剣を抜きかけた手が固まる。前に出た兵士の足が止まる。奴隷職人たちも息を呑んで動けない。
クルはまだ舐めていた。
(温かい。白い毛が頬に触れる。大きな鼻が首筋に押しつけられる。重い。重いのに不快ではない)
レオンの心拍が跳ね上がっていた。
(……知っている)
声が漏れた。自分でも気づかないうちに。
部下の一人が小さく息を呑む気配がした。レオンはクルの首を両手で持ち、体を離させた。金色の目がまっすぐこちらを見ている。
(なぜ? このような感覚が……)
この犬は知らない。城門で一度見た。それだけだ。なのに体が知っている。この重さをこの温もりをどこかで受け止めたことがある。そう感じるのに、理由がなかった。
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入口に人影があった。
リサだ。工房の入口で立ち止まっている。息が少し乱れている。走ってきたのだと分かった。
目が合った。
帝国に捕まった弓使い。頭ではそう理解していた。しかしそれとは別のところで何かが動く。
(俺はこの女を知っているのか?)
胸の中に問いが立った。知るはずがない。工房で一度、言葉を交わしただけの奴隷だ。
(なぜ、俺はそう感じる?)
答えが来ない。レオンはリサから目を離した。
クルがリサのそばに歩いていった。大きな鼻を膝のあたりに押しつける。リサの手がクルの首に触れた。
部下が小声で言った。
「……この者たちの扱いはいかがいたしますか?」
レオンは工房の中を見渡した。棚の弓。硬い順に束ねられた矢。先日作り直されたグリップの継ぎ目が見えた。仕事は本物だ。この技術からまだ引き出せるものがある。とっさにそう判断した。
「この犬は私が預かる。この者たちの管理も私が行う。工房棟へ移せ。宿舎も分ける」
部下が頷く。それ以上は問わない。
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その日の夕方、レオンの指示によりリサ、ナイア、アレックは工房の宿舎を出ることになった。引率の兵士に誘導され表に出る時、廊下の端にペトロスが立っていた。夜の見回りの持ち場だ。
リサの足が止まった。
ナイアが頭を下げる。ペトロスが顎を引いた。
収容所での日々がある。ブラガの指示が届く前からペトロスだけは「できる範囲で」という顔でリサたちを丁重に扱っていた。
引率の兵士が先に角を曲がった。その一瞬だった。
リサが言った。
「ペトラキア村に帰った時はタリスによろしく」
ペトロスは一瞬驚いた様子を見せたが何も言わない。背を向けて歩き出す。廊下の光の中で肩が一度だけ震えた。
リサたちが連れて行かれた先は工房に続く棟の奥にある小さな部屋だった。石の床。薄い寝具が三枚。先日届いた布も一緒に運び込まれていた。扉には外からかかる鍵がない。ナイアが窓のそばに立った。
「……広い」
小さな声だった。
しばらくしてクルが部屋に入ってきた。兵士が縄を外して放したのだろう。大きな体で入口に立ち、部屋の中を一度見渡してからリサの隣に座った。
夜になって食事が届いた。
木の器に麦と干し肉を煮たもの。クルの前には別に骨付きの肉が入った器が置かれていた。アレックが自分の器を持ち上げて、じっと見ている。
「毒かもしれない」
アレックが自分の器から一口分をつまんでクルの鼻先に寄せた。クルが鼻を突っ込んでそのまま食べた。それを見てアレックが呟いた。
「大丈夫みたいだ」
ナイアが言った。
「クルをそういう使い方しないで」
「毒なら昨日も今日も私たちは生きていない」
リサが返した。
「……正論だ」
アレックが自分の器に手を伸ばした。クルがリサの膝に頭を乗せる。クルの器が空になっていた。
器を返しに三人で廊下へ出た。ナイアが壁の隙間の前で立ち止まった。石と石の隙間から細い草が一本伸びている。
「これ、使える」
ナイアが草を摘む。アレックの手首の内側に擦れた赤い跡が残っていた。丸太の樹皮に何度も擦れた跡だ。ナイアが草を揉んで汁を出し、そこに当てた。
「お前、どこでもそれをやるな」
アレックが言った。
「習性です」
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その夜、レオンは日記を書いた。
油皿が一つ。炎が小さく揺れている。ペン先が紙を走る音だけが部屋に響いた。
業務の記録を終えて、レオンは今日の項の末尾に二行だけ足した。
「奴隷三名を工房棟へ移す。理由、弓の技術の確保」
「犬一頭を直轄で管理する。理由、同上」
書いてから、その二行を見た。
どちらも今日、口が先に動いて出た命令だった。理由は後から付けた。付けた理由に嘘はない。ただ、順番が逆だった。本来ならば、理由が先にあって命令を出す。
ペン先が止まる。炎が揺れる。
レオンは日記を閉じた。炎を消す。暗闇が部屋を埋めた。
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その夜、クルは深い眠りについた。
夢の中では体が小さかった。
芝生の匂い。短く刈られた緑を全力で走っている。蓮が「クル!」と叫ぶ。追いかけた。でも声はいつも少し先にある。走っても走っても声は先へ行く。蓮にたどり着けない。
クルは目を覚ました。
暗い部屋だった。石の床。近くでリサの寝息が聞こえる。
鼻先に残っていたのは、匂いではなかった。その奥にある何か、体温の揺れ方のようなもの。あの人間は蓮だ。
クルは起き上がらなかった。鼻先をリサの腕に当てて、また目を閉じた。
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深夜、リサは目を覚ました。
クルが鳴いていた。遠吠えではない。もっと低く、短い声だ。
起き上がってクルを見た。暗がりの中でクルの首が一方向を向いている。
あちらだ、とリサには分かった。工房棟ではない。もっと奥の高い棟の方角だ。
リサはクルを抱き寄せた。クルはリサの頬を一度だけ舐め、静かに同じ方角を向いたまま体をリサに預ける。
眠れなかった。クルも同じだった。
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