第6話 濁流に沈む産声
産声は濁流に流され 魂を削る
誰にも届かぬ 記憶の底で
帝都から遠く離れた、山岳地帯。
深い緑に覆われた斜面を、浄界庁の精鋭部隊〈月詠〉の一団が進んでいく。
尾根に出ると視界が開け、腰まで埋まるほどの丈の長い藪が広がる。草の香りに混ざって鼻を突くのはアンモニアの臭い。
サラサラという不気味な衣擦れの音が、静寂を切り裂く。すると、ずっしりと重そうなマムシの形をした澱が無数に這い出してきた。
地面を埋め尽くすほどの、尋常ならざる数。
「総員、抜刀!!」
月詠の長シオンの苛烈な号砲が、山間にこだまする。
鯉口を切る面々。鋭い金属音が大気を震わせた。
張り詰めていた空気が爆ぜ、黒い飛沫が花火のように飛び散る。その場は瞬く間に狂乱の渦と化した。
乱戦の只中、荒れ狂うように太刀を振るう男――。
リョウガだ。
彼の目前に鎮座するのは、マムシとは比べ物にならないほどの大蛇。
不気味な菱形の頭部、地響きと共に這いずる胴体。圧倒的な質量が迫ってくる。
リョウガの肩は規則的に呼吸をし、敵との間合いを探っていた。
肩の動きを止めるや否や、電光石火の一撃を放つ。
俊敏にかわされたものの、すれ違いざまに反転して追撃。尾の先端を斬り落とし、一撃離脱。
ドスンという激震と共に、地面に転がる尾端。しかし、瞬く間に切り口から再生が始まっていく。それと同時に、大量のマムシがリョウガの進路を塞いだ。
白露を斜め下へと振り下ろし、鋭い風切り音を鳴らすリョウガ。その唇が、不敵に吊り上がる。
「ボスを守ろうって言うのか? 健気だねえ」
後方では、叢雲を構えたハクが、戦況を見守っていた。
「兄さん、リョウガのサポートを!」
弟の声に呼応して、シオンは隊員たちに指示を飛ばす。
「壱番隊! リョウガの援護に回れ!」
ナナセを筆頭とした塊がなだれ込み、狂犬の進路を塞ぐマムシたちが追いやられる。
千載一遇。ハクの檄が飛ぶ。
「今です!」
「わかってるよ!」
間合いを一気に詰めるリョウガ。ぐっと深く重心を沈め、爆発的な推進力を愛刀・十六夜白露へ伝える。
敵の胴体に銀閃が走り、ざっくりと露出した肉の奥からは、鈍く光る〈核〉の姿。
「見つけた!!」
咆哮と共に、背筋を大きくしならせる。左足を深く踏み込み、投槍のように白露を放つ。その切っ先は寸分違わず、珠を粉砕した。
ガラス玉が砕ける音と共に、刀身は呼吸するように銀色に瞬いた。
煤となって消え散っていく大蛇。
手下のマムシたちは主を失ったことで統率を失い、バラバラと藪の奥へと逃げ始めるのだった。
「ふぅ、あちぃ」
荒い息を吐きながら、額の汗を手の甲で拭うリョウガ。
全身から湯気が立ち上るほどの熱気だ。
叢雲を納めながら、ハクが駆け寄ってくる。
「リョウガ、確認を――」
最後まで聞かず、リョウガは自分の目の前に無骨な掌を広げた。
親指を内側に倒し、「俺はリョウガ」と大きな声で独り言を言う。
「お前はハク、こいつは十六夜白露」
人差し指、中指と折ったところで動きがピタリと止まる。残る薬指を何度も曲げ伸ばしすると――。
「朝飯は……覚えてねえ!」
愛用の手帳に流麗にペンを走らせるハク。
狂犬は呑気に毒づいた。
「便利だよなぁ。クソマズい監獄メシの味を、思い出さなくて済むんだから」
飼い主の口元に見える、わずかな綻び。激闘を切り抜けた安堵だろうか。能面と言われる研究者も、自然と眉が下がる。
「全く貴方は……記憶が消えてるんですから、もう少し深刻になって下さい」
小さく談笑をする二人の耳に届いてくるのは、威風堂々としたシオンの声。
「逃げていく個体は深追いするな! 無力化した澱を確実に捕縛しろ!」
三人一組となった月詠が、マムシたちを次々と〈銀鎖円環〉で拘束していく。
「まだ雑魚が結構残ってるな。やるか?」
リョウガが薮に向かって一目散に逃げていく蛇を顎で指すが、ハクは首を振った。
「いえ、今日はもうやめておきましょう。貴方もかなり消耗したでしょうし」
「まだ全然やれるぞ」
「駄目です。だいたい、白露をあんな小物相手に振るべきではありません」
会話を弾ませる二人のもとに、シオンが近づいてきた。
「お喋りは終わったか」
