第二十五話 弓の声、廊下の顔
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その弓のことが頭から離れなかった。
工房の棚にブラガが先日引いた弓がある。設計は本物だ。だが、仕上げが追いついていない。リサにはもうそれが分かっていた。確かめ直すまでもない。直せるか? だけが残っていた。
弓を一本、手に取った。弦を指で弾く。音が少し重い。
グリップを握る。骨で支えると欠点が手のひらに伝わってきた。弦を引いた時、押し手に感じる力が横にずれて逃げる。ハンドルが僅かによじれる。引いた時に左腕へかかる荷重をどこで受けるかが考えられていない。
(ここが滑れば矢の軌道は安定しない)
リムを指先でなぞった。薄くしようとした跡はある。だが中途半端だ。先端に厚みが残っている。先端が重いとリリースの瞬間に弓の返りが鈍る。矢に伝わる力が濁って、矢が暴れる。
作業台の矢に目をやった。矢を作り直す方が早い。鏃を重くするか、細い矢に替えればいい。半日で済む。
(でも、それをやったら)
この工房の弓は明日も同じまま左に散る。直したことにならない。
それに、と思う。ここを直せば工房の内でも外でも自分の技術が噂になる。そうすれば上の者に近づくきっかけになるかもしれない。
職人頭がそばに来た。
「何か問題でもあるか?」
「一つ、いいですか」
リサは手を止めた。
「この弓、矢はいつも左に逸れませんか?」
男が目を細めた。
「……ああ、少し左に散る。照準器で調整しているが、根から直っちゃいない。なぜ分かる?」
リサは作業台の矢を一本取った。指で撓めて戻りを見る。美月の記憶にある言葉が、考えるより先に出てくる。
(スパイン)
その名は口に出さなかった。
「弓が矢を押し出す力が、うまく矢に伝わっていないんです。握りで力が横に逃げて、まっすぐ押し出せていない。しなり部分も先端が重くて返りが悪い。伝わる力が弱いぶん、矢の硬さが相対的に勝って見えているだけです」
男が弓を見た。それからリサに向き直り話す。
「どうすればいい?」
「握り込んだ時に力が逃げる。両脇に木を足して、手が自然に収まる形に作り直します。しなり部分は、中央の厚みを残したまま先端へ向けて薄くしていく。先端が軽くなれば返りが速くなって、同じ力でも矢に伝わる分が増える。放った時のぶれが減り、矢は素直に飛ぶ」
「弓は弱くならんのか」
「先の方を落とすだけです。根元は残す。強さはほとんど変わりません」
リサは順に説明した。男は黙って聞いていた。
「試させてもらえますか?」
男は間を置いて、頷いた。
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グリップの両脇に木を足して膠で留めるのに半日かかった。乾くのを待って、握りの形に削り出す。しなり部分の先端を薄くする作業はさらに時間がいる。薄くしすぎれば折れる。指で曲がり具合を確かめながら慎重に削る。別の職人が手伝いに来た。口は出さず、手元だけを見ていた。
夕方、工房の奥の巻き藁に炭で印を付けた。壁際から十五歩ほど下がる。
弓を渡す前に、リサは照準器に指をかけた。左へ逃げるぶんを見越して振ってあった目盛りを、元の位置まで戻す。
「今日から、逃げる分がありません」
男は何も言わずに弓を受け取った。
職人頭が引いた。矢が飛ぶ。印の近くに刺さった。
周りから、「うーむ」という声が聞こえる。もう一本引いた。同じ場所に刺さる。三本目も同じ。
職人頭がリサを見た。
「どこで覚えた?」
「昔、弓を教えてくれた人がいて」
リサは言葉を選んだ。
「その話は、ここでしても、たぶん分かってもらえません」
職人頭は何も言わなかった。弓を棚に戻し作業台に戻る。
リサは矢の束に手を伸ばした。
弓は直した。だが矢はばらばらのままだ。一本ずつ指で撓めて、戻り方を見ていく。硬いもの、柔らかいもの、その中間。作り直す許しは出ていない。それでも、選り分けることはできる。
硬い順に並べて、束ね直した。
職人頭が横目でそれを見た。
「何をしている?」
「同じ弓で使うなら、同じ硬さで揃えた方がいい」
男は少しの間その並びを見ていた。それから何も言わずに戻っていった。この工房の誰も、矢をそんな順番で並べたことはない。
だがその夜、工房の奴隷職人たちの間で話題になった。職人頭が納品の折に工科院でも話したらしい。
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数日後の昼下がり、工房に見慣れない顔が来た。
若い男が三人。同じ仕立ての上着を着ている。工科院の生徒だと、あとで知れた。引率らしい女が一人、戸口の近くに立ち、工房の中を見ている。職人頭が迎えに出た。
