第8話 黒の覚悟、白の代償
砕けて消える狂刃を
我らは誇りと呼ぶのだろうか
黒に染まる男の背に
白露の影が差し落ちる
浄界庁執行部、本部庁舎。
その堅牢な石造りの建物を背景に広がる「第一演習場」は、春の柔らかな日差しに包まれていた。
青々とした芝生の上では、精鋭部隊〈月詠〉の面々が、訓練の合間の短い休息を楽しんでいる。
張り詰めた空気も今は緩み、若々しい笑い声が風に乗って運ばれていた。
和やかな光景を横切るように、執行部と技術開発部を繋ぐ渡り廊下を、一人の男が歩いていた。
大柄な体を揺らし、一歩進むたびに古い渡り廊下の床板が、キシキシと悲鳴を上げる。
「あー、クソっ! 暑いし動きにくいし、何だよこれ!」
リョウガは首元の詰まった襟を指で広げ、苛立たしげに肩を回した。
これまでのお仕着せの作業着ではない。
彼が身に纏っているのは、漆黒の生地に金の刺繍が施された、月詠の正規隊服だ。
その逞しい体躯を包む黒の軍装。荒々しい彼の立ち居振る舞いに、どこか気高さを添えている。
「馬子にも衣装、とはよく言ったものだな」
芝生に腰を下ろしていたナナセが、呆れたような、それでいて感心したような声と共に立ち上がった。
「なんだ、ナナセか」
「肩幅があるからな。意外と様になっている。見違えたぞ」
ふと、リョウガの首元に気が付き、目を細める。
何の変哲もない銀色の金属だった霊鎖は、艶消し処理が施された漆黒のチタン製のものへと変わっている。
それは隊服の意匠と見事に調和し、初めから「月詠リョウガ」のために用意された装身具にも見えた。
「これ、戦うときは脱いでいいか?」
本末転倒な発言に、ひっくり返りそうになるナナセ。
「駄目に決まっているだろ。隊服は我々が月詠であるという矜持だ。そのへんの野良犬みたいな格好で暴れていたら、民が不安がるだろう」
(……とはいえ、今まではまさに「野良犬」ならぬ「狂犬」として暴れていたわけだが……)
その「狂犬」と「妖刀」に頼らなければ帝都を守れない自分たちの情けなさに、ナナセは内心で冷ややかな自嘲を漏らした。
「この黒衣は戦闘に特化されている。普通の服とは作りが全く違うのだ。ただのお飾りではない。心して袖を通すことだ」
「お前ら、よくこんなの着たまま戦えるな」
「慣れだ。今では逆に、これを着ていないと落ち着かないぐらいだ」
ナナセは汗を拭ったタオルを首に引っ掛け、肩をグルグルと回す。
「それ、病気だろ」
リョウガが鼻を鳴らす。
すると、彼らのやり取りに興味を持ったのか、一人の小柄な隊員が小走りで近寄ってきた。楽しげに口角を跳ね上げて。
「リョウガさん、お久しぶりっス! 蛇退治以来かな?」
声をかけてきたのは、十五、六歳ほどの少年だ。
ハクよりもまだ幼さの残る顔立ち。中央を逆立てたベリーショートの髪型が今時の若者らしい。
「あー……『ミナト』、だったな」
「光栄っス! それよりリョウガさん、隊長に殺されそうになったって、本当ですか?」
ナナセが怪訝そうに眉をひそめ、顔を突き出してくる。初耳だと言わんばかりの表情。
「シオン隊長に? リョウガ、どういうことだ」
「この間の工場の件だよ。ハクが怪我しただろ? あれでシオンがブチ切れてよ」
ハクがハリネズミ型の澱から受けた、肩の傷。
医療センターで手当てを受け、今は順調に回復しているが、それを聞いたシオンの怒りは凄まじかったらしい。
真夜中にリョウガの監房まで怒鳴り込みに押しかけたが、看守に「規則だから」と、にべもなく追い返されたのだという。
「あの時ほど、檻のなかで良かったと思ったことはねえな」
「ハハハ! めっちゃ笑える!」
ケタケタとあどけなく笑うミナトは、無造作にズボンのポケットに手を突っ込む。取り出したのはセロハン紙に包まれた飴玉、二つ。
片手で器用に包み紙を剥がし、茶色に透けた砂糖の塊を口に放り込む。もう一つを握った拳をリョウガの前に差し出した。