「はい、隊長」
仰々しい呼びかたでハクが返すと、苦笑混じりに眼帯を直す。
「残りは私たちが始末しておく。ハク、お前はこのあと行きたいところがあるのだろう?」
「はい。わがままを言ってすみません」
リョウガは二人のやり取りに、眉をひそめた。
「なんだ? どこか行くのか?」
「ええ。この裏山の古い隧道を抜けた先に、小さな集落の跡があるのですが――」
ハクは小さく折り畳まれた地図を取り出し、広げてみせる。しかしリョウガは興味がなさそうに体を反らせ、視線を明後日の方向へと投げた。
「この地域にはかつて、帝への献上刀を打った工房が存在したという記録が残っているんです」
まるで未知の冒険を前にした少年のように、きらきらと輝くハクの瞳。彼が手にしているのは、ただの地形図ではない。宝のありかを示した古文書なのだ。
「ここが、その工房の遺構ではないかと。当時の資料が残っていれば、参考になるかと思いまして」
「へー」
生返事のリョウガ。しかし、ハクの口から出た次の言葉が、彼の瞳孔を開かせた。
「ここ、『神薙聚落』って書いてあるところです」
リョウガの身体が石像のように硬直する。
「……今、なんて言った」
低く、かすれるような。ハクはその声色の変わりようを、すぐに察知した。
「どうかしましたか?」
「なんて、言ったって……訊いてんだよ」
リョウガの視線が定まらない。
火照るように紅潮していた頬は血の気が引き、唇は土気色に染まっている。
異変に気づき、シオンが身構えた。
ハクが慎重に口を開く。
「僕は、『神薙聚落』と――」
刹那、リョウガは崩れるように地面に片膝をついた。
「「リョウガ!」」
ハクとシオンが同時に声を上げ、彼を囲む。
「か、神薙……ここは、どこだ? 帝都じゃないのか」
リョウガの目は大きく開かれたまま、ピクリとも動かない。目の前のハクではなく、虚空を透かして見ているようだ。
「帝都ではありません。ここは、『薙刀峰』です」
慌てて記録用の手帳を再び開く。上擦るハクの声。
「しっかりしてください。ここまで山登りをしてきたことは、覚えていますか?」
戻ってこない言葉。顔面蒼白で今にも倒れそうだ。
「リョウガ!」
焦燥に駆られて叫ぶ弟の肩を、兄が制する。
「落ち着け、ハク」
ハクを遠ざけるように自分の後ろに促し、リョウガに体を寄せるシオン。背中に手をあて、静かな呼びかけを試みる。
「リョウガ。ゆっくり息を吐け。私の声は聞こえるか?」
リョウガはくの字に曲げた体を小刻みに揺らし、言葉を絞り出す。
「……神薙に、行くのか」
「そうだ」
「あんなとこ……何もねえよ」
ハクの呼気が止まる。
狂犬の吐息はいつもの荒々しさが消え、まるで捨てられた子犬のようだった。
「なんもねえ。全部燃やされて、何ひとつ残っちゃいねえ」
魂が抜け落ちた、か細い響き。
額や首筋に、じっとりとした冷や汗が浮かんでいる。
「なぜ、貴方がそんなことを――」
シオンの肩越しに、ハクが問う。リョウガはゆっくりと顔を上げた。
しかしその目は、今この瞬間を見ているのではなく、遠い昔の「あの日」を映しているようだった。
「俺の、生まれた村だ」
兄弟の、時が止まる。
ハクが堰を切ったように問いただす。
「貴方は、盗賊団で生まれ育ったのではないのですか?」
「ちげえよ。俺は、あの村で襲われて……無理やり連れていかれたんだよ」
シオンの掌に、衣服越しにじっとりと滲んだ湿気が伝わってくる。ひんやりとした汗を感じると、彼は隻眼の瞼をそっと閉じ、振り払うように静かに左右に首を振った。
(まさかこれが「盗賊団の用心棒」の正体だったとは……「皆殺し」は、仇討ちだったのか……)
「家族も、友達も、みんな殺されちまって」
ようやく焦点が戻ってきたのか、乾いた瞳で天を仰ぐ。
記憶を吐き出したその心と似た、雲ひとつない空。
「俺はまだガキだったけど、体がデカかったからな。使えると思ったんだろうよ」
ハクはペンを折れるほど握りしめ、唇を震わせた。リョウガの出生地に関する記載は、報告書には一切なかった。
なんて自分は浅はかだったのだろう。
「人斬り」の経歴など、報告書に目を通せばそれで十分。記憶が消えることも、彼にとっては贖罪となるに違いない。
