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第二話 弦が呼び覚ます知識の洪水

毎日投稿予定。

 13歳の誕生日は、静かに来て、静かに過ぎた。

 朝、家の食卓で、母のノラがいつものパンに蜂蜜を添えてくれた。村では蜂蜜はめったに手に入らない。それを誕生日だからと、母はそっと皿の端に垂らしてくれる。父のガレンはまだ眠そうに目をこすりながら、それでも家族でいちばん先に「おめでとう」と言った。3歳下の妹ナイアも「おめでとう、お姉ちゃん」と笑う。両親は村のどこにでもいる普通の住民だ。畑を耕し、わずかな家畜を世話し、慎ましく暮らしている。火をおこすのも水を汲むのも、指先の小さな魔法で足りる分だけ使う。この村ではそれが当たり前の暮らしだった。ただ、リサとナイアのことだけはいつも目いっぱいに愛してくれていた。

 夕方になって幼馴染のアレックが家を訪ねてきた。手には木の実を詰めた袋が一つ。祝いの言葉は何も言わない。不器用な手つきで「ほら」と袋を押しつけてすぐに帰っていく。どこで覚えたのかこういうことをそっとする人だった。

 その夜、布団の中でリサは天井を見上げていた。十二の頃から胸の奥に何かが入ってきた感じがずっと続いている。十三になってもそれは消えない。むしろ少しずつその輪郭がはっきりしてきている気がした。


 村の港側、職人の家が並ぶ細い通りの一角にドロスの工房がある。石を積み上げた小さな建物で、扉は重く、いつも少しだけ開いたままになっていた。隙間から木を削る音が聞こえてくる。膠を煮る独特の匂いが工房の前の路地にまで漂っていた。白い石灰岩の壁が並ぶ村の中でその建物だけが古びた色をしている。

 ドロスは60を過ぎた老人だった。背が低く少し猫背で、日焼けで革のように焼けた肌をしている。白髪を短く刈り、いつも革の前掛けをしていた。その前掛けには何十年分かの傷と染みがついている。弓を作る職人だ。セリア国でも腕の良い職人として知られていたが、本人はそういう評判を嫌い、人付き合いは少なかった。

 リサが工房に出入りするようになったのは8歳の頃だ。きっかけは大したことではない。雨宿りをしていたら、たまたま工房の前だった。ドロスは追い払わなかった。「ここにいてもかまわんが、邪魔するな」とだけ言って、また仕事に戻る。それからどういうわけかリサは時々工房へ来るようになった。何かを教わるわけでも、手伝いをするわけでもない。隅に座って木を削る音を聞いていた。ドロスも何も言わない。弦の音も膠の匂いも木屑の舞い方も、何度も繰り返されてきたものだった。


 13歳の誕生日から十ヶ月あまりが過ぎたある朝のことだった。リサはいつものように工房へ来ていた。扉を押して入るとドロスが作業台に向かっている。

 「また来たか」

 振り返らずに言う。リサはいつもの場所、作業台の横の低い棚に腰を下ろした。工房の中は薄暗い。東向きの小さな窓から光が一筋だけ差し込んで作業台の上を照らしている。壁には完成した弓と作りかけの弓が何本も掛かっていた。奥の壁際には、藁をきつく束ねたものが低い台に固定してある。削る音が続いている。その音が止まったのはドロスが壁から弓を一本外して手に取った時だった。弦を指で弾く。低い音が工房に響いた。いつも聞いている音だ。それなのにこの日は違って聞こえる。胸の奥の何かに直接触れてくるような感覚だった。その「何か」が何なのか、リサには分からない。

 (この音に何かある。でも、何だろう?)

 ドロスが弦から指を離した。また音がする。リサは何も言わなかった。ドロスも何も聞かない。リサはその後しばらく壁にかかった弓を見続けていた。

 「触ってみるか?」

 ドロスが言った。初めて言われる言葉だった。今まで一度も触らせてもらったことはない。リサは立ち上がり、ドロスが差し出した弓を受け取る。体が勝手に動いた。左手が持ち手の位置に自然に添う。右手の指三本を弦にかける。弓を起こしまっすぐ伸ばす。弦を軽く引くと右腕の肘がわずかに上がった。誰に教わったわけでもない。なのに体が知っている。何度もやったことがあるように手が動く。自分でも何が起きているのか分からなかった。ドロスが少し驚いた表情でリサの動きを見ている。リサはそっと弓を引き戻し、壁に掛けた。何も言わずに工房を出る。外の光が目に眩しかった。


 その夜、また夢を見た。夢の中の場所は前と同じだ。芝生の広い場所。強い日差し。大勢の人が一列に並び、全員がピカピカ光る綺麗な弓を持っていた。ただ、今日の夢は輪郭がはっきりしている。前に見た時よりずっと鮮明だった。的が遠い。ずっと遠い。その距離をリサは知らない。でも夢の中の体は知っていた。「カチッ」という音がする。目が覚めた。窓の外に月があった。夢の輪郭がまだ残っている。


