第7話 忘却への祈り
救った命に
かつて奪った貌が重なる
忘却は慈悲か それとも罰か
帝都外縁部に位置する「東部第一重工業区」。
ここは、帝都を支える「鉄の骨格」。
夜も眠ることを許されず、巨大な煙突の先の警告灯が、息も絶え絶え瞬いている。
その中に、一区画だけ不自然に塗りつぶされた闇が。人影はない。待ちぼうけを食った構内照明だけが、帰ることのない主を待つように青白い光を落とし続けていた。
「通報によれば、このDブロック付近で目撃されたようですが……あまりに広すぎますね」
僅かな光を手元の地図に当て、ハクは眉をひそめる。前方に延々と続く工場群は、彼の足を止めさせるのに十分だ。
隣を歩くのは、「狂犬」リョウガ。
鼻腔をつく錆と埃の匂いに混じる、独特の澱の気配を嗅ぎ分けている。
「いや、あっちだ」
指し示したのは、くすんだ赤茶色のプレス工場。そそり立つ雑草に邪魔されながら、錆びた鉄の骸骨に足を踏み入れる。割れた排気窓から差し込む月光が、堆積した塵を白く照らしていた。
静寂の中、足元の水溜りが微かに揺れる。波紋を描いては消える、油の浮いた虹色の水面。
暫くすると、通路の奥からギシギシと金属が悲鳴を上げる声が。
「来るぞ!」
リョウガの警告と同時に、巨大な影が鉄柱の間から姿を表した。
全長三メートルにも及ぶ、全身を黒光りする無数のトゲに覆われた異形。
「ハリ——」
「——ネズミ!?」
重なる声。
リョウガの直感とハクの知識が、即座にその形状を定義する。
「ハク、あれは――!」
「ええ、あの針には注意してください! ただの突起物ではありません!」
十六夜白露を抜き放ち、地面を蹴って間合いを詰める。
だが、敵が身を震わせた瞬間、全身のトゲが弾丸の速度で射出。
「チッ!」
身を翻し、最小限の動きで尖弾の雨を回避するリョウガ。
ハクもまた叢雲を抜刀し、飛来する黒い礫を鮮やかに叩き落としていく。
しかし、狭い工場内。跳ね返った凶器の一本が不規則な軌道を描き、ハクを死角から襲った。砕け散った針の断片が、右肩に深々と突き刺さる。
「——ッ!」
殴りつけられたような衝撃。ハクの膝を折らせるには十分だった。
「ハク!!」
思わず振り返った隙を逃さず、追撃のトゲはリョウガの顔面を掠める。頬に叩きつけられる、赤い一文字。
「僕のことはいいから、前を見て!!」
咄嗟に左手で右肩を覆い隠す。指の間から溢れ出る鮮血。内側から抉られる激痛に、奥歯を食いしばるしか術がない。
後ろ髪を引かれながらも、正面に向き直るリョウガ。
白露を左右の手でお手玉の要領で持ち替え、芝居じみた身振りで煽る。
「こっちだよ! このウスノロ!」
敵の目線をハクから遠ざけようと、大回りに走り出す。
重量のある体を回転させる異形。リョウガは背後に回ろうとするが、図体の割に動きが俊敏だ。
「昨日、分析結果を見せたでしょう! 〈核〉は『心臓』の場所です!」
ハクが肩で息をしながらも指示を出す。
「忘れてねぇよ! 忘れてねぇけど――」
彼の意表を突くステップにも、全く動じないハリネズミ。頑として弱点である腹を見せないその姿、まさに生ける要塞。
「喉元から腹にかけて、針が途切れている箇所があります! 前足が上がった瞬間に狙ってください!」
「了解!」
精神を限界まで研ぎ澄ます。
澱が大きく身を乗り出し、押し潰そうと前足を踏み出した、刹那。
――閃光。
銀色の白露が、剥き出しになった喉元から一気に深部まで突き立てられる。
肉を断つ感触の奥で捉えたのは、硬質な〈核〉。すぐさま周囲の肉が再生し、珠を飲み込もうと蠢くが、それに勝るのはリョウガの刺突。
「うおおおーッ!」
渾身の一刀が、赤黒いガラス玉を粉砕。異形は声なき悲鳴を上げ、黒い烟となって霧散していった。
静けさが戻った工場内で、リョウガの手の中にある白露が、鈍い銀色の光をひっそりと放つ。
まるで、今しがた奪った何かを咀嚼しているかのように――。
「ハク、大丈夫か!」
血相を変えて駆け寄ってくるリョウガ。ハクは肩を押さえ、青ざめた顔で力なく笑った。
「全く……戦闘中によそ見をする人が、どこにいますか」
「その傷……」
「大丈夫です。このくらい、自分で止血を――」
背嚢から救急キットを取り出そうとするが、技術開発部の純白の制服は、みるみるうちに赤く染まっていく。傷口から溢れる血の熱さ。体が火照る。
