第十六話 英雄と悪魔
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広場は割れていた。
「もうやめろ」と誰かが言った。「子供は生きて帰ってきたんだ」。別の声が「山はまだ揺れている」と返す。声はどれも大きくならない。次の名前を出せる者がいないからだ。生まれながら魔法を持たない子供は、この村にナイアしかいない。
人垣の奥で声がした。「あの弓が儀式を止めた」。別の声が続く。「悪魔の道具だ」。反論する者はいなかった。アレックが兵士に腕を掴まれたまま何か言い返している。火口で何があったか、誰も聞いていない。人垣の前列にドロスがいた。
ナイアは村長の前に立たされている。リサとアレックの周りには兵士がいた。マルキオンは村長の隣に立って何も言わない。村の慣習には手を出さん、と昨日そう言った男だ。
「伝承は取り下げん。山が静まるまではな」
村長が言った。その先を継ぐ言葉を持つ者はいなかった。ドロスだけが違った。
老職人の頑強な体が分厚い人垣を力任せに割って前に出た。
「待て!」
地鳴りのような太い声が広場に響く。何十年も堅い木を削り続けてきた男の言葉には有無を言わせぬ重みがあった。
ドロスは歩を止めず、正面から村長を睨み据えた。
「ナイアは生きて帰ってきた。人の手で助けられたんだ。火口に落とす必要などどこにある。いつまでこの悪趣味な人殺しの伝統を続ける気だ?」
誰も答えなかった。不敬極まる物言いに兵士たちが一斉に槍の穂先をドロスに向けたが、老職人は微動だにしない。むしろ、村長の背後に並ぶ長老たちを一人ずつ見回した。
「今一度、考え直すべきではないか? 確かめようのない神の奇跡のために生きた子供を間引きしなきゃ維持できない平和などいらん!」
長い沈黙があった。村人たちに動揺が広がる。
マルキオンが一歩前に出て、静かに手を挙げ兵士たちの槍を下げさせた。冷徹な双眸がドロスを射抜く。
「村の掟を決めるのは村長と長老だ。一介の職人が覆せるものではない」
抑揚のない声だった。ドロスへの言葉はそれで終わりだというように、視線がすぐにリサへと動いた。
「だが、そこの弓師の話は別だ。儂の護衛に矢を向けた。捨て置ける話ではない」
マルキオンは再びドロスに目を戻した。
「これ以上口を挟むなら、お前も同罪とみなす」
兵士がドロスの前に立ちはだかり前進を阻む。この人まで連れていかれる。それだけは駄目だった。
リサが絞り出すように言った。
「ドロス……、もういい。下がってください」
ドロスが振り返った。その頑固な目が真っ赤に充血している。
「よくねえよ。俺はな、お前の弓が悪魔の道具だなんて言われるために削り出したんじゃねえんだ」
その瞬間、リサの隣からアレックが弾かれたように飛び出した。
「離せッ!」
兵士の腕を振り払おうとしたが、鍛え上げられた兵士二人に押さえつけられ全く身動きできない。それでも石畳に顔を擦りつけながら叫ぶ。
「リサは何もしていない! ナイアを助けただけだ。なんで誰も何も言わないんだよ! お前ら、リサに何度も助けてもらっただろ!」
マルキオンの声は変わらなかった。
「儂は大議長だ。その護衛に矢を向けることは、国家への反逆にあたる。拘束する」
リサが叫ぶ。
「アレック、やめて!」
アレックが血の混じった唾を吐き、振り返った。
「やめられるか!」
広場の端でクルが身をよじるように踏ん張り、引きずられながらも低い悲鳴を上げていた。兵士二人に首輪をしっかりと掴まれている。金色の目は真っ直ぐリサを見つめ、一度だけ「クーン」と鼻を鳴らした。
リサの胸の中で、かつてナイアと交わした約束の言葉が切なく響いた。『いるよ』と言ったのに。その約束が今、終わろうとしていた。その時だった。
「待って!」
ナイアの声が広場に響いた。
14歳の、細いが、真っ直ぐな声だ。
ナイアが前に出た。足は小刻みに震えている。だが、その歩みは止まらない。広場の中央まで歩いて村人たちの方を向く。
「お姉ちゃんは私を助けに来てくれた。火口のすぐ上の断崖で一人で待っていた私のところへ来てくれた。誰も死ななかった。お姉ちゃんが狙ったのは武器と防具だけです。一本も、命にかかわる場所へは向けなかった。それが悪魔のすることですか?」
ナイアは震える声で続けた。
「あなたたちの信じる神は子供を焼き殺し、救い手を悪魔と呼ぶほど醜く飢えているのですか? ……お姉ちゃんを、悪魔と呼ばせない!」
広場が完全に静まり返った。まだ幼い少女が、たった一人で大議長と兵士の前に立っていた。声は震えたままだったが、ナイアは誰からも目を逸らさなかった。村人たちは顔を伏せた。
マルキオンはしばらくナイアを見つめていた。それから、声を絞り出した。
「……連れて行け」
夜になった。
リサは留置施設の冷たい石壁に背をもたせかけていた。隣にアレックがいる。ナイアは膝を抱えて目を閉じていた。クルは部屋の隅に繋がれていた。みんな黙っている。
兵士が一人施設に兵がやってきて、事務的な口調で告げた。