そんなふうに考えていた。
誰にも知られない、知らせない「記憶」が、誰にでもある。そんな当たり前のことに、なぜ気づかなかったのか。
「こんな大事なことを……何故今まで話してくれなかったんですか」
リョウガのせいにしたいわけではない。ただ、言わずにいられない。
「聞かれなかったからな。お前らにとっちゃ、どうでもいいことだろ」
自嘲気味に鼻で笑う。
ハクは言葉を失い、沈黙が場を支配する。風が藪を揺らす音が、虚しく響く。
暫くして、ハクはすっくと立ち上がった。その目は決意に満ちている。
「僕は自分の目で確かめに行きます。リョウガ、貴方は消耗が激しい。部隊と一緒に帝都へ戻ってください」
ゆるりと腰を上げるリョウガ。首の霊鎖がカチャリと遠慮気味に囁く。
「行ってやるよ。道案内が必要だろ?」
尾根を背に、古い隧道を進んでいく。草いきれが消える頃、ようやく出口が見えてきた。
抜けた先は、静寂が支配する空間、「神薙村」。
等間隔にそびえるのは、炭化した柱の列。焦げた骨組みだけが、かつてそこに家があったことを示していた。形を留めているのは、工房の炉や金床といった道具だけ。
膝まである雑草を掻き分けて進む。
廃墟をひとつずつ丹念に調べていたハクは、やがて溜息をついて顔を上げた。
「酷いな……資料どころか、家屋ごと焼き払われている」
案じてついてきたシオンが後ろに続いていく。周囲を見渡し、苦々しく吐き捨てる。
「略奪だけじゃなく、村人を皆殺しにした挙げ句、火まで放つとは……鬼の所業だな」
これでは村の記録も残っていないだろう。
盗賊団もまた、リョウガ自身の手で壊滅している。生存者もいない。浄界庁の調査が、彼の過去をそこまで遡れなかったのも無理はない。
自然と目を見合わせる兄弟。言葉を交わす余裕すらない。行き場を失った視線が向かう先は、リョウガの背中だ。
「毎日クソみてえな仕事ばかりやらされて、四六時中殴られて……」
ぽつり、ぽつりと。閉じ込めていた記憶を。紐解くように。
「アジトでの暮らしは、地獄だったよ」
転がっていた窯の破片をつま先で弄ぶ。頼りない手応えと共に、音もなく崩れていく土塊。忌々しげにそれを踏みにじる。
「逃げようとして捕まった奴のクビを……川に捨てに行かされたこともあった」
自分の首を確かめるように、霊鎖の上から喉を撫でる。冷たい金属の触感。フーっと吐き出された、深い溜息。
「まだ生温かくてさ。袋の上からでも、わかるんだ。俺は、ああなりたくなかった」
「リョウガ……」
ハクが絞り出すが、相槌を打つことさえできない。
思い浮かぶのは、陳腐な慰め。それを口にすることさえ、今は躊躇われる。
彼は虚空を斬るような、子供のチャンバラめいた剣の型をなぞってみせた。
「『剣の筋がいい』なんて言われて、必死に稽古したさ。用心棒になれば殴られねえ。まともなメシが食える。村での遊びが、役に立つなんてな。笑えるだろ?」
剣客らしからぬ、歪な動き。
シオンはそれを直視できない。拳を握り、奥歯をギリギリと噛みしめる。
「……もうやめろ、リョウガ」
「なんだよ。知りたいから来たんじゃねえのか――」
煽りかけたところで、足を止める。すこし広い間口の、漆黒の廃墟。
「……俺んち。一応、村の中ではリッチな方だったんだぜ」
ふざけたつもりなのだろうが、横顔に浮かぶ表情は、今にも壊れそうだった。
墓標となって佇んでいるのは、黒く焦げ付いた、大黒柱。
指先に煤が移るのも構わず、ガラス細工に触れる手つきでゆっくりと滑らせる。
「そうだ……姉ちゃんも、生きてたな……どこに連れて行かれたか、知らねえけど」
こちらを振り返る。
瞳の色は、後悔か祈りか。
全てを諦めているように見える、生気を失った双眸。
爽やかな風が、無神経に彼の髪を揺らす。
枯れ草のささやき声も、きっとその耳には届いていないだろう。
「記憶、なくなってねえな」
泣きそうな目で笑う。
神剣に喰らわせ、消し去りたかったのは、この記憶。
あの契約の日、彼は全てを白く染めようと決意したのだ。
故郷の土を踏み、自らの業を吐露したリョウガの中で、錆び付いていた過去の歯車が、音を立てて回り始めていた。




