第5話 託された鎖
(安全装置解除――起動!)
しかし、リョウガを繋ぎ止めるには、その鉄塊はあまりに鈍重すぎた。
「狂犬」の予測不能な軌道と、常軌を逸した跳躍。
「くっそ、照準がっ――捕らえきれない!」
「先輩、僕がやります!」
ナナセの前に体を入れ、ハクはこめかみに指を当てた。
研ぎ澄まされる意識。
顎から滴り落ちる、大粒の汗。
(この状況でリョウガを戦闘不能にはさせられない。足を止めさせる程度でなければ。これだけの距離で……やれるか!?)
目を細め、念を込める――。
狂犬の脊髄に電撃が走る。
彼は声を上げる間もなく上体を海老反りにさせ、ガクンと床に膝をついた。
その顔面に向かって、リョウガが追っていた小グモが反転して襲いかかる。
すぐに体勢を立て直し、一刀両断。露わになった核を串刺しにすると、狼のように吠えた。
「なッんだよ、おいッ!!」
ハクはリョウガを適度に足止めすることに成功したが、緊張を決して緩めない。
「リョウガ、このシンクロ攻撃には裏があります! 固まって対応を――」
言い終えるより早く、ハクの頭上に、本体が躍り出た。
天井にへばりついた、赤子の胴体ほどもある巨大な蜘蛛。ミシミシとたわむ梁。舞い落ちる埃。
その周囲を、生き残りの小型のクモが一匹、カサカサと眷属の如く動いている。
(これが、証言にあった――)
走る戦慄。
直後、眷属がハクをめがけて突撃してきた。
先ほどまでとは違う、捨て身に近い体当たり。紙一重で避けるが、バランスを大きく崩す。
「ハク!」
体勢を崩したハクを見て、リョウガが床板を蹴った。大きく振り上げられる白露。だが、長大な刀身は、崩れかけた本棚に激しく接触した。
――ガゴン!
鈍い衝撃。グサリと食い込む得物。金縛りにあったように動きが止まる。
天井の本体が、その隙を見逃すはずもなかった。梁を蹴り、無防備なハクの体に襲いかかる。
「久遠寺!!」
制御装置を放りだしたナナセが、ハクを全力で突き飛ばす。
大蜘蛛の牙は、身代わりとなったナナセの右腕へ深く食い込む。骨の軋む音。苦悶の混じった短い呼気が漏れる。
「ぐぁッ!」
ナナセに突き飛ばされたハクは、叢雲を落として床に這いつくばった。衝撃でボヤける視界。身を起こそうとした、その瞬間。体当たりを仕掛けた小グモが間髪入れずに肉薄する。
手探りで叢雲を掴むが、敵のほうが早い。鋭利な節足が、彼の顔面に振り下ろされる。
(やられる――!)
死を覚悟した――刹那。聞こえてきたのは、荒れ狂った「飼い犬」の絶叫。
「ハクーーッ!!」
書架に挟まった太刀を強引に引き抜き、風の如く駆け抜ける。
弾けるリョウガの身体。
震える大気。
放たれたのは、超高速の突進から繰り出される、全身全霊の「牙突」。
渾身の突きは小グモを貫き、勢いのまま体内の核を砕いた。
パリン――と、硬質なガラスが砕け散る。
脆く美しい、最期の声。
死神は塵へと還る。だが、安堵する暇はない。
次に狙うはナナセに取り付いた、大蜘蛛。
だが、それは彼の頭に這い上がり、顔面を飲み込まんばかりに頭蓋を締め上げていた。
叢雲を落とし、顔面に張り付いた怪異を引き剥がそうと抗うナナセ。割れた爪から血が滲む。
リョウガの白露が高く掲げられる。
「じっとしてろ! 叩き切ってやる!」
「待って!」
ハクが腕を掴んで制止する。まだ息が上がった状態だ。
「首ごと斬るつもりですか!」
「じゃあ……どうすりゃいいんだよ!」
ギリギリと締め上げる八本の脚。粘り気のある白い糸を吐き出し、獲物の耳孔へとヌルヌルと侵入していく。
(脳が侵食される――)
ハクは震える手で胸を押さえた。
「『千鳥』を、使います」
「はぁ!? ダメだろ! ヤツとの約束はどうするんだよ!」
「先輩を見殺しにしろって言うんですか! 僕を庇って、こんなことになったんですよ!」
「でも、お前……」
「気が散るので、話しかけないでください!」
上擦った怒号。リョウガは下唇を噛んだ。
ハクはナナセの前に向き直し、胸の前で複雑な「式」を組み始める。
周囲の空気がパチパチと帯電し、結んだ印の間から星屑のような光の粒子が噴き出す。
「――千鳥!!」
黄金に燃え上がる、その瞳。瞬きする度に弾ける火花。視線がなぞる空間が、光のビロードへと変貌する。
頭上に現れる、黄金のカーテン。光の立方体がナナセを包み込む。放たれる眩い閃光。
――瞬刻。
頭部に張り付いていた澱が、黒い煙となって霧散する。