「あの弓の話を聞いて来ました」
若い男の一人が言った。
「矢が真っ直ぐ飛ぶようになったと。何をしたのか見せてもらえますか?」
職人頭がリサを呼んだ。
「この娘が直した」
三人がリサを見た。一人が前に出る。16か17。何でも自分の眼で確かめたいという顔をしていた。
「何をしたんですか?」
リサは息を一つ置いた。
「弓の力が矢に伝わりきっていなかったので、そこを直しました。握る部分で力が逃げていたのと、しなり部分の返りが悪かったのが原因です。伝わる力が弱いと、矢の硬さが合っていないように見えるんです」
男が目を細めた。
「合っているかどうか、どうやって分かるんですか? 見ても分からない」
「射ってみて、どちらへ散るかで分かります。晴れた日に外で射って、飛んでいる矢の角度を見る手もある」
「……なるほど」
男が頷く。何かを確かめるような目だった。
戸口の女はこちらを見たまま動かず聞いている。
その時、そこから声がした。
「マルコ。そろそろ戻るわよ」
リサは声の方を向いた。金褐色の髪を後ろで束ねた女性が立っている。30を少し過ぎたくらいか。背筋がまっすぐ伸びていた。
工房の窓から、一度見た背中だった。中庭の向こうの窓辺で誰かに何かを教えていた、あの立ち姿。
「はい、セレナ先生」
目の細い男、マルコが振り返る。三人が出口へ向かった。
女性は工房をもう一度見渡した。棚の弓、作業台、そして最後に、リサの手元で視線が止まる。何かを選り分けるような、静かな目だった。
マルコが戸口で立ち止まった。
「……名前、聞いていいか?」
小声だった。
リサは一拍置いて答えた。
「リサと言います」
マルコは何も言わずに頷き、出ていった。
(蓮先輩が作った学校が、この子を育てている)
工房が静かになる。リサは手元の作業に戻った。
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工房から戻った夜、セレナは考え続けていた。
戸口から聞いた娘の答えは筋が通っていた。矢の硬さと弓のしなりの釣り合い。言葉にこそしなかったが、娘はそれを残らず理解していた。17かそこらの奴隷職人の娘が。
知識を暗記している者の喋り方ではない。弓の仕組みを体で知っている者が、それを言葉にする時の喋り方だった。
それに、と思う。「矢の硬さ」という長い言い方を、娘は一度も言い淀まなかった。言葉を探す間がまったくない。言い換えを繰り返す者は必ずどこかで詰まる。詰まらないのは、短い名前を持っている者だけだ。
そして、それは。
(レオン総帥と同じだ)
うまく言語化はできないのだが、同じ場所から来た者の知識のような感触があった。弓の力と矢の硬さの関係。総帥は、それを「スパイン」という一語で呼んだ。娘はその一語を使わなかった。それでも話の中身は寸分違わなかった。
レオン総帥が弓の設計を語った時の無駄のない言葉の運び。あの娘が語った時の言葉の運びが、そこに重なる。
セレナは帝国に恩がある。女が教師として壇に立てるのは、総帥がそう決めたからだ。その恩に報いるとは、帝国に有益な人間を見出すことだと思っていた。それが教師としての義務でもある。
だが今、彼女を動かしているのは、それだけではなかった。あの娘の知識が、どこから来たのか。教師、指導者としての抑えのきかない好奇心が胸にあった。
翌週、セレナはブラガの執務室の扉を叩いた。
ブラガが手元の書類から目を上げた。
「工科院の教師が何の用だ?」
「工科院であの奴隷職人の娘に弓の技術を話させたい。生徒の学びになります」
奴隷を最高学府の壇に上げる。本来なら通る願いではなかった。
間があった。それからブラガは奇妙に冷めた目でセレナを見る。
「総帥には、こちらから話をしておく」
その一言に、セレナは背筋がうそ寒くなるのを覚えた。なぜここで総帥の名が出るのか。
「一日だけだ」
ブラガは目を書類に戻した。
「それ以上は私の裁量を超える」
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リサが工科院に入ったのは昼前だった。
工房の門を出る時、杭のところでクルが立ち上がった。付いてこようとして、綱の長さで止まる。リサが手のひらを見せると、クルはその場に座り直した。目だけがついてくる。
石畳の通路がまっすぐ伸びている。両側に街路樹。工房の窓から何度も見ていた光景が今は足の下にあった。
案内の学生に連れられ、講堂へ通された。天井が高い。石の壁に等間隔の窓が並び、外光が床に落ちている。段になった席に生徒が二十人ほど座っていた。奴隷が壇に立つと知って、最初は低いざわめきがあった。