「国家反逆の罪で、明朝、弓師リサを処刑する。ナイアは元の通り火口へ送る。アレックは労役へ。以上」
それだけ言って兵士は施設を後にした。
反逆の裁きは大議長の名で下される。村の掟より早く、そして重い。
それを聞いた時も、リサはただ壁を見つめていた。ナイアが静かに目を開ける。その目が泣いていなかった。救いらしい救いは、それだけだった。何か言おうとしても言葉にならず、膝の上で拳だけを握りしめた。夜も更けてきて、うつろう意識のまま目を閉じた。
ずいぶん時間がたったような気がした。すると、何となく焦げるような臭いがした。どこかで何かがくすぶっている。
最初は気のせいだと思ったが、臭いは急激に強くなる。遠くで誰かが叫んでいた。
「火事だ! 工房が燃えている!」
その声が村中に広がり、通路を走る足音がして外が騒がしくなった。
「工房」という声が耳に入った。今そこにはドロスしかいないのではないか。
扉の外で凄まじい金属音がした。重い打撃音が二度、三度。錠前が弾け飛ぶ音がして鉄格子が軋んだ。アレックが立ち上がる。その瞬間、一気に扉が開いた。
ドロスが立っていた。工房の大槌を肩に担いで、煤まみれの顔で息を切らしていた。
背後の路地を、影が二つ駆けていく。工房で時折見かけた若い男たちだった。腕に道具箱を抱えている。ドロスが短く指笛を鳴らすと、二人は何も聞かずに闇の中へ散っていった。段取りが決まっているような、迷いのない動きだった。ドロスが声をかける。
「さっさと逃げろ」
クルが真っ先に飛び出した。ドロスの大きな手が一瞬クルの頭に触れ、すぐに離れた。クルは一度だけドロスを振り返り、低く鼻を鳴らしてから走り出した。
リサたちは走った。
路地を抜け、石畳を駆ける。遠くでドロスの工房が激しい火柱を上げていた。オレンジ色の光が夜の家々の壁を舐めるように照らしている。表の戸口から火が噴き上がり、積まれた藁と乾いた薪が音を立てて燃えている。奥の作業場がどうなっているのか、走りながらでは分からなかった。それでも遠目には、もう何も残らないように見えた。
村人たちが水を運び、見張りの兵士たちも消火に向かっていた。村中の目は燃え上がる炎に釘付けで、リサたちの背中を追う者はいない。村中の目をここに引きつけるために、ドロスは自分の工房を犠牲にしたのだろう。
村の東門が見えた。
先回りしていたドロスが息を切らせて待っていた。その背には、見覚えのある弓が一張り担がれていた。リサの弓だ。共に木を削り、共に弦を張った、ドロスとの最高傑作。
「ドロス!」
リサが駆け寄ると、ドロスは背の弓を外し、両手でリサに差し出した。
「持っていけ。お前の弓だ」
煤に汚れてはいたが、傷ひとつついていなかった。押収したこの弓を、兵士たちは詰所にも村長の家にも置かなかった。悪魔の道具を手元に留めておきたくなかったのだろう、作られた場所へ返すという名目で工房の壁に立てかけて帰ったのだ。ドロスは火を放つ前に、それだけを壁から抜き取っていた。手に馴染んだ重みが返ってくる。
ドロスがもう一つ、布の包みと小さな革袋をナイアの胸に押しつけた。それから背に回していた矢筒を外し、リサの手に握らせる。工房に残っていた矢を、揃うだけ束ねてあった。
「峠までは、もつ」
胸が詰まった。それでもリサは言った。
「一緒に来て。あなたの居場所はもうここにはない!」
ドロスは首を振った。
「俺はここに残る」
「なぜ?」
「守るもんが、まだ残ってる」
ドロスは短くそう言うと、真っ赤に燃える工房の方を一度だけ見つめた。
弓師が工房を燃やすということが何を意味するか、リサには痛いほど分かった。道具を作る職人が、自分の工房を自らの手で焼く。それだけの覚悟を、この人は今、この火の中に置いていく。
言葉が出なかった。
ナイアが声を出さずに泣きじゃくり、ドロスが大きな手でナイアの頭をぽんと叩いた。乱暴な優しさだった。
燃える工房を背にドロスが口を開いた。
「命懸けで子供を助けた奴を悪魔扱いする世界なんて間違ってる」
村全体に向かって言っているようだった。声は怒っている。でもその目は笑っていた。真っ赤な炎を背にして涙を流しながら、この人は最高の弓師の顔をしていた。
「生きろ。俺の教えたことは全部お前の身体の中にある。もっと良い弓を作れ」
少し間を置いて続けた。
「お前の弓はいつか世界を救う。このドロスの目が黒いうちは、それだけは絶対に保証してやる」
リサは拳を固く握りしめ、真っ直ぐに師を見つめ返した。涙は出なかった。この人が懸けた覚悟の重みは、涙なんかで洗い流せるほど軽くはない。絶対に無駄にはしない。世界を救う弓を私が引いてみせる。
「……ありがとう、ドロス」
門を出た。
夜の荒野が広がっていた。星が出ている。ナイアの手を強く引き、リサは前だけを見て歩き出した。クルが先頭を走り、アレックが傷だらけの顔で隣にいる。
誰も振り返らなかった。振り返ったら歩けなくなる気がした。
三人と一匹。
背後で、工房がどこまでも赤く燃えていた。
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