第9話 記憶の残火
記憶の欠片は
銀の輝きと引き換えに
昨日の君 夕暮れの街に溶けていく
技術開発部の奥深く、幾重ものセキュリティを抜けた先にハクの個人研究室はある。
室内には清浄な空気が満ち、どこか独特な薬品の匂いが漂っていた。
中央の作業台には十六夜白露が鞘と共に丁寧に並べられている。
刀身には湿布のように薄紙が貼り付けられ、その横には大小の液体瓶が佇む。
そこへ、霊鎖で呼び出しを受けていたリョウガが小走りで駆け込んできた。デスクで端末を叩いていたハクは、顔も上げずに冷徹な声を放つ。
「遅かったですね。あと五秒遅れていたら、霊鎖のレベルを上げるところでした」
口をとがらせるリョウガ。
「堅いこと言うなよ。途中でナナセとミナトに捕まったんだよ」
「そうですか。月詠の面々とは円満にやれているようで、なによりです」
他人行儀な言葉。リョウガは「お前はどうなんだよ」という言葉を飲み込む。
任務のときでさえ技術開発部の制服に身を包み、隊員たちとは必要以上に接点を持とうとしない。後輩から「神」と崇められながらも、どこか「異質」として遠巻きにされ――。
リョウガは無意識に首元の霊鎖に触れた。汗で肌に吸いつく触感が、忌々しい。
椅子を回転させ、ハクがおもむろにこちらを向く。昨日まで腕を吊っていた三角巾が、なくなっていた。
すっきりとした胸元は、平坦で何処か頼りない。月詠で彼ほど華奢な身体の隊員はいないだろう。
袖机の引き出しから一束の書類を取り出し、リョウガに差し出す。クリップで留められた用紙には、一日の行動を分単位で遡らせるような、無機質な記入欄が並んでいた。
「なんだこれ?」
「その前に。貴方に折り入って、お話ししたいことがあります」
いつになく真剣な光を宿す、ハクの瞳。
「これからは、僕も現場で戦います。今後は貴方との連携を強化するため、実戦訓練も並行して行います」
顔を突き出してキョトンとする狂犬。
「今までだって戦ってただろ。何が違うんだ?」
「僕も敵を消滅させると言っているんです」
ますます目をキョロキョロさせる。
「は? 叢雲じゃ澱の核は砕けねえだろうが」
「〈千鳥〉を使います」
リョウガの表情が凍りつく。
「おいおい待てよ。そりゃダメだ。シオンにバレたら、今度こそ俺は殺される」
「だからこうして、兄さんの目の届かないところで相談しているんじゃないですか。小規模の千鳥なら問題ないことは、先日の図書館での一件で証明されています。出力の匙加減さえ間違えなければ、僕も戦力になれます」
「……俺は、お払い箱ってことか?」
ハクは心底呆れたように、深く長いため息をつく。
「話を聞いていましたか? 僕は貴方と『連携する』と言いましたよ」
「なんで白露があるのに、お前がわざわざ千鳥を使うんだよ」
ハクの眉が、ほんの一瞬だけひそめられた。だがそれも刹那。すぐにいつもの「能面」を被り直す。
「僕は千鳥が出来るからこそ、月詠に採用されたのです。今のままでは僕の存在意義が、ひいては久遠寺家の存在意義までもが危ぶまれます」
白露が置かれた作業台の角に、雑に腰掛けるリョウガ。ハクと穏やかに視線を交わす。
「難しいことはわかんねえけど、お前もちゃんと戦わねえと気が済まなくなったってことか?」
「その理解で構いません」
「わかったよ……ま、お前が出る幕がねえくらい、俺が瞬殺するけどな」
リョウガの軽口を、ハクは肯定も否定もせず、ただ穏やかに見つめ返した。
「で、この紙の束はなんだ?」
渡された書類の束。クリップを掴んで目の前で大きく振ってみせる。パサパサと虚しく響く音。
「戦闘後の新ルーティンです。任務後、記憶の欠落や混濁がないか、より詳細に記録をつけてもらいます。書いたらその日のうちに僕へ提出。締め切り厳守です」
