第二十六話 帝国の二面・暗がりの目
毎日投稿予定。
帝都は普通の街だった。
侵略を繰り返す軍事国家の中枢が、これほど普通に見えるとは思っていなかった。
工房の南の窓から外を見ると布を頭に巻いた女性が水瓶を運んでいる。市場の屋台を仕切る中年女性が大声で値段を叫んでいた。子供の手を引いた母親が荷物を背負って石畳を急いでいる。
香辛料と魚と皮革の匂いが混じった空気の中を人々が行き来している。元気のいい話声が聞こえるし、笑い声も聞こえる。誰かが誰かと言い争っている声も聞こえた。普通の街だ。
その人混みの手前を、丸太を担いだ列が横切っていく。先頭から三人目がアレックだった。歩幅は戻りきっていない。三日前と同じだけ狭いままだ。
同じ窓から街道も見えた。
荷馬車の列が長く続く。護衛の兵の数が多すぎる。荷の重さで車輪の沈み込みが深い。列は北へ向かっていた。リサはその列を三日のあいだ、数えた。日に二度、多い日は三度。
(普通の物資ではない)
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その日の夜、工房の作業が終わった後、ガルという奴隷職人仲間が、低い声で話しかけてきた。40過ぎの男で革の加工を担当している。物静かで必要なこと以外はあまり話さない。工房で使う革は収容所の倉から出る。受け取りに行くのはこの男の役目だった。先月そこで、リサの名が点呼で読み上げられるのを聞いたらしい。セリア国から連れてこられた娘、と。
「収容所の警備に、ペトロスという兵士がいる」
リサは手を止めた。あの点呼の兵士だ。背を向けたまま肩を震わせていた、あの背中。名前も、その名前が誰の孫でどこの村の生まれかも、リサはとうに知っている。
「知っています」
「あいつが徴兵で通りかかった時、俺に声をかけてきた。同じ訛りだったからだ」
ガルは手元の革を見たまま言った。
「今も、月に一度は口をきく。革の受け取りで顔を合わせるからな」
(繋がった)
工房の行商人と、収容所の兵士。二本の糸のうち、届きそうになかった方が急に近づいた。ペトロス本人に直接ものを頼めば、あの兵士の首が飛ぶ。間に入る人間が要る。その人間が今、目の前で革を撫でていた。
リサは何も頼まなかった。まだ早い。ガルが続けた。
「セリア国に、帝国が圧力をかけているそうだ」
リサは顔を上げた。
「いつからですか?」
「もう何年も前からだ。だが最近は規模が違う。行商人の話では、国境に帝国軍が集まっている。このまま動けば戦になる」
ガルの声は淡々としていた。リサはしばらく黙っていた。工房の外から夜の虫の声が聞こえた。
セリアは故郷だ。リサとしての故郷。ドロスの工房がある場所。あの丘の上の広場で弓を引いた、あの場所だ。
帝国が強くなったのは蓮先輩が持ち込んだ知識のせいだ。道路網、石畳の技術、弓の設計。それが帝国の軍を動かした。
ガルが続けた。
「占領されてから飯が食えるようになった村もある。帝国は道を作り、水路を引き、医者を置く。それは本当のことだ」
ガルの声が少し低くなった。
「しかし若い者は取られる。戦役、労役。働ける者は帝国に徴収される。ペトロスもそうだ。あいつの村に帝国の道が通ったのが三年前だ。翌年にはあいつが徴兵された。本人が望んだわけじゃない」
リサはガルを見た。ガルが続けた。
「腹いっぱい食えるようになった村人は帝国を恨まない。でも息子や娘が徴収された親は恨む。どちらの気持ちも本当だ。どっちが正しいかは俺には言えない」
工房が静かだった。
(帝国は怖い。でも帝国を恨まない人間がいる。それがいちばん怖い)
リサは石畳を思い出した。ペトラキアの道だ。ベッサも同じことを言っていた。「良い道なのか悪い道だったのか、まだ分からん」と。
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翌日の昼過ぎ、隣の奴隷職人がネジの製造作業をしていた。リサが図面の写しに目をやったのに気づいたらしい。ぽつりと口を開いた。
「設計図は上から降りてくる」
リサは顔を上げた。
「どこから?」
