第十八話 ペトラキアの七日間(前半)・束の間の平和
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ペトラキアは、帝国の道と山道が交わる場所にある、住民五百人ほどの小さな村だった。
山道の急な曲がり角を過ぎると石積みの家々がいきなり視界に現れた。急斜面に階段状に張りつくように建てられた家屋が岩肌の色と見分けがつかないほど馴染んでいる。
(……どこかで見た景色だ)
美月として生きていた頃、写真か何かで見た覚えがあった。強い太陽と抜けるような青空の下、真っ白な家々が斜面にひしめき合う、古代のエーゲ海沿岸の村。乾いた風が吹くたび、どこかで嗅いだことのあるオリーブの香りが鼻先をかすめた気がした。蝉に似た虫の声が斜面のどこかで途切れず鳴いている。時代も国も違うはずなのに、目の前の光景はその記憶とほとんど重なって見えた。
村に入る手前で気づいた。道が新しい。
山間の村へ続く道としては不自然なほど整備された石畳が麓からまっすぐに伸びている。轍の跡が均等で深かった。重いものを載せた荷車が何度も通った証拠だ。
(帝国の道だ)
足元を見ながら思った。この道がここまで来ているということは村はもう帝国の地図の中にある。
ナイアの歩幅が昨日から小さくなっている。荒野の狩りだけでは食料が保たない。
村の入口に立つと数人の村人がこちらを見た。農具を持ったまま動きを止めている。子供が一人、石垣の陰から顔を出した。三人連れと見慣れない大きな白い犬。警戒するのは当然だった。アレックが前に出て言った。
「入っていいですか?」
誰も答えない。視線が泳ぐ。
そこへ、村の中からのんびりした足音が近づいてきた。杖をついた老人が一人、右足を少し引きずりながらゆっくりと歩いてくる。白い顎髭が胸のあたりまで伸び、くすんだ緑の目が三人を一人ずつ眺めた。最後にクルを見て、少しだけ眉が動いた。
「どこから来た?」
「セリア国の山側から来ました」
アレックが答えた。
「一週間ほど泊めていただけませんか。働けます。金も出せます」
老人はしばらく三人を眺めていた。何かを計算するような間があった。
「セリアから逃げてきたのか?」
アレックが一瞬止まった。老人が杖の先でアレックの靴を指した。
「靴を見れば分かる。踵の減り方が片寄っておる。夜の山道を、休まずに下りた者の減り方だ」
「……そうだ」
「何から逃げた?」
「……」
言葉に詰まったアレックを見ながら、老人は杖の先を石畳に軽く打ちつけ、ふむと言いながら言葉をつづけた。
「役に立つなら構わん。役に立たないなら帰れ。飯は出さん。軒先くらいは貸してやる」
「分かった」
「わしはベッサだ。この村の村長をしておる」
アレックたちも名を名乗った。ベッサは名前には特に興味がないようだった。
その時だった。
石垣の陰から転がり出てきた小さな影が一直線にクルへ向かった。子供だ。8歳くらいの男の子が怖がるでも躊躇うでもなく、クルに近づいた。
「おっきい!」
大人しくしているクルの体を抱きしめる。クルはびくともしない。クルはゆっくりと首をめぐらせ、大きな鼻先で子供の頭のにおいをかいだ。それからクルは子供の頬をペロッとひとなめした。
ベッサが低い声で言った。
「タリス、離れろ」
「やだ、もふもふだ」
リサたちが傍らで見ていると、ベッサが誰にともなく言った。
「うちの孫だ」
タリスは離れず、クルもされるがままだった。むしろ少し低くなってタリスが抱きやすい高さに体を傾けている。アレックが思わず吹き出しそうになった口を手で押さえた。
周囲の村人たちの表情がわずかに緩んだ。農具を持ったままだが、さっきまでの硬さが少し抜けている。ナイアも小さく笑っていた。ベッサだけが額に皺を寄せたまま三人を見ていた。
その日の夕方から仕事が始まった。
二日目の朝、リサは畑仕事を手伝いながら、隣で鍬を振っていた痩せた老人に聞いた。
「若い人が少ないですね」
痩せた老人は少し間を置いてから答えた。
「帝国に行っておる。15から30くらいの男はみんな連れていかれた。兵や働き手としてな。いつ戻るかは分からん」
それだけ言ってまた鍬を振り始めた。
残るのは老人と女と子供が中心だった。ベッサ自身も右足が悪い。重い石材を運ぶことも急斜面の畑に入ることも難しかった。
アレックは黙って最も重い仕事を選んだ。ナイアは子供たちの相手をしながら、炊事の手伝いをした。タリスはナイアとクルの周囲をずっとうろうろしていた。クルは邪魔にするでもなく、タリスが近づくたびにゆっくりと尻尾を動かした。
アレックが火の魔法で竈の火力を一定に保ち、浮遊魔法で軽い荷物を運んだ時、村人たちが驚いた。
その驚き方がおもしろかった。老婆が「あら?」と言って立ち止まった。子供たちが集まってきた。農具を置いた男が口を開けたまま動かなくなった。
魔法は誰でも使える。だがそれは、マッチを擦るほどの火種か、ひと吹きの風を起こす程度のものだ。アレックのように炎の勢いを細かく操って、竈の火力を一定に保つ。小石を一つ浮かせるのではなく、荷を一つ運びきるまで浮かせ続ける。その精度と持続が、この村では見たことのないものだったらしい。
