第十九話 ペトラキアの七日間(後半)・封印の村と眠る天使
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五日目の朝は霧が出た。
山の稜線が白く滲んで、村全体がやわらかい輪郭の中にある。石積みの家々から朝の煙が上がる。どこかで鶏が鳴いた。井戸の周りに人が集まり始めて、一日が静かに動き出す。
こういう朝があと何度あるだろうかと思った。
思ってから、考えないようにした。
昼前、タリスがクルの背中に乗ろうとした。
石垣の上から飛び移る作戦らしかった。石垣と言っても腰くらいの高さで幅が広くてその上を歩けるようになっている。タリスは助走をつけて踏みこみ、クルに飛び乗ろうとしたが見事にクルの横腹に激突した。クルはびくともしない。タリスだけが地面に転がった。
「痛った……」
クルがゆっくりと振り返り、転がったタリスの顔を鼻先で突く。それからまた前を向いた。
「乗せてくれないの?」
クルはぷいっと顔を振り、耳だけはタリスの方を向いていた。
アレックが石垣に腰かけたまま、声を出さずに肩だけ揺らして笑っていた。
子供たちが三人、タリスの周りに集まってきて「もう一回やれ」「今度は反対から」と口々に言う。
タリスは膝の泥を払って真剣な顔で石垣に登った。リサは思わず笑いそうになった。
アレックが石垣から離れ、タリスの体を両手で持ち上げ、クルの背中にあげた。タリスが目を丸くする。
「乗れ」
タリスはクルの背中にまたがると、両手を上げて「やったー!」と叫んだ。クルが低く「ウゥン」と喉を鳴らす。子供たちが、わっと声を上げた。アレックはまた石垣に腰かけた。腕を組んで前を向いたまま、口の端が少し上がっていた。
その日の午後、リサはタリスたちに捕まった。
井戸の広場に子供が四人、ナイアを中心に輪になっていた。最初はナイアが鼻歌を歌っていて、それを聞いた子供たちが「今の、歌?」と聞くので「そう」と答えると、「歌、教えて」とタリスが言い出した。
ナイアは首を振った。「私は歌が得意じゃない」とリサの方を見る。気づいたら、リサが井戸の広場の輪の中心にいた。
「楽しい歌がいい。踊れる歌」
子供たちが口々に言う。四人の目がこちらを向いていた。
どんな歌があるだろうか? と、リサとしての記憶を探った。この世界で覚えた歌は、収穫の季節に歌うものや、夜の作業唄ばかりだ。踊れる歌ではない。でも美月の記憶には別の引き出しがある。
リサは、ふっと笑いながら歌い始めた。
単調なメロディーだった。音程の跳躍が少なくて、同じフレーズが繰り返される。その単調さゆえに、一度で耳に残る。美月として生きた日々の中で、テレビの前の小さな子供が目を輝かせていた、あの歌だ。この世界の言葉に乗せると少し違う感触だったが、旋律は変わらない。
子供たちがすぐに声を合わせ始めた。三回も聞けば覚えられる。タリスが一番大きな声で歌っていた。音程は外れていたが、そんなことは関係なかった。
ナイアが隣で笑いながら聞いていた。ナイアもはじめて聴く歌だ。
ふと気が付くと、輪の端に先ほどまでいなかった子供が一人いた。金色の髪の、小さくてかわいい女の子。顔立ちが明らかにこの村の子じゃない。
いつの間にきたのだろうか? タリスたちに混ざって輪の中に座っている。誰も不思議そうにしていない。自然にそこにいた。
歌いながら目が合った。女の子の唇の端が少し上がる。わざとらしくバツが悪そうな顔で「見つかった」という感じの表情。
メイルだった。
歌いながら歌詞を変えてみた。この村の情景に合わせた言葉を旋律に乗せてみる。
♪朝もやの山道 霧が晴れてきた
♪石積みの壁 光を集めて淡く煌めく
♪そよ風とともに目覚め 今日も石を守り続ける
♪故郷の記憶が風に揺れる
タリスが歌いながら「石を守り続ける、ってどういう意味?」とリサに聞いた。
「さあ?」と笑って続けた。
別の子が言った。
「僕たちも守ってるよ」
「え?」思わず歌が止まった。
タリスが当然のように頷いた。
「村の外れに、守らなきゃいけないものがあるって、じいちゃんに言われてる。僕たちはそれを守ってる」
「何を守ってるの?」
「分かんない」
タリスがまた大きな声で歌い始めた。
「でも、守れって言われてるから守る」
メイルがそれを聞いていた。表情は変わらなかったが、目が少し細くなった気がした。
井戸の広場に子供たちの声が響いていた。
歌が続いている間に、気がつくとメイルが隣にいた。
