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第十七話 荒野の数日間

毎日投稿予定。

 工房が燃えていた。

 振り返ってはいけない。それでも背中の向こうに橙色の光が広がっているのが分かる。炎の熱ではない。ドロスがそこにいる、という感覚が背中から離れない。

 どこまで焼けたのかは分からなかった。奥の作業場まで火が回ったのか、道具は残っているのか、確かめる術はない。あの二人の弟子はどこへ散っていったのか。それも分からないまま、足だけが前へ進んでいた。

 「生きろ。もっと良い弓を作れ」村の門を出てからずっとその声が頭の中にある。怒鳴ってはいなかった。静かな声だったからこそずっと残る。

 クルが先を行く。リサはナイアの手を引いて足元の石を踏んだ。荒野の道は砂と岩が混じり、月明かりがなければ足元が見えない。アレックが少し後ろを歩いていた。誰も何も言わない。

 三人と一匹になった。ドロスがいない。その事実だけが足音と足音の間に静かに落ちていた。


---


 一日目の昼、雨が降った。

 朝から空が薄暗い灰色をしていた。雲が低く、風が湿っていた。クルが何度も立ち止まって空を見上げていた。


 「雨宿りできる場所を探す」


 リサが言うと、アレックがすでに周囲を見回していた。岩肌がせり出した場所を見つけたのはクルだった。丘の斜面に大きな岩の庇があり、その下だけ地面が乾いている。みんなで入っても余裕があった。

 雨脚が激しくなってきた。荒野の土が一気に水を吸い、低いところに流れた。岩の庇から雨粒が糸のように垂れる。ナイアが膝を抱えてクルに寄りかかった。

 アレックが袖口で頬をこすった。昨夜の乾いた血がまだ幾つも残っている。

 それから枯れ枝を集めた。指先に意識を集めると、細く短い炎が指の先から枝の端へ移った。マッチを擦るような、ごく小さな灯りだ。濡れた枝はすぐには燃えつかない。それでも小さな炎は消えずに枝の芯を舐め続け、少しずつ大きくなった。この世界ではだれでも使える小さな魔法。リサは弦の音を聞いた頃から使えなくなっている。試す気にはならなかった。


 「ありがとう、アレック」


 とリサは言った。


 「大したもんじゃないけど」


 アレックが短く答えた。

 小さい火だ。でも、とても安心できる温もり。アレックの起こす火は、いつも長く保つ。

 炎の温かい灯りが周りを照らす。ナイアが手を伸ばしてほっとした表情でほほ笑んだ。雨の音が続く中、三人と一匹はしばらく黙って火を見ていた。


---


 二日目、食料が尽きた。

 ドロスが用意してくれた干し肉と固パンが思っていたより早くなくなった。水は近くの沢で確保できた。問題は食べるものだ。


 「狩りをする」


 リサが弓を持った。クルが立ち上がって隣に並ぶ。一緒に荒野の低木地帯へ入った。クルが鼻を使って獣の跡を辿る。その動きに合わせてリサは足音を殺して歩いた。

 兎を見つけた。茂みの陰に二匹。

 矢を番えた。引き分けながら半分だけ吐いて、そこで止める。引き手の人差し指の第一関節が右の頬骨の下に収まり、弦が鼻の頭に触れた。風を読んだ。

 放った。

 一射目で仕留めた。もう一匹は逃げる。追わない。

 しゃがんで兎を手に取った。まだ温かい。目を閉じた。少しの間、動かずにいた。命をもらう。その重さを体に刻む。

 (これが狩りだ)

