第二十三話 弓が語ること、地下の鼓動
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工房の窓から、名前も用途も分からない一角が見えた。
石造りの建物が幾つか並んでいる。帝都の他の区画とは空気が違うということだけが分かった。石と金属の匂いが風に乗って届く。工房の裏手からは弓弦の音が断続的に聞こえてくる。窓枠に触れた指先が冷たい。
工房に移って四日目の昼過ぎ、扉が開いた。
ブラガが部下を二人連れて入ってきた。将校の外套をまとい、整った歩き方。左手を腰に当てたまま工房全体を一度見渡す。視線が棚に行き、作業台に行き、奴隷たちの手元を順番に確認した。感情を読ませない目だ。工房の奴隷たちが手を止めて頭を下げる。リサも倣い頭を下げ、また木材に手を戻した。
ブラガが棚から弓を一本取った。
リサは顔を上げない。手元の木材に視線を落としたまま視界の端だけで影を追う。
弦を弾く音がした。低い。もう一度同じ高さで鳴る。張りの揃った弦だ。
ブラガが弦を引いた。
リサは一瞬、削る手元が狂いそうになった。
引く動作の音が違う。この世界の弓使いは、引き切る前に肘が流れる。布の擦れるような雑音が混じる。ブラガの引きには、それがない。一本の線で引いて、迷わず止めた。
弓の持ち手を握りしめていない。力を抜き、骨格だけで支えている。リサの体が反復してきた引き方だった。その輪郭をリサは知っていた。
工房内に設置された試射用の巻き藁に向かって矢が放たれた。乾いた弦音。藁に届く音が、中心に刺さる独特の鈍い音ではなかった。視界の端で矢が的の左に傾いて立っている。
(スパインが硬い)
矢の硬さが弓の力に勝っている。放った瞬間に矢が力を受け流せず、左へ散る。ブラガがもう一射した。さっきと近い場所だ。射ち方が悪いわけではない。弓の力と矢の硬さが噛み合っていないのだ。
リサはこの四日、この工房の弓を削ってきた。リムの反り、グリップの形、下のリムが上より少しだけ強い設定。どれも美月のいた時代の競技用弓と同じ思想だった。設計は本物だ。だが最後の詰めだけが、いつも合っていない。設計図を引いた人間と、それを削る人間が別なのだ。
(設計図を描いた者は、この世界の人間じゃない)
リサは視線を木材に戻した。木屑が床に落ちる音がした。手を止めてはいけない。
ブラガが弓を棚に戻し、部下に何か言って工房を出ていった。
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工房での作業が一段落する昼下がり、老いた男が隣の作業台に来た。
工房に移ってから何度か顔を合わせた男だった。年齢は分からない。七十には届いているかもしれない。細い体だったが、目だけが妙に生きていた。弓の部材を並べながら手は止めない。
リサは小声で聞いた。
「帝都には長いんですか?」
「二十年は越えた」
男も手を動かしたまま言う。
「寝る場所も仕事もなくフラフラしていたら捕まった。まあ、奴隷でもここには屋根がある」
「この弓は、誰の設計ですか?」
「図面が降りてくる。描いた者の名は書いてない。まあ、誰の仕事かは、みんな知っているがな」
「知っているんですか?」
少し間があった。男が視線を手元に戻す。
「ああ、あの人か。レオン総帥だ。あの人は突然変わったのだ。十二の時に」
「十二の時に?」
「私はその頃まだ街にいた。街の噂は早い。レオン様が生まれたのは、そこらの普通の家だ。それが十二歳になった年の秋、一夜にして変わった」
「どう変わったのですか?」
男は何かを選ぶように黙った。
「賢いが、ただの子供だった。それが急に大人の話し方をするようになった。金属の加工法、建築の様式、農地の管理。知るはずのないことを次々と語り始めた。周囲は狐に憑かれたと思ったらしい」
リサは手を動かしたまま聞く。
「それをヴォルカ王が聞きつけた。異国の知恵を、この国の形にできる人間を探していたそうだ」
(異国の知恵? この国の形にできる人間?)