いつの間に移動したのか分からなかった。気づいたらリサの隣の石垣に座っていた。不思議な子。
メイルが口を開く。
「お久しぶりー」
「なんでここにいるの?」
「そんなことどうでもいいでしょ」
「ペルネア村から子供が一人で歩いてこれるところじゃない」
メイルが子供たちを見たまま言った。
「歩いて来るわけないじゃない」
「……?」
首をかしげるリサ。
「何しに来たの?」
「案内にきまってるでしょ」
「何の?」
メイルがリサを見た。目が少し真剣だった。普段の飄々とした感じとはちょっと違う。
「見ておいた方がいいものがある。今日のうちに。明日じゃ遅いのよ」
それだけ言って立ち上がり、顔で促した。
リサは子供たちに頭を軽く下げ、「また今度ね」と言ってメイルについて行った。ナイアとアレック、クルも一緒だ。
メイルは村の小道を、以前から知っていたかのように歩き、村の北側へ回った。集落を抜けてしばらく歩くと小高い山があり、立派な大木に挟まれた山道をちょっと上ったところに重い木の扉があった。
頑丈な鉄の錠前が二つ、扉の上下を締めている。扉の周囲に石が積まれていて、簡単には開かない構造だった。
ここだけ村の他の場所とは明らかに造りが違う。
「なんだ? ここ、開かないよ、これ」
アレックが錠前を見て言った。
メイルが扉の前に立った。右手の人差し指を立てて、ゆっくりと一回転させた。
カチン。
錠前が音を立てて外れた。二つとも同時に。
扉の奥は洞穴になっていた。
アレックが黙った。ナイアが小さく息を飲んだ。リサがメイルに話しかける。
「ここ、知ってた?」
「知ってた」
メイルが扉を押し開けながら言った。
「ずーっと前から」
メイルはそう言うと先に穴の中に入って「早く来なさいよー」とみんなを誘う。
中は暗かった。入口の脇に松明と火打ち石が置いてあり、誰かが定期的に管理しているようだ。メイルが松明を手に取り、慣れた手つきで火を点けた。橙色の光が狭い通路に広がった。
リサとナイアとアレックが続く。クルは入口で一度立ち止まった。鼻を上げて、中の空気を確かめるように、短く「フン」と鼻を鳴らしてから、ゆっくりと後に続いた。
松明の光が壁を照らす。石の壁に古い文字が刻まれていた。読めない。この世界の言葉でも、美月の記憶にある言葉でもない。もっと古い模様みたいな文字だった。
通路が下へ続いており、傾斜が急になって足元が滑る。メイルは迷いなく降りていく。三人で後を追った。
しばらく行くと最深部に突き当たった。外からは想像つかないような広さで、天井が高い。松明の光が届かない隅がある。冷たい空気が満ちていて、地上とは別の場所に来た感覚がした。
その中央に、それはあった。
台座の上に立つ、人の形をした石像。
翼があった。背中から広がる、折り畳まれた翼。人の形をしているが人ではない。顔は静かで、目を閉じている。眠っているように見えた。
近づいた瞬間、空気が変わった。リサの肌がざわりと粟立つのが分かった。
魔力とも違う、もっと根本的な何かがこの石像から出ていた。
クルが静かに唸った。何か別のものに反応している時の、あの低い音だ。体が石像の方を向いたままじっとしている。ナイアが小さく言った。
「怖い。ううん、ちょっと違う……」
「ふふ。胸が苦しいかしら? トキメキに近いかもね」
メイルがちょっと微笑んで言った。
それを聞いたナイアが軽く頷く。
メイルは石像を見たまま続けた。
「そうなる人もいる。感じる人間と感じない人間がいる。あなたは感じる側よ」
アレックが石像を見上げたまま聞いた。
「これは何?」
メイルは少し間を置いてから語り始めた。
「さーて、お教えいたしましょうか。ずーっと昔、人族はとても大きな力を持った物を作った」
声が洞窟に響いた。みんな黙って聞いている。
「その力が突然暴走した。ものすごい暴走よ。もともとは人族同士の争いが原因。暴走を止めたのは天の者と地の底の者。それが済むと、人族は二つともまとめて閉じ込めた。自分たちの都合でね」
「天の者と地の底の者?」
アレックが繰り返した。
「白い翼を持つ者と、黒い翼を持つ者。人族の言葉で言えば天使と悪魔。この石像はその時の封印の一つ。閉じ込められた力の半分が、ずっとここで眠っている。……全部がここにあるわけじゃないけどね」
「なぜ人は天使を封印したの?」
リサが聞いた。
メイルが少し間を置いた。
「戦争に勝ちたかったから」
「……天使とどう関係あるの?」
「天使がいると敵の兵士の傷まで治る。いつまでも勝負がつかない。だから封印した」
