第二十九話 白昼の射形
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太鼓が鳴った。
遠くから届く、低く重い音だった。工房の石壁を通り抜けて床に伝わってくる。閲兵式が始まった。
奴隷職人たちが作業の手を止めた。誰も言葉を発しない。棚の弓を見ている者、作業台に視線を落としたまま動かない者、窓の外を気にしながら手を止めている者。誰も口をきかなかった。
昨日から噂が流れていた。閲兵式に総帥が出る。
リサだけが別の理由で動悸を抑えていた。
蓮先輩であることはもう疑っていない。
工房で一度、その姿を見た。顔は知らない誰かのものなのに、それだけで動けなくなった。
(十一年だ)
自分の五年と噛み合わない数字。答えは後回しにしてある。
それを今日、この目で確かめることができる。手のひらが湿っていた。作業台の端を握る。木の感触が冷たい。
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閲兵式は工房の前の広場で行われた。
奴隷職人も全員参加だ。二列に並んで端に固まって立つ。太陽が真上に近い。石畳が熱を持ち始めていた。遠くから太鼓の音が近づいてくる。整列した兵士の列が見えた。号令の声が広場に響く。
体が少し震えるリサの様子を見てアレックがリサの隣に立った。列に着くまでの歩幅は、まだ元に戻っていない。アレックが小声で聞いた。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
嘘だ。自分でも心臓が高鳴るのを感じる。
太鼓の音が大きくなった。先頭の騎馬が広場に入ってくる。兵士の列が続く。足音が揃って、一つの生き物のように動く。整然とした行進から、徹底して訓練された様子がうかがえる。
それから広場がざわめいた。黒く大きな馬にまたがった男が現れた。レオンだ。
帝国の紋章が肩に入った黒い外套。背筋がすっと伸びている。視線はまっすぐ正面を向いたまま動かない。表情がない。
リサは息を止めた。
遠い、まだ遠い。でも馬の歩みに合わせて体が揺れる微妙なリズムの中でその姿勢が見えた。
隊列が工房の近くまで来た。レオンの姿がはっきりと確認できる。まっすぐな背骨、わずかに引いた顎。体幹のぶれがほとんどなく肩の力が抜けて重心が低いことが馬上でさえも分かる。
(体の使い方があの頃のままだ)
レオンの視線がこちらに向いた。奴隷職人の列を一度だけ流す。リサの顔の上を通り過ぎた。
喉の奥が熱くなった。膝から力が抜けそうだった。石畳の上に白い陽炎だけが揺れていた。
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それから数日後の午後。
工房の入り口につながる廊下から足音が聞こえた。奴隷職人たちが驚きながら道を開ける。
レオンが工房に入ってきた。
部下を二人連れていた。職人頭が緊張しながら頭を下げる。レオンが口を開く。
「最近、弓の命中精度が上がったと報告があった」
抑揚のない声だ。職人頭が硬直しながら答える。
「はい。握りを作り直し、しなり部分の先端を削りました」
「グリップとリムか」
レオンは棚の方を見たまま言った。
「誰がやった」
職人頭がリサの方を見た。
「この者です。セリアから来た奴隷です」
レオンの視線がリサに向いた。何かを言いかけて、言わなかった。
「矢はどうした」
声の調子は変わらない。
「スパインは合わせなかったのか」
<スパイン>
その言葉が、この石造りの工房の中で鳴った。
リサの指先が冷たくなった。あの日、職人頭の前で飲み込んだ言葉だ。この世界の誰にも通じないと分かっていたから、口の中で潰した。それが今、目の前の男の口から、当たり前のように出てきた。
答えなければならない。声が遅れて出た。
「……弓の側で合わせました。矢を作り直す許しがなかったので」
「弓の側で?」
「弓が矢を押し出す力を直しました。矢の硬さは相対的に下がります」
レオンの目がわずかに動いた。何かを確かめる動きだった。
「見せろ」
職人頭が棚から弓を一つ取って両手で差し出した。
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レオンが弓を受け取り、グリップを握る。