「バカ、動くなって!」
リョウガは制したが、彼自身、次に何をすべきか分かっていない様子だ。
狼狽に泳ぐ双眸が、どこか少しだけ、こそばゆい。
「くそっ、どうすれば……そうだ、人を……今すぐに人を呼んでくる。待ってろ、誰か探してくるから!」
言葉すらおぼつかない。動揺を隠そうともせず、出口を探す。そんな彼に、ハクは弱々しく声を掛ける。
「正門の守衛室に、ここの責任者がいます……その人を――」
「わかった!」
最後まで聞かずに飛び出していく。その背中に、力を振り絞って言葉を浴びせる。
「正門は、ここを出て、南に真っ直ぐですよ!」
「わかった!!」
針が飛んだ蓄音機の如く返事を繰り返しながら、弾かれたように走り出す。
一人取り残されたハクは、壁によりかかり天井を見上げた。
目を静かに瞑り、頭の中で開く手帳とペン。
「『特記事項。正門で会ったばかりの責任者を、忘れている』」
(欠落の深度が、明らかに変わっている……)
肩の傷が、熱い。
それ以上に胸の奥がひどく疼く。
(怪我のせいで、弱気になっているんだ)
この程度の痛みで、目頭が熱くなるなんて。
心臓を絞られるほどの痛みは、きっと、刺さった「針」のせい。
そうに、決まっている。
リョウガが連れてきたのは、作業着に身を包んだ一人の青年だった。
この工場の責任者であり、通報主の「レン」である。
「ひどい傷だ、すぐに止血を!」
持参した救急箱を開くより前に、手に持った大ぶりの懐中電灯をリョウガに預けた。
「手元を、照らしていてもらえますか」
そう告げると、やや緊張した手つきでハクの傷口を洗い流し、消毒する。
「一応、工場長なので……救命講習は、毎年欠かさず受けているんですよ」
照れ隠しなのか、怪我人をリラックスさせるためなのか。白い歯を見せるレン。
彼の後ろでは不安げなリョウガが、照明を当て続けている。
「ただの針なら抜きたいところですが……先端もめくれてますし、材質もわかりません。今は下手に抜かずに固定したほうが良いでしょう」
「ありがとうございます……助かります」
ハクが蒼白な顔で礼を言う傍らで、固唾を呑んで見守るリョウガ。神剣を振るう逞しい腕は、今は灯りを支えるためだけに、静かに存在している。
処置を終え一息ついたレンが、改まった様子で頭を下げた。
「申し遅れました。この区画の管理をしております、『ヴェリタス・マテリアル』の鮎貝レンと申します。この度は、ありがとうございました」
そう言うと、胸のポケットから薄い金属のケースを取り出す。慣れた手つきで一枚のカードを弾き出し、ハクの左手に。
名刺を見る余裕などないのだが、一般人に醜態を晒すわけにはいかない。月詠の沽券に関わる。
『株式会社ヴェリタス・マテリアル 取締役総務部長 兼 東部臨海製鋼所長(代行)鮎貝 レン』
血判を押されたその紙の肩書きを指先でなぞり、わずかに目を細めた。
(取締役? この年齢で?)
「鮎貝、さん」
聞き覚えがあるような。
ふと傍らの重機に目を向ける。
錆びついた真鍮のプレートに、古い刻印。
『帝国特殊鋼』
「もしやここは……帝鋼、の工場跡ですか」
すると、レンは自嘲気味な笑みを浮かべて後頭部を掻いた。
「ええ、元々は。例の件の後に、社名を変えて再出発したのが今のうちです。ご覧の通り、操業はまだまだ先になりそうですが」
ハクの脳内で、数年前の新聞の一面が克明に再現される。
「鉄の巨人」と謳われた帝国特殊鋼。内側から腐り落ち、贈賄と癒着の泥を垂れ流した、その組織的犯罪の記事。
(内部告発者が殺された、あの事件か……)
「あの時亡くなったのが、私の両親です」
鉄冷えのする工場。ガランとした空間に虚しく反響する、レンの言葉。
すると、オレンジ色の灯りが、カクカクと揺れだした。
リョウガが握りしめる懐中電灯が、彼の震えを増幅させ激しく揺れる。
光の輪が毒を当てられたように動くのに呼応して、ハクの脳裏は灰色の新聞紙から、報告書の藁半紙へと差し替えられた。
情報管理局から上がってきた、十六夜白露の「適合候補者リスト」。
「狂犬リョウガ」の存在を知ったのは、そのリストに目を通した時だ。
年齢、素性、身体的特徴、剣技の特性、そして彼が殺めた人物の一覧。二頁に渡る殺人リストに、背筋が寒くなったのを覚えている。
(『鮎貝』――犠牲者の列に連なっていた名前だ……珍しい名前だなと思っていたけど……)