ピタリと止まる手の動き。
「……俺、そんなにヤバいのか?」
重苦しい声に、ハクは静かに首を横に振った。
「そうではありません。戦い方を変えることで、記憶の損耗にどのような変化が出るか、データを取りたいのです」
「ふーん……」
納得したような、しないような。書類の角で自分の頭をトントンとリズミカルに叩く。
「……なあ、俺いいこと思いついたんだけどさ。いっそのこと、『ヨル』をたくさん作ればいいんじゃねえか?」
「『ヨル』……?」
怪訝そうに眉を寄せる。
「十六夜白露。名前がなげーから、『夜』って名前にした。一応、お前に許可取っとこうと思って。いい名前だろ?」
ハクは開いた口が塞がらない。
(僕が百以上もの候補から、数ヶ月かけて精魂込めて選び抜いた、崇高な銘を……)
クラクラと眩暈すら覚える。寝ても覚めてもそのことで頭がいっぱいだったあの頃の自分に、この惨状をどう説明すればいいのだろうか。
こみ上げる頭痛を抑えるように、ハクは細い指先でこめかみを押さえた。
「リョウガ……貴方、白露に記憶を喰われている現状を、理解してますか?」
「わかってるさ。でも俺の愛刀であることには、変わりねえ」
大きな手が無意識に白露へ伸びる――だが、療養中のヨルに触れるわけにはいかない。行き場の失った手を、ズボンのポケットに突っ込む。
「はぁ……」
気の抜けた反応をするハクに対して、リョウガは立ち上がって大袈裟に腕を組む。
「まぁ、なんにせよだ。お前も月詠なんだから、任務の時ぐらいは隊服着ろよ」
ハクは露骨に口角を下げて、
「なんですか、急に」
自身の隊服の胸のあたりを、グイと前に引っ張るリョウガ。
「コレ着てるだけで、怪我しねえって話じゃねえか」
するとハクは前髪を指で撫でながら饒舌に喋りだした。
「しないとは言い切れませんが、そうですね。技術開発部の技術の粋を集めたものですから、戦闘服としてはかなり優秀です」
「お前も戦うっつーなら、ちゃんと着ろよ」
「いちいち着替えるのは非効率です」
「そう言わずにさ。それに、俺と一緒に戦うなら、お揃いのほうがカッコいいだろ」
リョウガは悪戯っぽくニヤリと笑った。
「なんて短絡的な……」
眉間に指を当てて首を振る。
その時、机上の電話がけたたましく鳴り響いた。
受話器を取ったハクの表情が、一瞬で堅く締まったものへと切り替わる。
「……はい。怪我はもう大丈夫です……その程度なら……わかりました。今すぐ向かいます」
ハクは受話器を置くなり、椅子に掛けていた上着を羽織った。
「リョウガ、任務です。現場へ向かいますよ」
「よっしゃ! 行くぜ、『ヨル』!」
リョウガは十六夜白露を乱暴に掴み取り、刀身へ吸い付くように貼られていた薄紙を豪快に剥ぎ取った。
浄界庁本部からほど近い、古い商店街。
昼下がりの通りには、惣菜の匂いや呼び込みの声が行き交っている。だが、道行く人の視線はどこか落ち着かない。澱の出現と月詠の出動を聞きつけたのだろうか、店先で立ち話をする客たちの声も心なしか低い。
賑わいから一歩外れた路地の奥。ハクが足を止めたのは、生気を失った一軒の建物の前だった。
看板の文字はかすれ、ガラス戸には分厚い埃が積もっている。開け放たれた戸口から漏れ出る空気だけが、明らかに淀んでいた。
建物の周囲には地元警吏が数名、所在なげに立っていた。澱によるものという情報が周知されていないのか、場違いな捕獲ネットを握りしめている者もいる。
「月詠です。この建物ですね?」
ハクの凛とした声に、警吏の一人が顔を上げた。技術開発部の真っ白な制服をまとった青年に一瞬戸惑いを見せたが、後ろに控えるリョウガの黒の隊服姿を見るや否や、慌てて背筋を伸ばした。