肖像画と同じ持ち方だ。力を入れていない。グリップの収まり感を入念に確かめているようだ。
矢はまだつがえていない。素引きで確認している。
アンカーに入った時、首がわずかに右に傾いた。
(知ってる)
その癖を知っている。狙いに入る直前に、必ず首が右に少し傾く。何度直そうとしても直らなかった癖だ。昔、指摘するたびに蓮先輩は笑って、「癖なんだよ」と返した。
目の前の男は笑わない。
リサは作業台の端を掴んでいる。
部下の一人が矢を一本持ってきた。レオンが受け取る。工房の奥の巻き藁に向いた。仕上がった弓を試射して調整する設備だ。距離は十五歩ほど。
アレックが体を固くした。隣で息を詰めるのが分かった。
リサは前に出ようとした。
(引くところを近くで見たい)
半歩だけ、気づいた時にはもう体が動いた。
レオンが矢をつがえた。
セット。足幅は肩幅。前足がわずかに引けている。オープンスタンスだ。この世界の弓使いは両足の先端を結んだ線が的に向かうようにして立つ。レオンの立ち方は違う。
セットアップ。弓を持ち上げる。押し手の肘が外に向いている。ロールアウトの形だ。弓を引く前から体の構造が決まっている。
ドローイング。引き手がゆっくりと後方に動く。肘が外に逃げない。肩が上がらない。背中の筋肉で引いている。弓の力に逆らわず、体の中心軸から左右に伸びる引き方だ。
引き切った時、肘が肩の延長線上に収まった。肩甲骨から上腕骨までが一直線になってゼロポジションを取り、矢筋が通る。
アンカリング。引き手の人差し指の付け根が顎の下に収まる。弦が鼻先と顎の中心に触れた。親指が顎の線に沿って首の方へ伸びている。あと少し引けば首の筋に触れる、その手前。昔よく見ていたあの位置だ。サイトを覗く者のアンカー。照準器を持たないリサのそれより低い。
(同じだ)
リサの呼吸が止まっていた。
エイミング。的の中心でサイトが止まり、止まったまま動かない。
(矢を放つタイミングの合図がない)
この世界には、あの小さな金属音がない。引き切ったところで鳴ってくれるものが何もない。それでもレオンはほんの少し待った。ほんのつかの間のフルドロー。
リリース。指が弦から離れた。微動だにしない押し手から弓が前に押し出される。同時に引き手の肘が後方に流れる。右腕が後ろへ抜けた。体が弓の力を全く邪魔しない。それから弓が前に倒れた。
投げ出すように前に。
弓は落ちない。手首に弓を落とさないための腕輪状の革紐がかかっていた。
フォロースルー。弓がぶらりとぶら下がった。引き手は後方に流れ、体の中心軸は一貫して安定している。
矢が巻き藁に刺さっていた。中心に近い場所だ。
誰も声を出さない。工房の中が静かだった。この世界の弓使いとは違う、体全体が弓と一体になって動く射ち方だった。
美月が追いかけ続けた射法だった。その全てが、いま目の前の男の体で再現されている。
そう理解していたはずなのに、指先の震えは収まらなかった。
半歩前に出たままだったことに、その時になって気づいた。
レオンが部下に弓を返した。それから作業台に視線を移す。
矢の束の前で手が止まった。
硬い順に並んでいる。しなりの強いものから弱いものへ、一本ずつずらして束ねてある。
この世界の誰も、矢をそんな順番で並べない。並べる意味が分からないからだ。
レオンの目がわずかに見開かれた。
「いかがなさいましたか?」
部下の声だった。
「……何でもない」
レオンは束から手を離した。指が一度だけ、並びの端をなぞって戻る。
それから歩き出した。足音が廊下を遠ざかっていく。
奴隷職人たちがゆっくりと息を吐いた。いつもの工房の空気が戻ってくる。
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しばらくしてアレックがリサのそばに来た。
「お前、ずっと手が震えてた」
リサは作業台を見た。それから自分の手を見る。
「……そうだった?」
「気づいてなかったのか」
自分では気づいていなかった。掌が汗で湿っていたことも、作業台の端を握りしめていたことも。
アレックが心配そうにリサの顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
言ってから今度は少しだけ落ち着きを取り戻した。
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