「ツムギ!」
思考を遮る、レンの声。彼の視線は、巨大なプレスの影へと向けられた。
呼びかけに応じて、暗がりから一人の少女が音もなく姿を現す。
十三、四歳ほどだろうか。
透き通るほど色が白く、折れてしまいそうなほど痩せこけている。
「すみません……妹の、ツムギです」
彼女は不安げに眉を八の字に寄せ、無言のまま兄の作業着の裾をぎゅっと掴んだ。
「兄ちゃんが急に飛び出して行ったから心配したのか。ごめんな。でも大丈夫、お化けはこの人たちが退治してくれたから」
兄の言葉に、妹は小さく微笑み、一輪の花を綻ばせる。しかし、不自然なほど口を開こうとしない。
「申し訳ありません。家で一人にしておけなくて、連れて来てしまったんです。守衛室で待たせていたんですが、私が慌てて出てきたので、不安になったんでしょう」
彼女の頭を優しく撫でるレン。そして、申し訳なさそうに二人に向き直った。
「……すみません。妹は、声が出なくて」
(声が、出ない……)
「喋れない」のではない。
「声が出ない」――その言葉の選択が、ハクの胸の奥をざわつかせる。
「あの事件のショックから、喋れなくなってしまったんです。両親が亡くなってから、私たちの日常は、一変しました」
沈痛な面持ちで聞き入るハクの傍らで、リョウガはただ唇を噛み締めて立ち尽くす。
照明を握る拳は、白くなるほど強く強く握りしめられていた。ミシリ、とプラスチックの軋む音が響く。
そんな彼らのもとに、静かに歩み寄ってくるツムギ。
ハクの目を見ながら自分の肩を撫で、リョウガの頬の傷を見て自分の頬を指でなぞった。
震える唇が、ゆっくりと動く。
(あ、り、が、と、う)
音は、どこにもなかった。
けれど、丁寧に一文字ずつ形作られた唇の動きは、声よりも雄弁で、暖かい。
最後の一文字を終えると、彼女の口元に、穏やかな笑みが舞い降りた。
人斬りの男は、その純粋な瞳を直視できるわけもない。
レンの胸に懐中電灯を押し付け、彼女の眼差しから逃げるように闇へ踏み出す。
「……帰るぞ、ハク」
工場の敷地から外に出ると、無情なほど澄んだ月光が降り注いでいた。
遠くのコンビナートから響く低い唸り。それは機械の稼働音というより、地底から湧き上がる心音のようだ。
この世には自分たち二人しか、いないのではないか。
そんな錯覚に陥るほど、逃げ場のない重苦しい空気が漂っていた。
隣を歩くリョウガの横顔を盗み見たが、どんな言葉をかけるべきか見当もつかない。慰めは欺瞞になり、追求は残酷すぎる。
三角巾で吊られた右腕を、左手で抱え直す。一歩歩くたびに、ずっしりとした腕の重みが首に食い込む。体中にこびりついた鉄の匂いが、汗と混じって焦燥感を煽った。
沈黙を破ったのは、リョウガのほうだった。
「……あの妹、姉ちゃんと同じくらいだった」
「お姉さん……?」
思わず歩みを止めて問い直すが、狂犬は体を引きずるように進んでいく。足にも枷を嵌められたのかと、疑うほどに。
「あいつらに攫われた時の、姉ちゃんと」
彼の記憶の中で、姉は十四歳のまま止まっているのだ。地獄の業火の中、どこかへ引き離された、あの時の姿のまま。
「俺はあいつらに、人生をめちゃくちゃにされたと思ってた……けど」
背中を照らす、水銀灯の青白い光。寒々しい灰色は、彼の体温を示しているのだろうか。
「俺も……あの二人を、めちゃくちゃにしたんだな」
リョウガの左腰の白露が、小刻みに跳ねて見える。柄を握り、親指で鍔を押し上げている。
話しかけられているのは、自分ではなく、白露ではないのか。
「『記憶を喰らう剣』……鬱陶しい過去が消えるなら、それでいいって、勝手に思ってた」
溜息混じりの乾いた笑いが、リョウガの唇から漏れる。
「俺がこのまま、あいつらのことも、何もかも全部忘れて、剣を振り回す人形になっても……」
足を止め、振り返る。
真っ直ぐな瞳。
囚人でも殺し屋でもない。
ただの一人の男。
「それでもお前は、俺のことを使い続けてくれるか?」
胸が、ズキンと痛む。
刺さった針の痛みなのか。
あるいは、射抜くような彼の視線のせいなのか。
自分が作り上げた「神剣」が、使い手の運命を翻弄し、より深い地獄へと突き落としている。
夜の帳が降りる中、答えの出ない自問だけが、空虚に沈黙を埋めていく。
ハクにできるのはただ、痛む右腕を抱きしめることだけだった。