この村に、火を細かく操る必要のある仕事はもう残っていない。竈を守る若い男がいないからだ。
リサは魔法を使えないので別の方法で役に立った。
急斜面の畑に土砂崩れの跡があった。上から見ると崩れやすい箇所の特徴がある。水の流れ方、地層の切れ目、植生の薄いところ。ペルネアの畑でも雨のあとはよく土が流れて、そのたびに大人たちが石を積み直していた。子供の頃から何度も横で見ていた作業だ。石垣の積み方を少し変え、排水の溝の角度を直す。それだけで崩れやすい場所はある程度抑えられる。
村の男が「なんで分かる?」と聞いた。「見れば分かる」と答えた。
それ以上の説明はしなかった。男は少し考えてから「そうか」と言って手を動かし始めた。
三日目あたりから村人の自分たちへ向ける視線が変わってきた。農具を持ったまま立ち止まることがなくなった。
その夜、家畜が騒いだ。
囲いの向こうに目が二つあった。狼だ。荒野で見たものより痩せている。クルが柵を回り込んで低く出た。それだけで狼は退がった。アレックは崩れた石垣の穴に石を積み直していた。終わったのは夜が明けてからだった。
石垣の下に老人が一人立って見ていた。何も言わずに帰っていった。
四日目の夜、ベッサが焚き火を囲もうと言った。
村の中央、井戸の近くに石を積んだ囲いがあって、そこに火を起こした。ベッサとリサとアレックが座った。アレックは前の夜からろくに寝ていない。腰を下ろすなり欠伸を噛み殺していた。ナイアはタリスをあやしてから遅れてくるという。クルは火の側で横になって尻尾を石畳に一度打ちつけた。
ベッサは最初、何も言わなかった。杖を膝に渡して火を見ていた。
しばらくしてベッサはアレックを見て口を開いた。
「お前さん方、セリア国の山側から来たと言っておったな」
「そうだ」
「この先、どこへ行く気だ」
「決めていない」
ベッサは火を見たまま言った。
「なら、行き先から潰しておく。ヴェリア国はもう、国ではない」
「ヴェリアが?」
アレックが言った。
「帝国が侵攻してきて二年で終わった。鉱山があったのが良くなかった。今は帝国の採掘場だ。人はまだいるがもう国ではない」
火が小さく爆ぜた。
「ルキアス国はセリアと仲が良かった。でも帝国に圧力をかけられて手を切った。今は帝国の言いなりだ。断ったら次はないと分かったんだろう」
ベッサは杖の先で石畳を一度叩いた。
「賢い選択とも言えるし、賢くない選択とも言える」
しばらく誰も言わなかった。
「セリアはどうなるのだろう?」
リサが呟くように言った。
ベッサがこちらを見た。くすんだ緑の目が静かにこちらを見ていた。
「セリア国は大きい。すぐにはやられん。だが……」
言葉が続かなかった。「だが」の先は言わなかった。
セリアはリサとしての故郷。ナイアが生まれた場所。ドロスの工房があった場所。あの丘の上の広場で弓を引いた、あの場所だ。でも今、美月としての感覚がそれに重なった。
(国が滅ぶとはどういうことか)
美月として生きた21年間で、それを体で知ってはいなかった。戦争も、国が消えることも、教科書の中にあった。そこに住んでいた人間の話ではなく、年号と地名の話として。
でも、ベッサの言葉は違った。武力で攻め落とすだけではない。道を通して食料を運び入れ、飢えをなくし、その代わりに若者を引き抜いていく。豊かにしながら、骨を抜く。気づいた時には、働く手も、戦う者も残っていない。
(これが、帝国のやり方なんだ)
肌がひやりとした。セリアが「すぐにはやられん」としても、その先がどうなるかは、ベッサの沈黙が語っていた。
焚き火の向こうでクルが一度だけ頭を上げてこちらを見た。金色の目が少しの間そのままこちらを見ていた。それからまた顎を前足に乗せた。
「よく知ってますね。この村にいながら、近隣の国のことまで」
アレックがベッサに言った。
「道が通れば人の行き来が増える。当然行商人も。行商人は荷物だけでなく、情報も運んでくる。昔、わしも各地を回っておった。どこの話でもだいたいは道沿いに流れてくる」
ベッサは火を見たまま言った。
指で足元の石畳を指した。新しい道だ。
「帝国がこの道を整備したおかげで行商が増えた。食い物が入るようになった。この冬は初めて、蓄えを削らずに越せそうだ」
静かな声だった。
「代わりに兵や働き手として若者が連れていかれた。孫のペトロスも二年前から戻ってきていない」
「孫」という言葉を聞いた瞬間、タリスの無邪気な笑顔が浮かんだ。あの子の兄がペトロスだ。ベッサにとっては二人とも大切な孫だった。
アレックにも聞こえていた。顔が少しだけ動いた。ベッサは続けた。
「帝国が作ったこの道は良い道なのか悪い道だったのか。まだ分からん」
リサは足元の石畳を見た。良いか悪いかを決められるのは、この道を歩いて帰ってくる者だけだ。
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