チープで人工的な甘い香りにそそられて、口の中に生唾が湧く。リョウガは無意識に掌を広げようとしたが、ナナセにギロリと睨まれて慌てて引っ込める。
ナナセは深いため息を吐いて、頭を左右に小さく振った。
(隊長は、こと弟のことになると普通じゃなくなるからな……あれさえなければ完璧なのだが)
「で、その後どうなんだ。久遠寺の怪我は」
菓子を「お預け」されてリョウガは不機嫌だ。口を尖らせつつ渋々答える。
「もう平気なんじゃねえか? 抜糸も済んでるし」
ミナトが飴玉を口の中でゴリゴリと鳴らしながら補足。
「叢雲を振り回すのはまだ無理ですけど、軽めの任務ならもう行けるっぽいですよ」
休憩中とはいえ甘ったるい匂いを振りまくミナトに、ナナセは冷ややかな視線を送った。
「さっきの隊長の件といい、久遠寺の怪我といい、お前はなんでそんなことまで知っているんだ」
「お言葉ですがナナセさん、俺を誰だと思ってるんスか。月詠イチの情報屋、望月ミナトですよ」
得意満面に鼻の下をクイッと横に擦るミナト。
(こいつ……任務以外でも諜報活動をしていると聞いたことがあるが……本当のようだな)
ミナトは考え込むナナセの前に体を滑りこませ、リョウガの視線を独占するように壁を作った。
「そう言えば、その久遠寺先輩は一緒じゃないんですか?」
「技術開発部で仕事。俺も呼ばれて今から行く――あ、おっと」
首の霊鎖に指先をあてる。漆黒のチョーカーが、僅かに赤く明滅している。
「呼び出し、ですか?」
「『早く来い』ってさ」
リョウガが苦笑い。
その様子を見て、ナナセは密かに舌を巻いた。
(久遠寺のやつ……霊鎖を改良しただけでなく自身の術の精度まで上げて、リョウガを完全に御しているというわけか)
霊鎖を操るのは並大抵のことではないと、ナナセは痛いほど身に沁みている。それを更にひとつ上のレベルに上げてしまうハクに、末恐ろしさを感じた。
久遠寺家は、単に千鳥を使えるから特別なのではない。恵まれた血筋に奢ることなく、日々研鑽を積んでいる。だからこそ、この一族は崇められているのだろう。
「ミナト、そろそろ戻るぞ。リョウガ、お前もさっさと行け」
「分かってるって」
退屈そうに頭の後ろで手を組んでリョウガは背を向けた――が、ふと踵を返す。
「なあ、前から気になってたんだけどよ……なんでお前ら、あいつのことだけ『久遠寺』って呼ぶんだ? コハクとか、ハクじゃなくて」
ナナセとミナトがどちらからともなく顔を見合わせる。
一瞬の沈黙の後、口を開いたのはミナトのほうだ。
「うーん……なんつーか、久遠寺先輩ってちょっと異質じゃないっスか。任務でも技術開発部の格好のままだし」
ナナセの方をチラリと見るリョウガ。だが、ナナセは複雑な顔をしたまま、口を閉じている。
「リョウガさんは知らないだろうけど、久遠寺家っつったら、この界隈じゃ超エリートなんですよ。分家も相当あるし。神っス」
「神、ねぇ……まぁ、ボンボンだとは思ってたけどよ」
世俗的な言葉で軽口を叩くミナトと、それを真に受けるリョウガ。ナナセは掌で目を覆い、天を仰いだ。
(下らんことをペラペラと……仕方ない……)
「本人が最初に言ったのだ。『自分をハクと呼んでほしい』
と。だが久遠寺家の御曹司を、愛称で呼ぶわけにもいかないだろう。結果として、今の呼び方に落ち着いているのだ」
首をひねったリョウガは、神妙な顔つきで目を閉じる。
「そうか……そういえば俺も、そんなこと言われたような――」
「そんなことを気にする暇があったら、少しでも久遠寺の負担を減らせるよう精進しろ。今度怪我させたら、本当に隊長に殺されるぞ」
リョウガは背中をのけぞらせて豪快に笑った。
「それは俺だって勘弁だ」
ヒラヒラと手を振って歩き出す。その背中に声をかけるミナト。