メイルの声は平坦だった。
「天使は何も悪いことをしていない。ただ、人族の戦争の論理に合わなかった。悪魔なんて人族に利用されただけなのにね」
松明の火だけが静かに揺れている。
(敵の傷まで治る、から)
リサの頭の中で、それが冷たく像を結んだ。戦場で敵も味方も区別なく癒やす者がいれば、戦いはいつまでも終わらない。勝つために人族は天使を邪魔だと判断した。ただ救うだけの存在を、救うという理由で檻に閉じ込めた。善意さえ邪魔なら消す。それが人間。
指の先まで冷えていく感じがした。
ナイアがゆっくりと石像に近づいた。足が先に動いていた。火口の夜と同じ動き方だった。
「ナイア!?」
アレックが言った。
ナイアは立ち止まらなかった。石像の前に立って、静かにそれを見上げる。翼の先がナイアの顔のすぐ横にあった。
クルが近寄る。ゆっくりとナイアの隣に来た。石像の前に並んで立つ。二つの気配が重なった瞬間、何かが変わった。
クルが一声、低く鳴いた。
「ワオーン」
呼びかけるような声。返事を求める音色だ。
その瞬間、石像が淡く光った。
強い光ではない、かすかな発光だ。翼の輪郭が薄く白く滲んでいる。
リサが息を飲んだ。
その光が、ナイアへ向かった。
はっきりした奔流ではないが、リサの目には確かに見えた。石像の翼から滲み出た淡い光が糸を引くようにナイアの身体へ吸い込まれていく。入る、というより、欠けていた所にそそがれるような動きだった。ナイアは身じろぎもしない。石像を見上げたその横顔が、一瞬、ナイアの年齢に合わない静けさを帯びた。いつものナイアではない何かが、そこに薄く重なって見えた。ほんの一瞬だった。
その時、石像の表面に細いヒビが走った。大きな音もなく、細いヒビが集まって、細長い一本の裂け目になった。
そして、光が消えた。
さっきまで皮膚をざわつかせていた、あの根本的な何かが、跡形もなく失せている。
力の抜けた器だけが静かに台座の上に立っていた。
今まで確かにここにあったものが抜け落ちた感覚だけが洞窟の冷たい空気に残った。
クルが短く鼻を鳴らした。ナイアが呟く。
「私……」
ナイアは自分の手を見ながら、何かを言いかけて、止まる。
「何もしていない」とリサが先回りするように言った。「でも、何かがあった」と続けた。
ナイアが頷いた。
メイルだけが小さく笑って、呟いた。
「やっと出てきたわね。ふふ」
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地上に戻ると、子供たちの歌声がまだ聞こえていた。
最後に出たリサが扉を閉じると、外れていた錠前が二つ、ひとりでに元の位置へ戻って噛み合った。カチン、と、来た時と同じ音がした。
何も変わっていない。村の空気も石積みの家も井戸の広場も、全部そのままだった。洞窟の中で起きたことが夢だったような気がした。
振り返ると、メイルはいなかった。いつの間にか消えていた。足跡すらなかった。
ナイアは夕方まであまり話さなかった。
夜、並んで寝床についてからナイアが言った。
「私は何もしていない。像の傍にいただけなのに」
「そうだね」
「それなのに、何かが変わった気がする。私の中で」
少し間があってから、ナイアが続けた。
「荒野で、アレックの傷に手を当てた時も、少しだけ似てた。あの時も、私は何もしていない」
それが何なのか、リサには分からなかった。
「分からないままでもいいと思うよ」
しばらくしてから言った。
ナイアが眠ってから、天井を見た。
ナイアの中に何かがいる。嫌な感じではない。前からそう感じていた。でも今日、それが少し近づいた気がした。ナイアに向かって。ナイア自身にも気づかれないくらい、静かに。
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六日目の朝、行商人が来た。
ロバを引いた男が一人、新しい石畳を踏んで村に入ってきた。荷物を売りながら情報も置いていく。そういう人だと数日でわかっていた。
ベッサが男と話すのを少し離れて見ていた。男の声は聞こえなかった。でも、ベッサの顔が変わったのは分かった。杖を握り直す。
話が終わるとベッサはまっすぐこちらへ歩いてきた。
「帝国の斥候が近くにいる。この道を調べているらしい」
「どのくらい近く?」
アレックが聞いた。
「北の道をこちらへ下ってきておる。二日もあれば、ここに来る」
(今日のうちに、とメイルは言った)
昨日の言い方の意味が、少し遅れて重なった。