「ご、ご苦労様です! 澱が中に入っていくのを目撃して以来、見失っております」
「一匹で間違いありませんか?」
「はい! 自分は一匹だけ目撃しました!」
強風に煽られた竹のように体を後ろへしならせる警吏。リョウガから鋭い眼光を向けられると、息を詰めて固まった。
ハクはその脇を颯爽とすり抜けていく。
「わかりました。至急、規制線を張って下さい――リョウガ、行きますよ」
「あいよ」
後頭部で手を組み、狂犬は大人しく飼い主のあとをついていくのだった。
建物に一歩足を踏み入れると、埃の匂いに混じって鋭いキーキーという鳴き声が鼓膜を刺す。
「なんだ? この耳障りな声は。聞いたことねえな」
「ハクビシンですね。澱がこんな声真似までするとは、驚きです」
「ハクビ……?」
「イタチを一回り大きくした獣です。特性も模倣しているとしたら、相当俊敏です。警戒してください」
油と埃にまみれた廊下を進むと、天井板がガタガタと不気味に震えだす。頭上からパラパラと落ちてくるのは、煤けた埃。
二人が足を止めて見上げた瞬間――闇の中で逆さまに張り付いた澱と、目が合った。
大風呂敷が覆いかぶさってくるような感覚。
「デカっ!!」
圧倒的な質量に気圧されながらも、リョウガはハクを庇うように前に出る。すでにその手の中には、抜き放たれた白露が。
銀光が一閃。
澱の後ろ足を鮮やかに切断した。
しかし、澱は煤を傷口から撒き散らしながら、太い尻尾を壁に叩きつけ、垂直に駆け上がる。そして、瞬く間に闇へと消えていった。
「おい、どこが『一回り大きくした』だよ! バケモノじゃねえか!」
「サイズ的に千鳥向きですね。貴方は今回は足止めまでにしてください。止めは僕が刺します」
淡々と語るハクに対して、リョウガの猛禽類に似た眼が、冷ややかに細くなる。
「おい……人の話、聞いてるか?」
「えぇ。ですが想定外の大きさなど、これまでいくらでもあったでしょう。いちいち驚かないで下さい。それより、足止めまでですよ。わかりましたか?」
「あーもー、わかったよ!」
前髪をクシャリと手で乱し、リョウガは心底嫌そうに顔をしかめた。
刹那、闇の奥からグルルと低く響く唸り声が漏れ聞こえてくる。
「調子こいて唸ってやがる……居場所を教えてるようなもんだ。馬鹿な野郎だ」
今度はカチカチッと歯を鳴らす音。
リョウガは口を一文字に結び、意識を研ぎ澄ませた。その出所、剥き出しのダクトの方へ息を殺しすり足で進む。
しばらくすると鳴き声がぴたりと止んだ。敵も身を潜めることに徹したらしい。
ハクは静かに千鳥の術式を組み始め、指先に淡い金色の光を溜める。
暗い廊下に差し込む、一筋の陽の光。天井の一部が崩落し、そこから漏れているのだ。
スポットライトの真ん中からダクトの奥を覗き込むリョウガ。
暗闇の中で、特有の白い鼻筋の線だけが浮かび上がる。狭い空間に反響する、短い威嚇音。
ゆっくりと、右頬の横まで深く柄を引き絞る。水平に寝かせた白露の刀身。陽の光に燦然と照らされた鋭い切っ先は、敵の顔面を正確に射抜いていた。
ハクはリョウガの視界の端に寄り、術式を右手に固定したまま、左手だけで無言の指示を送った。
『上からの光を、白露を使って、敵に当てろ』
握った拳を僅かに回転させるジェスチャー。阿吽の呼吸でリョウガが頷く。
白露の刀身を鏡のように使い、手首をわずかに返す。
銀面が差し込む陽光を捉える。白光が爆ぜ、ピンポイントでハクビシンの顔面を直撃。
眩しさにのけぞる獣。その隙を、リョウガが逃すはずもない。
「はあああぁッ!」
体ごとダクトに突っ込むように床を蹴り上げる。
炸裂する銀色の閃光。
鋭い突きが鉄筒ごと敵の胴体を抉り、肉体の奥にある漆黒の〈核〉を露わにした。