 翌日の昼過ぎ、村の子供たちと一緒に魔法を練習した。小さな火をおこしたり小石を宙に浮かべたり。この村の人間なら誰でも使える、その程度の魔法だ。リサも幼い頃からみんなと同じようにやってきた。指先に集中する。何も起きない。一昨日までは何も考えずにできていたことだった。原因が分からなかった。なんとなく、何かが少しずつ抜けていくような感覚が指先にある。その感覚が何なのか言葉にできなかった。


 リサは少し落ち込んでみんなと別れ、一人で村はずれに来ていた。他の子たちが広場で魔法に興じる声を遠くに聞きながらひとり指先に念じてみる。その時子供たちの悲鳴が聞こえた。広場の方から子供たちが一斉に走って逃げてくる。その向こうから白い大きな塊がゆっくりと現れた。

 一瞬、熊かと思った。けれどこの辺りに白い熊などいない。輪郭が違う。犬だ。見たことがないほど大きな犬だった。毛が真っ白で金色の目をしている。

 悲鳴を聞きつけた村の大人たちが家から飛び出してきた。男たちが弓と槍を手に取り白い犬を取り囲む。その中に父のガレンの姿もあった。リサは逃げなかった。足が動かない。ドロスの工房で弦の音を聞いた時と同じ感覚が来た。懐かしい、という思いが恐怖よりも先に立つ。

 白い犬がリサの方だけを見ていた。唸らない。牙も見せない。まっすぐリサのいるところへ歩いてくる。

 「ワン!」

 と、ひと声。低くて、丸みのある声だった。村の男たちが弓を引き絞る。犬はかまわずリサの前で腰をかがめた。大きな鼻をリサの顔に近づけてくる。そのままペロペロとリサの頬を舐めた。

 「リサ、ゆっくりその犬から離れろ!」

 父のガレンが低い声で言った。弓を構える手がかすかに震えている。娘を案じているのが分かった。リサはきょとんとして振り向く。弓と槍が犬の方へ向いているのを見て驚いた。リサは犬の前に立ちふさがる。


 「殺さないで。この子、おかしくない。怖くないの」


 犬が「クーン」と鼻を鳴らした。尻尾がゆっくりと左右に揺れている。男たちが顔を見合わせた。凶暴な様子はどこにもない。リサになついているのは誰の目にも明らかだった。弓と槍が少しずつ下がっていく。リサは犬の首に両腕を回した。温かい。そして、大きい。そのまま抱きついていると犬はおとなしくしていた。


 「野犬にしちゃ、人に慣れすぎてる」


 男の一人が言った。もう一人の若者が続ける。


 「この大きさでこの人懐っこさだ。番犬にはちょうどいいんじゃないか。村で飼ったほうがいい」


 その場の大人たちが頷いた。父のガレンもようやく弓を下ろす。娘がこれほど慕う相手を追い払う気にはなれなかったらしい。

 リサは犬の顔を見た。大きな鼻だ。「クルミ」という言葉が、ふっと浮かんだ。そんな言葉がこの世界にあるのかどうかリサには分からない。ただ、その色と形がどこかで見た木の実に似ていた。なぜその実を知っているのか思い出せない。それでも何となく、「クル」という音だけを口に出しかけていた。


 「クル」


 声に出した瞬間、白い犬の尻尾が大きく動いた。


 「ワンワン!」


 うれしそうに二度吠える。前足で地面を掻きリサの周りをぐるりと一度回った。

 (知ってる、知ってる。会いたかったよ)

 言葉ではなかった。感情の断片のようなものが直接、胸に届いた。この犬はリサのことを知っている。

 クルの鼻先がリサの手に触れた瞬間、頭のなかに洪水のような光が流れ込んできた。工房で弦の音を聞いた時に開きかけたものが、今度は一息に開いた。

 見たことのない弓の断面図が浮かんだ。村にある弓とは形が違う。もっと複雑でもっと精密な形をしていた。それを作るための木と竹の削り方。矢じりの形と重さの計算。

 流れ込んでくる映像は弓だけではなかった。植物の名前と薬の作り方。骨の接ぎ方。包帯を巻く手順。星の動きから方角を読む術。穴を掘る道具に重い物を運ぶ道具。次々と押し寄せてくる。どれも、リサが知っているはずのないものだった。一人の人間が抱えられる量ではない。

 頭が痛い。吐き気がする。自分が壊れていくような感覚があった。それでも流れは止まらない。

 どれくらい経ったのか分からない。気づいた時リサは草の上に座っていた。クルがすぐ横にいる。大きな体がリサの肩に少しだけ触れていた。頭が重い。でも怖くはなかった。さっき通り過ぎた映像の断片がゆっくりと、収まるべき場所に収まっていく感覚があった。

 あの弓が作れる、と思う。村にある弓ではない。夢の中で見た、誰も作ったことのない形の弓が。なぜそう思ったのか自分でも分からなかった。でも、確かにそう思えた。

 クルがリサの手を舐めた。ぺろりと一度。それから甘えるように「クーン」と鼻を鳴らす。リサは草の上に手をついたまましばらくそうしていた。


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