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第三話 守り手と呼ばれた日・ナイアへの誓い

毎日投稿予定。

 ドロスの工房の前に立つといつも少し落ち着いた。

 木屑の匂いか、膠の匂いか、あるいは中から聞こえてくる削る音のせいかもしれない。クルはこの二日、当然のようにリサについて歩いていた。工房に入ると、作業台の横の隅に丸まる。ドロスは最初の日だけ一度横目で見て、また手元に視線を戻した。それ以来、何も言わない。


 弦の音を聞いてから三日が経った。弓を触らせてもらったあの感触がまだ手のひらに残っている。持ち手に添えた時の手触り。左腕を前に伸ばした時の重さ。弓を引き切った時の、体が正しい場所に収まる感覚。教わってもいないのに体が知っていた。それが何なのか分からないまま、感触だけをはっきりと覚えている。

 その日の夕方、ドロスが棚から弓を一本取り出してリサに渡した。


 「貸してやる。返しに来い」


 理由は言わない。聞いても答えてくれないだろう。リサは弓と矢を数本受け取って工房を出た。

 その日の夜、アレックが走ってきた。


 「また来た。畑が荒らされてる」


 村の外れの麦畑に害獣が出るようになっていた。大型の猪に似た獣で、体長は大人の背丈ほどある。黒褐色の剛毛が体中に生え、背中の毛は逆立つと刃のようだ。近づくと獣臭い、むっとした臭気が鼻を突いた。夜になると数頭で現れ、畑の麦を踏み荒らしていく。低くうなる声が遠くからでも聞こえ、地面が振動するほどの重さで動いた。

 村では三日前から夜番を組んでいた。大人の男たちが交代で畑の周囲を見張り、出たら弓と槍で追い払う段取りだ。ただ獣の動きが速く、なかなか近づけない。昨夜も追い払ったが今夜また来ているという。

 リサの父ガレンが槍を持って表に出た。リサが黙ってアレックを見ていると、アレックと一緒に来ていた年長の男が声をかけた。


 「子どもたちも来い。弓の練習も兼ねてできるところを手伝え」


 リサはドロスに借りた弓を持ってアレックと走った。アレックも自分の弓を持っている。クルが横についてきた。

 畑に着くとすでに大人たちが畑の端に横一列に広がって獣の動きを見ていた。月明かりの下、三頭の獣が麦畑の端を踏み荒らしながら動いている。近づくたびに低くうなり、臭気が風に漂う。大人たちが声を上げて牽制したが獣はすぐに戻ってきた。年長の男がリサたちに指示する。


 「下がれ、俺たちから離れすぎるなよ」


 大人たちの後ろ、安全な距離を保てる場所だ。大人たちが次々と矢を放ち始めた。獣の周囲の地面や草むらを狙い、驚かせて追い払う。放たれた矢の大半は獣の脇の地面に落ちた。中ったものも跳ね返される。分厚い脂肪と硬い毛で覆われた獣は少し動いてまた戻ってくる。

 リサは弓を持ち上げた。体が動く。右手の指先が弦にかかり、左腕が自然に前に出る。肘が体の後ろへ回り、肩甲骨が中央へ寄っていく。弓を借りて引いた時と同じ感覚だった。体が知っている。どこで覚えたのか分からない。でも手は迷わなかった。

 三十歩ほど先、一番大きな獣の足元の地面を狙い、放つ。矢が地面に刺さり、鋭い音がした。獣が動きを止める。

 もう一本。逃げ道を塞ぐように、進む先の草むらを狙った。また刺さる音。獣が向きを変えた。

 三本目。横へ回り込もうとした一頭の鼻先に打ち込む。三頭とも森の方向に走り出した。

 大人たちも矢を放っていた。獣は複数の方向から追われて混乱し、畑から遠ざかっていく。大人たちの矢がほとんど外れていたと知るのは、後になってからだ。年長の男が振り返り、子どもたちを見てからリサを見る。アレックが口を開いた。


 「殺さなかったな」

 「追い払えばいいんでしょ。それで十分よ」


 リサは弓を下ろしながら答えた。傷つけなくても追い払うことができる。それで用は足りる。アレックはしばらく黙っていた。リサの顔を見て、それから畑を見る。麦が踏み荒らされていない部分の方がずっと多かった。

 翌朝、村の広場で年配の女性に声を掛けられた。


 「獣を追い払ったんだって? 大したもんだ。守り手がいてくれると助かる」


 守り手。その言葉が少し心に残った。

 海辺に行ったのは夕方になってからだった。ナイアが「一緒に行く」と言って聞かなかった。3歳下の妹はこういう時だけ頑固だ。

 二人でゆっくり歩いて岩場の多い浜に出る。クルも一緒だ。内海だから波は穏やかで、気持ちのいい風が吹いている。水面が夕日を受けて橙色に光っていた。クルは少し離れたところで砂の上に寝ている。ナイアが波打ち際でサンダルを脱いで足を水につけた。「冷たい」と言いながら笑っている。リサは岩に腰をかけて海を見ていた。

 しばらくしてナイアが振り返った。笑顔だったが、目が少し違った。


 「お姉ちゃん、ここにずっといる?」


 聞き方がいつもと違った。ここ数日のリサのことが気になっているのだろうと思った。夜の畑に弓を持って行ったこと。工房に通い続けていること。弦の音を聞いた日からどこか遠くを見るようになった、あの顔。ナイアはそういうことに敏い。はっきりとは聞かない。それでも、姉の変化をいつも先に感じ取る。

 リサは少し間を置いて答えた。


 「いるよ」


 答えてから、その言葉の根拠のなさに気がついた。これからどうなるのか自分でも分からない。頭の中に浮かんだ遠い的。体が知っていた弓の引き方。何かが、ここではないどこかへ向かって引っ張っている気がした。でもそれをナイアには言わなかった。

 ナイアが少しだけ安心したような顔をして、また波に足を浸ける。その時、クルがすっと立ち上がった。

 北側、山の方を見ている。耳が真っすぐに立ち、鼻が動いていた。リサには何も聞こえない。何も匂わない。でもクルはしばらくの間、微動だにせずその方向を見続けた。

 波が寄せてきた。また引いていく。「いるよ」と言った言葉だけが静かに残っていた。


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