第十四話 火口の孤独
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岩が熱い。
座らされた場所の真下からじわじわと熱が衣を通して太ももに伝わってくる。立ちたかったが、両脇に兵士が一人ずつ立っていた。火口の縁だ。
断崖の先端から五歩も行けばもう地面はない。遥か下で赤い光がゆっくりと動いている。溶岩そのものは崖に隠れて見えない。岩の壁が橙と赤の間で揺れ、その色がナイアの足元の岩にも届いていた。揺れるたびに影が伸びたり縮んだりしている。
熱風が来た。硫黄の臭いが喉の奥まで入ってくる。
神官が何かを唱えていた。低くて単調な声で意味は分からない。
ナイアは両手を膝の上に置いたまま真っ直ぐ前を向いていた。断崖の向こうに熱い空気が歪んで揺れているだけだ。岩が赤く光り、その先に暗い空がある。月は火口から立ち上る煙の向こうに隠れていた。
(お姉ちゃんは来ない)
その考えが浮かんだ瞬間、ナイアは少しだけ目を閉じた。来ない、のではなく来られないのだ。山道は長く、護送の兵士たちはここまでの道筋を知っていた。お姉ちゃんが近道を知らなければ、この長い道のりでは間に合わない。そういう計算が頭の中で静かに動いた。
足の裏がじんじんと痛い。山道を上ってくる間にサンダルの底が岩で削れ、今は薄くなっていた。その痛みに集中すると他のことを考えずに済んだ。それだけが今のナイアにできることだった。
溶岩がぐつぐつと鳴っていた。ある時は長く続き、ある時は短く途切れた。その音が断崖の岩壁に反響していた。
兵士の一人が神官に何かを言った。儀式の手順の確認だろう。神官が頷き、懐から細長い布を取り出した。縛るためのものだ、とナイアは思った。儀式が次の段階に入る前に縁から落ちないよう固定するためだろう。
その時、隙ができた。
立ち上がれるかもしれない。走れるかもしれない。でもどこへ? 前は断崖。横は岩壁。後ろは来た道だが兵士がいる。走っても捕まる。そう分かっていた。それでも体が少し前に傾く。逃げたいという衝動が思考より先に来た。
兵士が振り返った。ナイアは体を戻した。兵士はしばらく見ていたがまた神官の方に向く。
(このまま死ぬかもしれない)
その言葉が初めてはっきりと頭の中に現れた。さっきまでは「儀式」だった。でも今、儀式の終わりに火口があって兵士がいる。縛られたまま縁に立たされる。その先に何があるか。
心臓の音が速くなった。手のひらに汗が滲んだ。冷たい汗だった。怖い。落ちたらどうなるかを体が先に理解した。
声の出ない呼びかけが頭の中で繰り返された。(お姉ちゃん。お姉ちゃん)。届かなかった。
手も膝も肩も小刻みに震えていた。熱いくらいなのに、それだけが止まらない。
神官が唱える声がまた高くなった。布を持ったまま近づいてくる気配がした。残された時間が少なくなっていく。
死を受け入れなければならないのかもしれない。
その考えが来た時、ナイアの中で何かが変わった。諦めではない、もっと静かなものだ。恐怖も痛みも震えも全部そのままある。でも、その全部が少し遠くにあった。自分の体で起きていることを、隣に座って眺めているようだった。
その静けさの中で、何かが目を開けた。ずっと眠っていたものが、今、初めて動き出していた。
気のせいかもしれなかった。熱と恐怖で頭がおかしくなったのかもしれなかった。でも確かにそこにいる。ずっと前からいて、今になって動いたのだと分かった。体の中のもっと内側の、深い場所に何かが触れた。
一瞬の出来事だった。思考が澄んだ。
恐怖は消えていないし体の強張りも続いている。でも頭の中だけが妙に静かになった。さっきまでお姉ちゃんを呼ぶ声で埋まっていた場所がすっと整理されていくような感覚だ。「誰か」が内側からナイアの混乱をそっと並べ直している。混乱したままのナイアを静かに支えているような、そういう気配だった。
自分ではない意志が、そこにある。
胸の中に温かさがある。熱風の熱とは違う、岩の熱とも違う。内側から灯るような温かさだった。
怖くなかった。それが一番、不思議だった。自分ではないものが、自分の中にいるのに怖くない。むしろさっきまで一人で抱えていた苦しみが少しだけ軽くなっていた。
(誰?)とナイアは自分の中に問いかけた。
答えは返ってこない。でも自分の問いかけを受け取った者の気配があった。
神官の唱える言葉が、区切りの短いものに変わった。
兵士の一人が動いた。断崖の縁の方へ、何かを確認しているようだった。その隙にナイアはそっと自分の胸に手を当てた。
お姉ちゃんがこっちに向かって来ていると思ったら、ここで待っている方が息が詰まるほどつらかった。来ようとしているのに来られない方が、ずっとつらい。
でも今は一人ではない。そんな感覚が確かにある。ナイアの内側にある何かがそっと寄り添ってきた。言葉ではない。触れているわけでもなかった。一緒にこの思いを受け取っているという感覚だ。
その時だった。岩の陰で何かが動いた。
断崖のすぐ手前、兵士たちとナイアの間の岩陰。白い影があった。最初は岩の一部が光を受けているのだと思った。
金色の目がナイアをまっすぐ見た。
(クル!)
どうやってここに来たのか分からなかった。兵士たちからは見えない岩陰に伏せてじっとこちらを見ている。
その金色の目が語っていた。
(来ている)
クルがここにいるということは、お姉ちゃんもこの山のどこかにいる。
そしてその瞬間、ナイアの中の何かが同時に動いた。クルの気配に反応するように内側の何かが向きを変えた。山道の方向へ。
(私一人じゃない)
岩陰にいるクルと、体の内側にいる何か。別々のものが、同じ一つの方向を指していた。
兵士がさらに近づいてきた。クルが体を低くする。岩陰に溶け込むように姿勢を下げ、今度は別の方向を向く。山道の方向だ。耳が前に向いて鼻がかすかに動く。
それからクルが短く吠えた。
大きくはなかったが岩壁に反響して断崖の周囲に広がった。兵士二人が振り返り、神官も顔を上げた。クルの方向を見たがクルはもう岩陰に完全に伏せている。影と岩の境界に溶け込んで見えなかった。
兵士の一人が剣の柄に手をかけた。もう一人が松明を持ち上げて周囲を照らす。岩と影と硫黄の煙だけだった。
神官が布を持った手を下ろした。唱え声が途切れたまま戻らない。儀式は、途中で止まっていた。
ナイアは前を向いたまま、胸の中でその名を呼んだ。
(お姉ちゃん)
声には出さなかった。今度は諦めではなかった。
遠くからかすかな風切り音が聞こえた気がした。
岩の間を通る風とは違う音。
ナイアは胸にそっと手を当てたまま目を閉じた。
一人ではない。お姉ちゃんが来ている。そして、自分の内側からも自分ではない何かの意識が励ましている。その実感だけがナイアの胸の中に確かにあった。
いつのまにかナイアの震えは止まっていた。
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