「リョウガさん、この前の剣さばき、めっちゃカッコよかったっスよ!」
「当然だろ。白露を使いこなせるのは、俺だけだからな」
ミナトに持ち上げられ、フンと鼻を鳴らして胸を張る。
そんな彼の得意げな態度をどこか楽しむような、ミナトの意地悪な笑顔。
「でも、リョウガさんがあそこまで白露を使いこなせるとは思ってなかったんで。正直ビックリです」
一気に梯子を外されたリョウガは、露骨に口をへの字に曲げた。
「なんだよそれ」
ミナトは飴玉をガリガリと音を立てて噛み、彼を試すように斜め上の目遣いで煽ってくる。
「今までリョウガさんの他にも、何人かいたんですよ。白露の使い手は」
「そうなのか!?」
目を剥くリョウガ。待ってましたと言わんばかりに、ミナトの瞼が悪戯っぽく細められた。
ナナセがたまらず割って入る。
「確かにそうだ。だが、どいつも記憶が本当に消えるとわかった途端に、逃げ出した。受け入れて使いこなしたのは、お前だけだ」
「受け入れるも何も……俺に拒否権なんかなかったし」
吐き捨てるように言う。
自分も他の使い手同様、逃げ出すような奴だと思われていたのだろうか。
演習場から聞こえる若々しい笑い声が、一瞬遠のいたように感じた。
「記憶を差し出すのだ。皆、相当な条件を久遠寺に飲ませていたはずだ。それでも全員投げ出した。記憶が消える恐怖に、耐えられなかったのだろう」
その言葉を聞きながら、リョウガは無意識に自身の肩を抱いた。
消えてもいいと、投げ出したはずの過去。
しかし、実際に欠落していく感覚は想像以上に奇妙で、おぞましいものだった。
それでも、自分が白露を握り続ける理由――それをまだ言葉にできずにいる。
「この間同行してわかったが、お前は十六夜白露を完璧に使いこなしている。ミナトは決して、世辞を言ってるわけではない」
「あれ? ナナセさん、どうしたんです? 珍しく俺の味方なんかして――」
「ただ」
おどけるミナトの言葉を遮る。
「少し、恐ろしい気もした」
真剣なナナセの眼差しに口を閉ざす二人。
「記憶が消えるとわかっても、躊躇せず白露を振るっている。お前は既に、白露に飲み込まれているのではないか?」
ミナトが小さなため息をつく。
「何を言い出すかと思ったら……そういうのは久遠寺先輩と話してくださいよ。俺はリョウガさんと仲良く話をしたいんです。邪魔しないでくれます?」
ミナトがポケットに手を突っ込んで足踏みするのを見て、ナナセは首を振った。
「そうだな。私としたことが、世迷い言を言ってしまった……済まない」
自分を戒めるナナセだったが、心中は穏やかではない。
実際リョウガの記憶は確実に消えていると聞く。
そんな妖刀を平気で振り回している。白露の霊力に取り憑かれてると考えても不思議ではない。
ただ腑に落ちないのは、そういった状況を久遠寺が看過するはずがない、ということだ。
それも承知の上なのか、もしくは――。
ナナセが思考に耽り、ミナトが面白くなさそうにそっぽを向く。二人の間に、僅かにピリついた沈黙が流れた。
そんな不穏な空気を鼻で笑い飛ばすように、リョウガは二人の顔を交互に覗き込む。
「二人とも俺のことがそんなに気になるのか。モテる男は辛えな。でも今はハクんとこ行かねえと」
リョウガは芝居がかった仕草で肩をすくめると、今度は本当に渡り廊下の向こうへと走り去っていった。
「雑談は終わりだ。ミナト、戻るぞ」
少年の尻を軽く叩き、仲間たちの元へ促す。その場に置き去りにされたのは、駄菓子の甘い匂い。
一人残ったナナセは、遠ざかっていくリョウガの背中をじっと見つめる。
妖刀、十六夜白露――。
決して大袈裟ではない。
記憶を喰らう時点で十分だ。
それに加えてリョウガのあの強さ――。
首に掛けていたタオルを片手で引き下げ、乱暴に額を拭う。
そして大きく息を吐きだすと、自らもまたミナトの後を追って演習場へ戻っていくのだった。