その言葉が胸に刺さった。知識を持つだけでは足りない。この時代の素材と人間で作れる形に直せる者。老人が語れるのはそこまでで、あとは街に流れた話でしかない。だが、もしそれが本当なら、王が欲しがったのは天才ではない。そういう人間だ。
「召し抱えられて、十二から総帥になるまで七年かかっていない。それからもう四年だ。弓が変わった。道が変わった。橋も変わる。この帝都の形を変えたのは、あの人だ」
男はそこで、思い出すように鼻を鳴らした。
「城仕えの女中が触れ回っておった。『気味の悪い子供だ』とな。誰もいない壁に向かって、聞いたこともない異国の言葉で挨拶をする。夢の中に師匠が来るのだと言っていたそうだ。『ミズノ』とかいう名のな。城に召集される前から、それだけはぶつぶつ呟いていたらしい」
リサの手から、削りかけの部材が滑り落ちそうになった。
(ミズノ。水野のことか? 監督の名前だ)
美月が通っていた大学の洋弓部の監督。試合会場にいた。蓮先輩のことをよく知っていた。その名がなぜこの場所で出てくるのか。老人はミズノを、レオンの師匠だと言った。夢の中に出て来る師匠だと。もし同じ人間を指しているのなら、美月と共通の記憶をレオンが持っていることになる。
(レオンは、蓮先輩なのか?)
確信ではなかった。老人の話は伝聞だ。「ミズノ」という響きが同じだというだけで別の人物かもしれない。それでも、胸の底で確信めいたものが揺れていた。
老人はもう何も言わなかった。手を動かしながら別の部材に取り掛かった。
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翌日の午後。工房の入口近くで矢の選別をしていた時だ。リサは矢の束を手にしたままだった。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。ブラガが先に入り、背の高い男が続く。
「総帥」
ブラガがそう呼んだ。
外套の下に均整の取れた体格があった。ブラガと話しながら棚の方へ目を向ける。その横顔がリサの目に入った。
知っている、と思った。いや、違う。知っているはずがない。この世界で会ったことはない。それでも何かが引っかかった。眉が動く速さか、視線の運び方か。顔ではない。顔の上で動いている何かだ。うまく言葉にならない。
リサは背を向けて手を動かした。顔を上げない。
棚の前で二人が話している。ブラガが弓の状態を説明する声。レオンが短く返す。言葉数が少なかった。必要なことだけを言う。
レオンが棚から弓を一本取った。弦を指で軽く弾いた。
リサの指先が止まる。その仕草を、どこかで見たことがある気がした。弓を手にして、まず弦を弾き、音を確かめる。蓮先輩がよくやっていた。
ブラガが下がる。レオンが棚の横にあった矢を手に取り、その矢をつがえて工房奥の的に向かって構えた。リサは手を動かしたまま、気配だけで追う。引く音。矢が飛ぶ。確かめるように何度か繰り返す。
それからレオンが小さく呟いた。
「……ミズノの言った通りだ」
静かだが、乾いた弦音の残響にその一言が混ざる。リサは矢の束を握りしめたまま、動けなくなった。
耳の奥で、大学の射場に響いていた監督の低い声が、レオンの声と重なって弾けた。同じ名前。同じ響き。この場の誰にも意味をなさない名前を、レオンが今、口にしている。老人にも、ブラガにも、ここの奴隷たちにも届かない。リサ一人にだけ、それは届いた。
胃の底から冷たいものがせり上がってきた。あれは、別の誰かではない。
レオンが弓を棚に戻した。ブラガに何か言って、二人で工房を出ていく。足音が遠くなった。
リサは矢の束をゆっくりと床に置いた。
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その夜、床から微かな震えが来た。
断続的だった。規則的ではない。長く続く時と、ふつりと止む時がある。最初は気のせいかと思った。じっとしていると、また来た。地の深いところから上がってくる。
宿舎の奴隷たちは気にしていなかった。眠っている者も、起きている者も反応しない。慣れているのかもしれなかった。リサは寝床の藁を払い、掌を床の石に押し当てた。
地鳴りではない。鍛冶の響きでもない。重く、間遠で、奥歯の裏まで届く震え。何かが地の底で、息をするように動いている。
リサはふと、故郷の火山を思い出した。あの夜も同じように地面の底が震えていた。似ているようで、何かが違う。あちらは怒りに近く、これはもっと静かで、もっと深い。
人の手が出すものとも、自然のものともつかなかった。何なのか、分からない。
震えが止んだ。
リサは天井を見た。ミズノ、という名前がまだ頭の奥に残っていた。
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