 弓は道具だ。今日は生きるための道具として使った。

 クルが静かに隣に来た。鼻先を兎に近づけて、それからリサを見た。

 「ありがとう」とリサは言った。


---


 三日目の夕方、遠吠えが聞こえた。

 最初は遠かった。山の稜線の向こうから低く長い声が流れてきた。クルが動きを止める。耳が真っ直ぐに立つ。


 「狼か?」


 アレックが言った。

 クルは答えない。鼻を上げたまま、風の向きを確かめていた。

 夕食を終えた後も遠吠えは続く。山々に響き渡る鳴き声。一頭ではない。声が重なっていた。ナイアがリサの袖を握る。何も言わなかったが指先が白くなっていた。


 「大丈夫だよ」


 リサは言った。クルが低く唸る。

 夜が深くなった頃、気配が来た。

 クルが立ち上がった。焚き火の向こう、低木の間に何かが動いている。目が光った。一対ではない。複数の目が暗闇の中でこちらを見ていた。

 狼の群れだ。

 一頭。二頭。視界の端からさらに二頭、林の中からも出てきた。合わせて六頭。群れだ。腹が減っているのがその動き方で分かった。ゆっくりとじりじりと距離を詰めてくる。


 「狼の群れだ」


 アレックが低い声で言った。

 ナイアがリサの腕にしがみついた。体全体が震えている。声は出さない。六頭の目が焚き火の光を反射して橙色に光っていた。

 アレックが前に出た。


 「下がってろ」


 短剣を両手で構える。先頭の狼と目が合った。狼が唸る。アレックは動じない。その場に立ったまま動かなかった。

 先頭の一頭が飛びかかってきた。

 アレックが短剣を振った。狼の前足をかすめた。狼が着地してすぐに向きを変える。もう一頭が横から来た。気づくのが遅れたアレックの肩口に牙が食い込む。


 「アレック!」


 矢が飛んだ。

 その狼の耳を射抜いた。狼が高い声を上げて跳び退く。アレックの肩から牙が離れる。

 二本目。群れの中でひときわ体の大きい一頭の鼻先を浅く裂いた。狼が頭を振り、後ずさりした。腹を空かせた群れでもそれは本能に近い反応だった。

 だがまだ、退かない。そこにクルが動いた。

 六頭の狼の中にクルが正面から飛び込んだ。並みの狼より一回り大きな体が地を蹴る。一直線に群れの中で最も大きな一頭へ向かった。ボスだ、とリサには分かった。

 クルがその首に噛みつく。

 力の差は歴然としていた。ボス狼が低い声で鳴いた。唸りではなく、苦悶の声だ。クルは離さない。そこに重さをかけていた。

 群れの空気が変わった。

 ボスが後退する。クルがゆっくりと口を離した。ボス狼が踵を返す。それが合図だった。周りの狼が一斉に背を向けて走り出した。最後の一頭が低く唸ってからやがて闇の中に消えていった。

 足音が遠くなる。静寂が戻った。

 リサは焚き火の灯りを頼りに二本の矢を拾い集めた。一本は矢羽根が半分ちぎれている。もう一本は無事だった。矢筒に戻す。ドロスが揃うだけ束ねてくれた矢は、ここで使い切れば二度と補えない。

 クルがアレックの前に来た。鼻先を肩の傷に近づけて心配そうにくんくんと嗅ぐ。

 「痛い」とアレックが言うと、リサが近づいてきた。布で傷口を押さえる。深くはない。運がよかった。

 ナイアがアレックの隣に来る。無言でそっと傷の横に手を当てた。その手が少し光った気がした。ほんのわずかな光だ。アレックは「温かい」と言いながら不思議そうな顔をしていた。


---


 その夜、焚き火を囲んだ。


 「あの星、何?」


 ナイアが空を指さした。弓を手入れしていたリサは顔を上げた。北の空に柄杓の形をした七つの星が並んでいる。


 「北斗七星」

 「北斗七星?」


 ナイアが繰り返した。声の中にその名前を口の中で転がすような間があった。


 「柄杓の形に見えるでしょ。あの、水をすくう側の縁の二つの星を結んで、その距離の五倍伸ばしたところに明るい星がある」


 リサは指で線を引いた。


 「あれが北極星。あの星だけは動かない。この空の下にいる限り、あれが北を示してる」

 「どうして動かないの?」

 「この星があの星の方向に軸を向けて回っているから。星が動いているんじゃなくて、こっち側が回っている」


 ナイアが目を丸くした。


 「星が回ってるんじゃなくて、私たちが?」


 同じ言葉を繰り返した。


 「じゃあ今も私たちは動いてる?」

 「ゆっくりとね」


 ナイアが不思議そうな顔でしばらく黙って空を見ていた。


 「あっちは?」


 また指を指す。


 「弓みたいな形の星」

 「いて座。神話では弓を持った半人半馬の戦士。ほら、上の方が体で下が足」

 「お姉ちゃんみたい」


 ふふと笑いながらナイアが言った。

 リサにもやっと笑顔が戻った。


 「そうかな?」

 「弓を持ってる。お姉ちゃんと同じ。ふふふ」


 アレックが何も言わずに空を見ていた。クルが三人の真ん中で横たわり、尻尾を一度だけ動かした。星の名前を教えているうちにナイアの相槌が少しずつ短くなる。気がつくとクルの背に寄りかかったまま、静かな寝息を立てている。

 アレックがぽつりと言った。


 「よく知ってるな、星のこと」

 「昔、覚えた」

 「そうか」


 それ以上聞かなかった。そういうところがアレックのいいところだと思った。

 しばらく沈黙が続く。焚き火が小さく爆ぜた。それを合図にアレックが口を開いた。


 「リサのこと俺はずっと好きだった」


 突然ではない。この数日でいつか言うと分かっていた。それでも声に出された言葉は静かに届いた。胸の奥に。

 リサは焚き火を見たまま答えた。


 「知ってる」


 アレックが黙った。続きを待っている。


 「でも今は先を見ている」


 その言葉と一緒に、美月の記憶が動いた。今のアレックの気持ちの重さは分かる。伝えて届かなかった時、人がどうなるかも。

 けれど答えを先に出したのは、リサとしてこの村で隣に育ってきた時間の方だった。弟みたいだ、と思った。不器用で真っ先に動いて今日も誰より先に前に出る。


 「分かった」


 しばらくしてからアレックが言った。

 さらに一拍置いて、「そういう奴だと思ってた」と続けた。声がほんの少し笑っていた。

 その瞬間、クルが二人の間に割り込んだ。体ごとぶつかってくる勢いでぐいっと入ってくる。アレックがよろけた。リサも体がぶれた。


 「なんだよ?」


 アレックが言ったが、クルはそれには答えず、アレックの顔に鼻先を近づけた。それからゆっくりとほっぺをひとなめする。


 「うわ」


 アレックが顔をしかめた。


 「やめろ」


 でもクルはもう知らない顔で二人の間に堂々と横たわった。尻尾が一度だけ揺れた。まるで「残念でしたね」とでも言うように。

 リサも笑った。アレックも笑っていた。

 三人と一匹。それだけで少し安心する。

 クルの体温が夜気の中で温かい。炎が小さくなっていく。「生きろ。もっと良い弓を作れ」。ドロスの声が今度は静かに収まる場所に落ちた。

 北極星だけが、迷いのない光でそこにあった。


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