第二十八話 聖女様と眠れない夜
毎日投稿予定。
「骨が折れている時はこうやって固定する」
添え木を当てながらリサは続けた。真っすぐな木の棒を二本、骨折部位の両側に沿わせて布で巻いていく。きつすぎると血が止まる。緩すぎると固定できない。指一本分の余裕を残す。
ナイアが横で見ていた。真剣な目をしている。
「包帯はここで折り返して重ねる。端はこうして留めて」
「なぜ折り返すの?」
「ほどけにくくなる。あと、重ねた方が圧が均一になるの」
ナイアが頷いた。すぐ次の患者に向かう。さっき教えたことを自分の手でやってみる。最初は少し迷いがあった。でも二度目には迷いが消えていた。
(飲み込みが早い)
美月としての流れ込んだ知識が、ナイアの中でこの世界に根を張っていく。傷口は清潔な布で押さえる。膿んでいる傷は一度煮沸した水で洗う。熱が出ている者には水を少量ずつ頻回に与える。どれも当たり前のことだが、この世界では当たり前ではなかった。
感染という概念がない。傷口に土を塗る者がいる。熱が出たら断食させる者がいる。そういう世界だ。
ナイアが教えると奴隷職人たちが処置のやり方を聞いた。翌日には別の者が実践している。一週間後には奴隷区の中で小さな看護の輪ができていた。
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ある夕方、見回りの兵士が医務室の前で立ち止まった。
若い。20歳前後か。鎧の上に外套を羽織って槍を持っている。定期的に来る顔だった。いつもは素通りするのにその日は少し足を止める。
ナイアが外で老人の足を診ていた。兵士がそれを見ている。
「よく治るな」
と兵士が言った。独り言のような口調だ。
ナイアが顔を上げて答えた。
「少しでも楽になれば」
兵士は何も言わない。しばらく見てからまた歩き出した。
次の日も来た。またその次の日も。いつの間にか見回りのついでに立ち寄るのが習慣になっていく。
ある日、リサが外で包帯を干していると兵士が隣に立った。
「今日は誰も運ばれてこないな」
兵士が言った。リサは包帯を畳む手を止めずに答えた。
「そういう日もあります」
それから、リサが聞いた。
「レオン総帥はどんな人ですか?」
「なぜ?」
兵士が少し驚いた顔をする。
「工科院の肖像画を見ました。弓を持っていたから」
兵士は少し考えてから口を開いた。
「総帥は訓練場で何度か見た。一人で弓の練習をしていた。弓の引き方が独特だ。俺たちとは全然違う。軍の正式な射法じゃない。でも中る。あの引き方で外したのを見たことがない」
「一人で?」
「ああ」
兵士は槍の石突きで石畳を軽く突いた。
「夜中に一人で立ってることもある。誰も呼ばない。俺たちが遠くを通っても、こっちを見ない」
その言い方に、恐れとは別のものが混じっていた。
リサは包帯を畳みながら聞いていた。
蓮先輩は、一人では引かない人だった。誰かの後ろに立って、黙って肘を直して、それから自分の的に戻る。夕方の射場にはいつも誰かがいた。
リサは何も言わなかった。
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奴隷たちがナイアを「聖女様」と呼び始めたのはその頃だった。
最初に言ったのは誰かわからない。でもいつの間にか広まっていた。ナイアが通ると頭を下げる者がいた。触れてもらうと治りが早いと言う者がいる。
ナイアは困った顔をしていた。「私は何もしていません」と言うのだが誰も信じない。
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異変に気づいたのはクルだった。
工房の前に繋がれたクルが、ある夜から落ち着かなくなった。縄の擦れる音がして目が覚める。戸口から外へ出るとクルが南の方角を向いて座っていた。耳が立っている。鼻が動いている。
「どうしたの?」
リサは声をかけた。
クルが振り返った。金色の目がリサを見た。それからまた南を向いた。南。セリアのある方角だ。
前にもこうして何もない方を見ていたことがある。何かが来る前にいつもこの目をした。何かが動いている。まだ遠い、どこかで。
リサはしばらくクルを見ていた。クルは動かない。夜風が工房の軒を揺らした。
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ブラガがレオンに報告したのはその翌週だ。
執務室の隅でブラガは数字を並べた。
「あの二人が来てから、負傷と病の復帰までの日数が短くなっています。特にナイアという少女が手当てした者は顕著です」
レオンは書類に目を落としたままだ。
「ふむ」
「労働力の観点から、あの二人の配置は有効です。継続を推奨します」
「分かった」
レオンはまた書類をめくった。
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視察は翌日の午後だ。回復の数字が本当かを自分の目で見る、という名目だった。
レオンがブラガを連れて奴隷区に入った時、ナイアが骨折した老奴隷職人の添え木を当てていた。その横でリサが無言で包帯を持ち、ナイアの手の動きを目で追っている。
レオンは立ち止まった。ブラガが数字を説明し続けている。
「この区画の負傷・病気からの回復が……」
ブラガの声が遠くなった。レオンはリサを見ていた。
リサが包帯を渡す。ナイアが受け取る。二人の間に言葉がない。長く一緒にいた者の間にある言葉のいらない呼吸だった。
ブラガがまだ話している。レオンはブラガを遮った。
「あの二人の待遇を改善しろ」
ブラガが止まった。
「は?」
「労働力の維持が目的だ。寝床に布を入れろ。医務室に薬草と布を回せ」
ブラガは一瞬だけ、何かを考える顔をした。それから「承知しました」と言った。
リサはレオンに気づいていなかった。ナイアの手元だけを見ている。
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夜になった。
宿舎の石の床が冷たい。藁の上に横になって天井を見た。眠れなかった。
明日、閲兵式がある。レオンが出る。帝国の軍事行進の式典で総帥として馬上に立つ。会場は工房の前の広場だと、見回りの兵士が教えてくれた。
(明日、見られる)
工房で一度すれ違った。横顔をひと目見て、あとは顔を伏せた。弓を引く音とひとことの呟きを背中で聞いただけだった。明日は伏せずに見られる。馬上の、総帥としてのレオンを。今の蓮先輩を。
怖かった。
(もう、そうとしか思えない)
そこまで来ているのに、その先が怖い。蓮先輩の記憶が、もうどこにも残っていないかもしれない。帝国の総帥として生きてきた人間がそこにいるだけかもしれない。
(もう蓮先輩じゃないかもしれない)
そう思うと、会いたいのか会いたくないのか分からなくなった。
遠くから兵士の訓練の音が聞こえた。規則的な足音。号令の声。帝都の夜はいつもこの音がある。
窓の外を見た。帝都の夜景が広がっている。篝火が点々と光っている。石造りの城壁が月の光を反射している。
クルが外で動く気配がした。縄の音。それからまた静かになった。
夜が更けていく。リサだけがまだ眠れずにいた。
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