千鳥を展開するハク。
光のカーテンが、檻となってリョウガごと包み込もうとする。
「リョウガ、引いて下さい!」
だが、彼に「引く」という選択肢は存在しない。一意専心。
目の前に敵の心臓がある。
ならば、貫く。それだけだ。
「ここまできて、引けるかよおぉッ!」
響く咆哮。千鳥が降りるより速く、白露の切っ先が核を粉砕した。ドクンと銀色に鼓動する刀身。
心臓を失った澱は、煤となって大気に溶けていく。
ハクは行き場を失った術式を霧消させ、立ち尽くすリョウガに駆け寄り、背後から肩を引いた。
「なぜ止めを刺したんですか。僕がやると言ったはずです」
白露を鞘に収めようとしたリョウガの手が、ピタリと止まる。そして、釈然としない顔でハクを睨み返した。
「……あ? ちゃんと倒したんだから、文句ねえだろ」
「そうではありません。下がれと言ったはずです」
「なんで下がるんだよ。核壊すのが、俺の仕事だろ」
ハクの表情が強張る。
「リョウガ、研究室で話したこと……忘れたんですか?」
「ラボ? いつの話だ?」
ゆるりと納刀し、隊服の袖で汗を拭う。頬は火照り、全身から蒸気が立ちのぼっているようだった。
戦いの余韻に浸る彼の姿とは裏腹に、ハクは不安に襲われ、小さく首を横に振った。
(こんな欠落の仕方……ありえない)
「そんなことより、見たか? 俺の太刀さばき。ミナトに『惚れ惚れした』って言われたんだぞ」
これ見よがしにふんぞり返り、リョウガは勝ち誇ったように鼻を鳴らす。
彼の無邪気な顔を見つめながら、ハクはふと、先ほどの太刀筋を思い返していた。
ミナトの言う通り、リョウガの技量は確実に高まっている。
それが記憶の消失を加速させているのか。それとも、記憶と引き換えに腕が上がっているのか。
しかし、いくらデータを分析しても、そのタイミングや規模にまるで規則性がない。
『白露は気まぐれに、リョウガの記憶を喰らっている』
技術者としてそれを認めることは、甚だ屈辱的だった。だが、それが今の率直な印象だ。
逃れようのない無力感。
足元に目を落とすと、天井から差し込む陽光がぼんやりと爪先を照らしている。
光の筒の中で、小さな埃がゆっくりと揺らめく。まるで深海に降る雪のようだ。
冷たい海底に沈んだ自分を、誰かが助けに来てくれたのだろうか。
そんな錯覚すら覚えるほど、ハクの心は低く、暗く潜っていた。
リョウガよりやや遅れて店の外へ出ると、「英雄」は既に歓喜の渦に呑み込まれていた。
警吏も商店街の住人も、誰もが興奮した様子で彼を取り囲み、口々に声を掛けている。
一人の女性がリョウガの胸に小ぶりの紙袋を押し付けた。
「うちの店のどら焼き。食べて頂戴」
照れくさそうに頭を掻きながら受け取る、その姿。遠目から眺めていたハクは、思わず口元を緩めた。
「月詠だ、本物だぞ!」
「すげー!」
子供たちの憧れの眼差しを一身に受ける「月詠の剣士」は、照れ隠しに大声でハクを呼ぶ。
「おいハク! どら焼きもらったぞ! 一緒に食おうぜ!」
屈託のない笑顔を見せるリョウガ。待ちきれないとばかりに袋から取り出し、豪快に頬張る。
この男がかつて「狂犬」と呼ばれていたことなど、彼らは想像もつかないだろう。堂々とした佇まいは、まさに「月詠」のそれだ。
ハクの胸に不安と焦燥感が、まとわりつく。
このままランダムに記憶を失くし続けていけば、いずれ彼は自分が月詠であることさえも忘れてしまうのではないか。
切ないような。
愛おしいような。
「僕の分も残しておいてくださいよ」
どら焼きを頬張るリョウガの元へ駆け寄る。
浮かべたのは、ぎこちない微笑み。
今のハクにできるのは、ただ彼の隣で笑ってみせることだけだった。