「さあ、誰も知らない。でも精度が違う。普通の職人が描く図面じゃない」
リサは手を動かしながら聞いていた。螺旋状の溝が刻まれた金属の棒。ネジ穴は斥候の弓で見た。だが、ここでは棒そのものが並んでいる。この世界の職人が思いつく形ではない。
(蓮先輩だ)
男が続けた。
「これが変えたのは作業台の上だけじゃない。木と石をこれで留めるようになって、建物が高くなった。橋の梁も精度が上がって、荷を積んだ馬車が渡れる幅になった。容器に蓋がついて、薬が湿気らなくなった。道具の刃も差し替えられる」
リサは知っていた。
弓の部品にも使われている。ハンドルに各種ロッドをネジで接合することで取り外しと交換が容易になった。サイトの左右位置をネジ一本で微調整できる。以前は職人が削って合わせていた精度を使い手が自分で調整できるようになった。
(この世界の職人は自分たちが何を作らされているか知らない)
設計図の意味も、螺旋の先に何があるかも、作っている者には見えない。
作業台の上でネジが整然と並んでいる。
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その夜、リサはネジを磨きながら、ペトラキア村の村長ベッサの言葉を思い出していた。
村を出る前の夜だ。斥候が二日で来る、早く出た方がいい、とベッサが言った。その話が終わった後で、続けるように口を開いた。
「北の方に廃墟がある。帝国が大勢の人間を入れて、地面を深く掘っていると行商人が言っておった。何を掘り出そうとしているかは、わしには分からん。気をつけろ」
ベッサの言葉と、窓から見た輸送隊の規模が頭の中でゆっくりと重なった。北の廃墟へ、掘るための何もかもを運び込んでいる。それだけの人と物を注ぎ込んで掘り出そうとしているものが、あそこにある。
(兵器だ)
直感的に思ったが確信に近かった。根拠は状況証拠だけだ。でも輸送隊の警戒の厚さと、ベッサが「気をつけろ」と言った時の目が一本の線でつながっていた。
ネジを磨く手が止まる。ふと視線を感じた。首の後ろが冷える。
振り返った。誰もいない。
工房の暗がり。天井の梁の陰。何もない。風が入ってくる隙間から外の夜気が流れ込んでいる。
(気のせいか?)
でも確かに感じた。何かがいた。人の気配ではない。もっと薄い、霧のような存在感。見られていた、という感覚だけが残っていた。
手元に視線を戻した。ネジが冷たい。
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暗がりに黄色い目があった。
梁の上の影の中から工房の中を見ていた。奴隷職人の娘が手元の作業を再開する。
振り返ったが何も見えなかっただろう。見えるはずがない。そういう存在だった。
見えるはずが、なかった。
娘は正しく梁を見上げた。目が合いはしなかった。それでも、見上げるという動作を選ぶまでに迷いがなかった。
(面白い人間だ)
その娘はずっと考えている。手を動かしながら頭を使っている。目に知性がある。ただの奴隷職人の娘ではない。この帝国の中で自分の位置を測っている目だ。
黄色い目が細くなった。
しばらく観察を続けた後、気配が溶けるように消えた。梁の上には何も残らない。夜の工房に虫の声だけが戻った。
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工房の宿舎に戻ったのは夜半過ぎだった。
区画の端に老婆が一人座っている。収容所で実をくれた老婆だ。同じ頃に房から出されて、奴隷区の縫い場に回されていた。昼間は縫い物をしている。名前は聞いたことがなかった。リサが通り過ぎようとした時、老婆の手が動いた。
何かを両手で包んでいる。琥珀色をした、小さな菓子だった。
老婆はリサの視線に気づくと何も言わずに胸元にそっとしまった。
理由は語らない。リサも聞かなかった。その動作が妙に目に残っている。大事なものをしまうような手つきだった。
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