第二十二話 収容所のペトロスと弓師の工房
毎日投稿予定。
収容所の朝は光が来ない。
窓の鉄格子の向こうが白んでも石の壁が光を遮り床まで届かせない。昼と夜の境目が音で分かった。外の金属音が増えると昼になる。減ると夜になった。
食事は相変わらず干し肉と水だった。労働の割り当ては重い石材の運搬か、泥の掻き出しか。アレックが石材の方に回され、リサとナイアが泥の方に回された。夜になると三人とも黙って壁に背をあずけた。二日目からクルは外へ出された。施設の外の杭につながれたまま夜になると短く鳴く。その声が壁を越えて聞こえた。
三日目の夜、老婆がまた実を差し出した。今度は数が多い。リサが受け取って頷く。老婆は何も言わない。
四日目の朝だった。
労働に出る前の点呼。警備兵が名簿の板を手に列を確認していた。番号と、どこで捕えたか、どこから来たかを一人ずつ読み上げていく。リサたちの番が近づいた。
その兵士の指が板の一行で止まった。読み上げる声が途切れる。
通り過ぎるかと思っていたら、背を向けたままぶっきらぼうな声がした。
「お前ら、ペトラキアから来たのか?」
こちらを見ない。
リサは少し警戒した。何か答えさせてそれを利用するつもりかもしれない。でも嘘をつく理由もなかった。
「通りかかっただけです。数日、泊めてもらいました」
「村長はいたか?」
「はい。ベッサ村長にお世話になりました」
兵士の背中の様子がわずかに変わった。肩の線が少し上がる。
「その村にタリスという子供がいるはずだが」
リサは少し間を置いた。その名前をこの場所で聞くとは思っていなかった。
知り合いだろうか。
タリスの顔が浮かんだ。石垣から飛び降りてクルの横腹に激突した、あの子だ。クルの背中に乗って両手を上げて喜んでいた。歌を一番大きな声で一番音程を外しながら歌っていた。
リサは少し微笑みながら言った。
「元気でしたよ」
兵士は動かなかった。長い沈黙。それから背中のまま絞り出すように言った。
「……そうか」
それだけだ。兵士が一歩前に出た。歩き出すかと思ったがそのままじっとしている。肩が震えていた。
(この人、泣いている)
リサは少し戸惑いながら、それが何を意味するのか考えた。「二年前から帰っていない孫」、とベッサが言っていた。帝国に連れていかれた、と。
(この人が、ペトロスだ)
タリスの兄がここにいた。
リサは何も言わなかった。前を向いて待つ。兵士が肩の震えを止めるまで、列は止まったままだった。
兵士は結局振り返らなかった。続けて点呼の声がし、列が動き始める。
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その日から少しだけ変わった。
食事の量が増えた。皿の底が見えないくらい盛られるようになった。誰も何も言わない。労働の割り当ても変わった。リサとナイアが泥の掻き出しから外れて、収容所の内側の軽作業に回された。全部、静かに変わる。
守られているわけではない。あの兵士にできる範囲のことが、黙って行われていた。
夜の見回りは変わらなかった。金属音を立てながら廊下を歩く音が聞こえてくる。リサ達の房の前で一瞬だけ足音が遅くなるが、立ち止まらずそのまま歩いていく。
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六日目の午前、ブラガが来た。
将校の外套に実務的な目をした男だった。感情より手順を優先する顔をしている。収容所の中を一通り見回してからリサの前で止まり、声を掛けた。
「弓師の工房にいたそうだな」
「はい」
リサが答える。
ブラガはリサを頭から足先まで一度だけ見た。確認だった。値踏みではない。すでに結論は出ている。その顔がそう言っていた。
「上からの指示だ。弓師の工房にいた娘を工房へ回せ、と」
なぜ、捕らえられた奴隷に対し「上からの指示」が降りてくるのか。リサは不思議に感じたが、ふと、城門で背を向けて歩いていった、あの静かな声がよぎった。
「三人まとめて工房に回す。使い道は現場が判断する」
アレックが杭の方を一度見た。それから一歩前に出て話しかける。
「外につながれている犬も一緒にお願いします」
ブラガが一瞬だけアレックを見た。「用途は?」と言った。
「番犬です。首輪があれば危害はありません」
ブラガは答えない。それが許可だった。
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工房は収容所からはさほど離れていない。同じ奴隷区の北の端にある。
石造りの建物が三棟並んでおり、弓の製造に使う木材が山と積まれていた。切り出したばかりのものと乾燥させているものとが別々に管理されている。膠を煮る匂いが建物の前まで漂っている。
懐かしい匂いだった。
(ドロスの工房に似ている)
美月の記憶ではなく、リサ自身の記憶だ。木屑の色。膠の煮え方。削る音の質。リサが手を止めるたび、背中から「続けろ」とだけ飛んできた、あの低い声まで。西日が作業台の木屑を金色に染めていた、あの夕方まで。匂いひとつで、全部が蘇る。
でも、同じなのはそこまでだ。壁際に並んだ弓には金属の艶がある。ドロスの工房には鉄などなかった。
寝起きも工房の宿舎へ移された。収容所とは別棟だ。鉄格子はない。木の寝台が並んでいるが、敷かれているのは藁だけだった。
クルが外の杭に繋がれた。首輪は新しかった。あの兵士が手配したものかもしれない。クルは杭の周囲を一度確認してから入口の方向を向いて座った。
工房の中にすでに数人の奴隷がいた。黙って作業していた。声を出さないし、目を合わせない。最初の数日はそんな感じだった。しかし、奴隷というよりは職人と言ってもいい雰囲気がある。
リサは与えられた場所に座って弓の木材の削り出しを始めた。手が覚えていた。
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工房に移って三日目の昼過ぎだった。
隣で木材を運んでいた男が崩れるように座り込んだ。木口の割れで手の平を深く切っていた。布で押さえていたが血が止まらない。顔色が悪かった。発熱もあるかもしれない。
リサが立ち上がり、傷の具合を確かめた。深さと汚れを見る。清潔な布と水が必要だ。
「私がやります」
ナイアが静かに言った。
リサは少し迷う。でもナイアの目が落ち着いていた。
「分かった」
リサはそう言って場所を空けた。
ナイアが男の傍に膝をついた。清潔な布で傷を覆う。
男の呼吸が少しずつ落ち着いていった。血が止まった。顔色が戻っていく。発熱も引いているように見えた。思ったより早い。
男がナイアを見てすぐに自分の手を見た。ナイアは何も言わない。
斜向かいで木を削っていた老人が、一度だけナイアの手元に目を向けた。少し驚いたような表情をして、すぐ自分の手元に戻る。
しばらくしてナイアがリサの横に戻ってきた。少し不思議そうな顔をしている。
「手が、勝手に動いたの」
小さな声だ。リサは何も答えなかった。
ナイアは少しの間、自分の手のひらを見ていた。何かを確かめている。それからまた作業に戻った。
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工房には行商人が出入りしていた。
二日に一度、材料の納入か完成品の受け取りに来る。男が一人で荷を担いでいた。警備兵と短いやり取りをして荷を置いてまた出ていく。
リサはその動きを、六日のあいだに三度、確認した。
警備兵との間に顔見知りの雰囲気がある。何年も出入りしている人間の動き方だった。話しかけることはまだできない。でもその動きを頭の中に入れておいた。
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