アレックがリサを見た。リサはナイアを見た。ナイアは頷いた。
「早く出た方がいい」
ベッサが言った。表情は変わらないが目がさっきとは違う。
「斥候はセリア国から脱けた弓使いを追っているらしい。お前さん方がここにいると分かれば匿ったとして村が咎められる」
「分かった。明日の朝に出る」
アレックが言った。
ベッサが頷いた。
「北の方に廃墟がある」
ベッサが続けた。
「帝国が大勢の人間を入れて、地面を深く掘っていると行商人が言っておった。何を掘り出そうとしているかは、わしには分からん。気をつけろ」
昨日、洞窟の中でメイルが言っていたことと何かが繋がる気がしたが、まだ形にはならない。
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翌朝早く、村の門前にリサたちは立っていた。
ベッサが杖をついて見送りに来た。村の女が二人少し離れたところに立っている。
アレックがベッサに言った。
「お世話になりました」
ベッサは布に包んだものをアレックに押しつけた。固パンと干し肉、それに小さなチーズの塊だった。
「働いてもらった分だ。貸し借りはない」
それからベッサはリサを見た。杖の先が、北の山の方角へ短く向いた。
「北の扉に行ったな」
リサは息を止めた。誤魔化す言葉が出てこなかった。
「……はい」
「錠は?」
「閉まっています」
ベッサはしばらく黙っていた。それから杖を石畳に戻した。
「中がどうなったかは聞かん。わしらは中身を知らずに守ってきた。知らんまま守るのが、この村の仕事だ」
言葉を切って、ベッサは続けた。
「だが、いつか誰かが来て中身を持っていくとも聞かされておった。持っていった者が何に使うかは、その者が決める。それも、この道を歩いて帰ってくる者が決めることだ」
リサは頭を下げた。長く下げた。
もう一人、老人が来た。アレックの前に立ち、アレックの腰の使い古した短剣を一瞥して、何も言わずに鞘ごと剣を差し出す。
「狼が来た夜、礼を言いそびれていた」
それだけ言って背を向けた。アレックは「あの」と言いかけて頭を深く下げる。老人はそのまま行ってしまった。アレックは短剣を懐にしまい、渡された剣を腰に下げた。
タリスが走ってきた。息を切らして、リサとナイアとアレックを順番に見た。それからクルを見た。
「また来る?」
クルがタリスの前に来た。タリスの顔に鼻先をゆっくりと近づけて一度だけ顔を舐めた。それからタリスの耳元で、低く短く「クーン」と鳴いた。
タリスが目を細め「返事してくれたね」とつぶやいた。
「行くぞ」
アレックが言った。
リサたちは歩き始めた。山岳地帯から続いている石畳の道を麓へと向かった。振り返らなかった。
タリスの声が後ろから聞こえた。
「兄ちゃんはいつ帰ってくるのー?」
アレックが後ろ手に手を振り、少しだけ足を遅くした。それからまた、同じ速さで歩き始めた。
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道を歩きながら、アレックがリサに話しかけた。
「どこへ向かう?」
「斥候と逆の方向へ。帝国の方向は避けたい」
リサは言った。
「ナイアは?」
「わからない。ここにいられないならまずは歩くしかない」
ナイアが言った。
クルが先を歩いている。山道の先を確認するように鼻を上げて、耳をそばだてて。時折、短く鼻を鳴らしながら。
「決まりだ。このまま下っていこう。ペルネア村を避けて海に出られるはずだ」
アレックが言った。
帝国の整備した新しい道がどこまでも伸びている。斥候がその道を来るなら、リサたちは道を外れて逃げるしかなかった。
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村から少し離れた木立の陰で、メイルは三人と一匹の後ろ姿を見送っていた。
声も気配も、もう誰にも届かないところにいる。それでも、山を下っていくリサたちの姿だけは、はっきりと視界に捉えていた。メイルが小さく呟く。
「ナイアったら、まだ目覚めが浅いわね」
声は誰にも届かないまま、木立の隙間を抜けていった。
駒は動き始めた。すべて、メイルの望んだ方向へ。
それだけ確かめると、メイルはくるりと踵を返し、木々の合間から覗く木漏れ日に吸い込まれるように、足音もなく消えていった。
「面白かった!」
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