第二十話 ドラヴァル帝国の斥候・鎖の声
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鎖が手首にかけられた。
冷たかった。
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遡ること半刻前。
ペトラキア村を出て、山を下る街道を歩いていた。霧はすでに晴れていた。帝国が整備した石畳がまっすぐ伸びている。道を外れられる分岐までは、この石畳を行くしかなかった。クルが先頭、アレックが左、ナイアが右、リサが最後尾。そういう隊形で歩いていた。
最初に気づいたのはクルだった。
短く、低く、鼻を鳴らした。耳が前を向いたまま動かなくなる。前方に何かいるのがすぐに分かった。
「止まれ」
アレックが低く言った。
街道の前方、曲がり角の向こうから蹄の音が聞こえてきた。アレックが先に角の陰から首を出す。すぐには戻ってこなかった。リサも並んで覗いた。
角の先は見晴らしのいい街道が伸びていた。遮るものは何もない。まだ遠いが、遠目でもはっきり見える。馬が複数いる。一頭や二頭ではない。
引き返そうとして足が止まった。後ろの茂みが動いていた。
集団はさほど時間をかけずにリサたちの近くまでやって来た。
騎馬が五騎、徒歩の兵が十数人。全員同じ装備、同じ色の外套。帝国の紋章が胸に入っている。斥候部隊だった。先頭の騎馬が手を上げて隊を止めた。平坦な道で隠れるところなどどこにもない。
「セリア国からの逃亡者の報告と一致する」
隊長らしい男がこちらを見て言った。
(報告?)
セリアの大議長が下した裁きが、なぜもう帝国の斥候の口に乗っているのか。
「抵抗すれば怪我をする」
包囲はもう始まっていた。街道の両脇の茂みからも次々に兵が出てくる。まるで、来ることを知っていたかのような配置だった。
茂みの兵が弓を上げた。矢先がこちらを向いている。前後を塞がれていた。
アレックが剣の柄に手をかけた。クルの背の毛が立ち、喉の奥で低いうねりが鳴り始める。
リサは数えていた。兵の数は二十人を超えている。
弓を引けるのは自分だけ。一射で倒せるのは一人、二射で二人。その間に残りが距離を詰める。アレックの剣があるが、相手が悪すぎる。クルは強い。だが鉄の槍を構えた兵に四方を囲まれては無傷では済まない。ナイアを庇いながら全員で抜ける道はどう考えても出てこなかった。
(勝てない)
答えはすぐに出た。リサが言った。
「アレック、剣を置いて」
アレックがこちらを見た。一瞬何か言いかけたが、ゆっくりと剣を鞘ごと外して地面に置いた。リサも弓を下ろした。
クルがリサを見た。金色の目がこちらを向いている。
「クル、大人しくして」
クルの体がわずかに震えた。低く「ウゥー」と喉を鳴らす。
兵士たちが近づいてきた。
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鎖が手首にかけられた。冷たかった。鉄の重さがじわりと皮膚に染みてくる。アレックの手首にも、ナイアの手首にも、鎖がかけられた。クルには太い縄が首に回された。
連行が始まった。隊の中央に三人とクルが組み込まれて、街道を北へと歩き始める。鎖が揺れるたびに金属の音がする。規則正しく冷たい音。
その時、すぐ隣を歩く斥候が背に弓を負っているのに気がついた。
(この弓、形がおかしい。リカーブ部分がある)
それに、街道の脇の茂みから現れた兵が、こちらに向けて弓を引き絞っていた時のことを思い出した。
その引き方は、美月として見覚えのあった引き方。
肘の位置。肩の落とし方。あごへ弦を引きつける、あの止め方。体の軸に対して弓腕が一直線に伸びる、あの感覚を知っている者の引き方だった。
美月の世界でたくさん見てきたフォームだ。自分でも反復してきた、あの形。
心臓が一度、強く打った。
(誰かが教えた。この世界の人間じゃない、誰かが)
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連行されながら、もう一度その弓を見た。間近だった。
リムに鉄の薄板が噛ませてある。この世界の弓では見ない構造だ。反発力を上げるための補強。グリップの真上に、小さな金属の台座があった。何かを外した跡だ。ネジ穴が残っている。
息が浅くなった。
照準器の台座。前に伸びた一本の棒。美月としての記憶の中から名前がうかんだ。
〈サイト〉、〈センターロッド〉。
弓の狙いを固定し、バランスをとって安定させるための器具。
(リカーブボウだ)
この構造は、思いつきでは出てこない。ドロスのような熟練の職人が一生をかけても偶然には辿り着けない形だ。リムの反り。重心の位置。狙うためだけに削り出された、無駄のない設計。作ったのは、射場に立ち、的を見て、何千回、何万回も弦を引いたことがある者だ。その射手の感覚を、寸分違わず形にできる技術を持った者でもある。
美月と同じ世界の人間がこれを作った。
自分の他にもう一人いる。しかも敵の側に。連れていかれる、その鎖の先に。
喉の奥が締まった。泣きそうになった。
鎖が鳴る。足が動いている。街道を北へ歩いている。
(帝国の中心に行ける)
気づいたら、そう思っていた。
捕まり、奴隷として連れていかれる。最悪の状態のはずだった。それなのに、頭の芯がやけに澄んでいる。恐怖はある。アレックとナイアを巻き込んだ悔いもある。その奥で別の何かが熱を持っていた。美月として経験した、試合の前、的だけが見えてくるあの感覚によく似ていた。
ナイアが隣を歩いていた。鎖をかけられたまま、まっすぐ前を向いている。アレックは鎖をかけられた手を静かに握り締めていた。怒りをそこに押し込めるように。クルは縄をつけられたままリサの右斜め後ろを時折短く鼻を鳴らしながら歩いていた。
ふと、クルの頭が動いた。
街道の脇、少し高くなった丘の方へ目を向けた。何かを見ている。人間には見えない何かを。一度だけ低く静かに「ウゥーン」と鳴いた。それからまた前を向いた。
鎖の音が規則正しく続く。
帝国へ向かっている。
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丘の上にそれはいた。
兵もリサも、誰も気づいていない。
小さな体。白い翼が背中から静かに広がっている。風が丘の草を揺らしても、翼は揺れない。
メイルは街道を行く隊列を見下ろしていた。鎖をつけられた三人と、縄をつけられた白い犬。帝国の兵士たちに囲まれて、北へ歩いていく。
唇の端がわずかに上がった。
「ふふふ。やあっと、あの子の会いたがっていた人に会えるわね」
声は丘の上で消えた。答える者はいない。隊列はすでに曲がり角の向こうへ消えていた。
白い翼が一度だけ、ゆっくりと動いた。
それから、消えた。
第1部 終わり
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