第二十七話 名前のない菓子
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あの老婆のことを、リサはずっと気にかけていた。
収容所に入った最初の夜、隅に座っていた老婆が何かの実を三つ差し出した。言葉はなかった。受け取った実はわずかに甘かった。リサはそれをナイアとアレックに渡した。
帝都に来て三週間ほどで工房の隣に医務室ができた。
ブラガが設けた。理由は単純だった。奴隷職人は労働力だ。体が動かなければ生産が止まる。医務室は投資だった。
ナイアがそこに配属された。看護の仕事だ。工房で男の傷が一晩で塞がったと報告が上がっていたことを受け、ブラガが決めた。
リサも手伝いに入ることがあった。
医務室ができて数日後の午後、老婆が連れてこられた。
歳のせいで足がうまく動かない。立ち上がるのに時間がかかる。食欲も落ちている。「動けなくなると困る」という管理者の判断だった。
ナイアが横に膝をついた。手首を取って脈を見る。目の下を指で軽く引いて色を確かめる。老婆はされるがままだった。細めた目でナイアの顔をじっと見ている。
「疲れが溜まっているだけです」
ナイアが老婆の膝に手を置いた。しばらくそのままでいて、それから離した。
「少し楽になるかもしれません」
老婆は頷かなかった。その目はナイアの顔ではなく、胸のあたりのもっと奥を見ていた。
「……おや?」
乾いた声だった。
「こんな泥の底に綺麗なものが」
「え?」
ナイアが顔を上げる。
「お前さんじゃない。お前さんの、えーっと、奥のほうだ。暗がりに小さな光が一つ、じっと息を潜めている」
ナイアは胸に手を当てた。
「私には、何も……」
「ほうほう、今はそれでいい」
老婆は目を細めた。遠い昔を見るような目だった。
「昔ね、私にも視えていた。小さい頃一人で納屋にいると、誰もいない隅に青白い光の粒が浮いていた。名前は知らない。けど、怖くなかった。大人になって視えなくなった。……今日、お前さんの奥のそれを見て思い出したよ。同じものだ」
老婆はそれだけ言って膝の上で手を組んだ。
少し離れて包帯を畳んでいたリサは手を止めた。妹の横顔を見る。ナイアは自分の手のひらを見ていた。
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その日の夕方、医務室の外に人が立っていた。
石畳の上に、音もなく。金色の髪が暮れ残った光を受けている。薄い布のチュニックが片方の肩から落ちている。薄いサンダル。首に琥珀色の首飾り。甘い匂いがほんのり漂った。
「メイル!」
リサが呼んだ。喉が少し強張った。
石畳を行き交う者が誰一人、その姿に目を向けない。
「どうしてここに?」
「そんなこと、どうでもいいでしょ」
軽い声。あの時とぜんぜん変わらない。
メイルは手の中のものをリサに見せた。琥珀色をした小さな塊がいくつかある。奴隷区であの老婆が胸元に隠していたものと同じ色だった。
(あの夜、あの人が抱えていたのは、これだったのか)
「もう一度、渡してくるわ。あの、もう壊れそうなおばあちゃんに」
「何? それ」
「名前はまだ、ない」
あっさりと言う。
「甘いものよ」
琥珀色の目に悪意は見えない。リサはふと、ドロスの工房を思い出した。ナイアの菓子を一つよこせと言って工房中を追い回していた娘だ。その娘が今、自分の手のひらの上のものを、まるごと他人にやろうとしている。リサが答える。
「……うん」
メイルは医務室に入った。ナイアが顔を上げる。
メイルは老婆の横にしゃがみ菓子を手渡す。その時、メイルの目が一度だけナイアに向いた。ナイアの顔ではなく、その奥へと向けられているような気がした。老婆が見ていたのと同じ雰囲気だった。それから、何事もなかったように目を戻す。
老婆が菓子を受け取った。泥で汚れた節くれだった指でその小さな塊を大切そうに両手で包んでから、ゆっくりと一口、口に運んだ。
老婆の目から涙がこぼれた。皺の上を薄い筋を描いて伝っていく。
「……十年ぶりに。生きてる心地がしたよ」
かすかな声だった。リサはナイアの隣でそれを見ていた。
しまい込んでいた方を、この人は一つも口にしなかったのだ。
メイルが立ち上がり医務室を出た。リサは後を追って廊下に出た。
「なんで、あの人に?」
「さあ」
メイルは振り返らない。
「甘いものが、ちょうど余っていたから」
余っていたわけがない、とリサは思った。あの手のひらの上には、それしかなかった。
それから、ふと足を止めた。メイルが口を開く。
「ねえ、ちょっと、あなた。ずっと遠くから、あの帝国のお偉いさんを見ているわね」
リサはすぐに悟った。レオンのことだ。メイルが続ける。
「見ているだけね。手を伸ばさないじゃない」
声は相変わらず軽い。
「もったいない。確かめたいなら見ているだけじゃ何も変わらないのに」
「何の話?」
「さーあ。何の話かしらね?」
メイルはそれきり何も言わずに石畳の上を歩いていった。暮れ残った光の中に金色の髪が溶けていく。後に甘い匂いだけが残った。
リサはしばらくその場に立っていた。
なぜメイルは、自分がレオンを気にかけていることを知っているのだろうか?
開いたままの戸口の向こうで、老婆が両手を胸元へ運ぶのが見えた。残りの菓子を包んだまま、そっとしまい込む。子供のような顔だった。
メイルは一体何を知っているのか? 私に何をさせる気なのか?
菓子の甘い匂いがまだ廊下に残っていた。
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