セレナが壇の脇に立った。それだけでざわめきが止んだ。
「今日の講師は弓師です。それ以外の説明はしません」
それだけだった。
リサは弓を一本と、矢を三本、机に並べた。粗布の袖をまくる。
最初に、細い矢を弓につがえて壁際の的へ射った。次に、太い矢を同じ弓で射った。刺さった位置が違う。生徒の一人が身を乗り出した。
「射ち方は同じです」
リサは言った。
「変えたのは矢だけ。弓は矢を押し出しますが、矢はその力に押されて必ず撓みます。撓み方が弓の力に合っていないと、矢は真っ直ぐ出ていきません」
矢を一本、両手で持って撓めてみせる。前の席の生徒が同じ動きを真似た。
「弓を強くしても、矢を柔らかくしても、釣り合いは取れます。どちらでもいい。どちらでもいいということは、片方だけを見ていても分からないということです」
セレナが書字板に線を二本引いた。弓の力と、矢の硬さ。交わる点を指で押さえる。生徒たちの手が一斉に動いた。書きつける音が講堂に満ちる。
マルコが手を挙げた。
「どこで釣り合っているか、射たずに知る方法はありますか?」
「今のところ、ありません」
リサは答えた。
「射って、散り方を見る。それが一番早い」
マルコが少し不服そうな顔をして、それでも書きつけた。
誰も、壇の上の女が奴隷であることを口にしなかった。手が動いている間は、その話をしている暇がなかったからだ。
リサは弓を置いた。
この子たちは知らない。自分たちが今書き取っている釣り合いの話が、どこの誰の頭から流れてきたものなのかを。
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講義が終わったのは午後だった。
案内の学生と廊下を歩く。学生たちが書字板を抱えて行き交っていた。
廊下の突き当たりで足が止まった。壁に大きな肖像画があった。
額の中に二人。一人は老いた男で、重厚な衣装を纏っている。ヴォルカ王だとすぐに分かった。もう一人は若い男。
レオンだった。
工房で一度、その顔を見ている。見間違えようがない。ただ、絵の中のレオンは弓を持っていた。
構えてはいない。手にしているだけだ。なのに、その持ち方にリサの目が吸い寄せられた。グリップの圧点に親指の付け根を当て、残りの指は添えるだけ。この世界の弓使いの持ち方ではない。
(競技者の持ち方だ)
帝国の頂点として、王と並んで壁に祭り上げられてもなお、絵師は気づかずに描いている。この男が、もとは何者だったのかを。
絵の中の顔立ちに、蓮先輩の面影はない。当然だ、あれは蓮先輩の体ではない。それでも、目を惹かれたその持ち方だけが、記憶の中の誰かと重なった。
蓮先輩を思い出すと同時に肌が冷えた。蓮先輩は自分がここに来る一年前に亡くなった。私がここに、こうしているのならば、蓮先輩がいてもおかしくない。
そこまで考えて、指先で数えた。
工房の老人はこう言った。十二の時に変わった。総帥になるまで七年かかっていない。それからもう四年。合わせて十一年。
自分がこの世界に来てからは、五年だ。
(合わない)
一年の差が、六年に膨らんでいる。数字は目の前にあるのに、意味が繋がらない。リサはその引っかかりを胸の奥へ押し込んだ。今は、それを考える場所ではない。
「どうしたんですか?」
隣にマルコがいた。いつの間にか来ていた。
「……この絵」
「ヴォルカ王と、レオン総帥です。開院に合わせて描かれた肖像で」
マルコは絵を見上げた。
「セレナ先生は、総帥が最初に採用した教師なんです。数学を教えている。総帥は授業に一度だけ来ました。弓の話をした時すごく、楽しそうだった。矢の硬さと弓の強さの釣り合いの話をしていて。なのに次の日には、また、いつもの冷たい目に戻ってて」
弓の話をする時だけ表情が変わる。
リサは、それを知っていた。射場でもそうだった。
マルコがリサを見た。
「総帥の弓の話と、今日リサさんが話したこと、同じだったんです。矢の硬さの釣り合いとか。……リサさんは、なぜ分かったんですか?」
同じはずだ。自分の考えが正しければ。出どころが同じなのだから。
リサは肖像画から目を離した。廊下の先に光が落ちている。
この廊下も、外の石畳も、ここへ来る道で渡った橋も。みな、一人の頭の中から出てきたものだ。
その同じ場所から来た人間がもう一人。隠れてここにいる。
リサは肖像画の弓にもう一度だけ目をやって、マルコの質問に短く答えた。
「……偶然です」
嘘だった。
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「今後どうなるの?」
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