核は艶のない鉛玉と化し、乾いた音を立てて落下し床を転がっていく。
「ナナセ先輩!」
その場に崩れ落ちたナナセに駆け寄るハク。
漆黒の玉は段差に引っかかって動きを止める。リョウガが目を丸くして見つめると、球体はパキンと音を立て内側から弾けるように真っ二つに割れた。
(すげえ……これが、〈千鳥〉……)
すぐさま我に返り、二人のもとへ飛んでいく。
「死んで……ねえよな?」
ハクはナナセの手首に指先を添え、もう片方の手をその口元にかざした。静かに目を瞑り、息遣いと脈動を確かめる。やがて薄い笑みを浮かべてリョウガを見上げた。
「はい。間に合いました。気を失っているだけです」
「そうか……で、お前は大丈夫なのか? その……目、とか……」
立ったまま口ごもる様子に、ハクは腕の中のナナセを支え直しながら、意外そうな顔を見せた。
「……心配してくれたんですね」
(てっきり、術を使ったことを怒鳴られるかと思った……)
「この程度の小規模なものなら、問題ありませんよ」
それを聞いて、リョウガはホッとしたようにストンと腰を下ろす。それにつられるように脱力するハク。
「まぁ、今の『千鳥』は僕としては八十点ですね。久しぶりですっかり腕が鈍りました。貴方が話しかけなければ、もっと上手く出来たのですが」
リョウガは子どものように口元をへの字に曲げ、あからさまに不貞腐れてみせる。
「口の減らねえヤツ」
はぁーっと、溜まっていた熱を逃がすように、ハクは深い息を吐き出した。
今まで吸うことを忘れていたかのように、肺の奥まで新鮮な空気を吸い込む。
微かに混じる、古書の匂い。
再び、日常の空気が館内を満たしていった。
浄界庁に隣接する、浄界庁付属医科学センター。
消毒液の匂いが漂う廊下の突き当たり、淡い緑色で装飾された休憩スペース。
丸テーブルを囲むのは、シオンとハク、技術開発部部長、そしてナナセの主治医だ。
「簡易検査の結果、脳波および霊子濃度に異常は見られません。念のため精密検査を行い、結果が出次第ご連絡いたします」
淡々と告げると、主治医は立ち上がる。一斉に腰を浮かせ頭を垂れる面々。
残された三人が沈黙を続けていると、ハクが静かに切り出した。
「今回、ナナセ先輩はリョウガの管理と自分の戦闘を同時に行おうとして負傷しました。この運用を続ければ、同じ事故は繰り返されると思います」
部長は軽くため息をつくと、白髪の頭を左右に振った。
「ナナセ君の負傷に関しては、全て私の責任だ。もっと検証を重ねてから導入すべきだった。本当に申し訳ない」
「いいえ、部長。非があるのは私です」
シオンが遮る。その右目には、厳しい自責の念が宿っている。
「強引に運用を急がせたのは私です。結果として、部下を危険にさらしてしまいました……」
絞り出す言葉。ハクはこの機を逃すまいと言葉を続ける。
「僕なら制御装置を持たずに霊鎖をコントロールできます。リョウガの管理と戦闘を両立できるのは、僕だけです」
シオンは長く重い沈黙の後、ようやくハクと目を合わせた。
「今回の件は、私の判断ミスだ。ハク、お前の同行継続を認めよう」
安堵したように何度も頷く部長。話がまとまり、解散しようとしたその時――シオンが「弟」の肩を掴んだ。
「ハク。お前も精密検査を受けろ」
「え……?」
「『千鳥』を使っただろう。術式の影響を調べる必要がある」
引き寄せられる肩。吐息が触れるほどの、至近距離。
「返事は『はい』だ。良いな」
有無を言わせぬ隻眼の圧力。兄の呪いに近い眼差しにハクは苦笑し、「分かりました」と応じるしかなかった。
浄界庁・執行部。
夕闇が迫る執務室。
窓際に座って退屈そうに十六夜白露を弄んでいるのは、リョウガだ。
対面には「管理者」の姿が。
「――ということで、引き続き、僕が貴方の面倒を見ることになりました」
ハクの報告を聞き終えると、リョウガは不機嫌に鼻を鳴らし背もたれにより掛かった。ギシギシと音を立てるパイプ椅子。
「ケッ、結局あいつらの茶番に付き合わされただけかよ――ったく、いい迷惑だぜ」
ぶっきらぼうな態度を楽しむように、ハクの唇がいたずらっぽく弧を描く。
「そういえば。僕が千鳥を使った時、貴方、ひどく狼狽えていましたね?」
「あぁ!? 誰がだよ」
目を剥いて身を乗り出すリョウガ。心なしか、頬が赤い。
「『目とか大丈夫なのか』って、心配してくれましたよね」
「か、勘違いするな。あれはシオンの野郎に、お前に万が一のことがあったらぶっ殺すって言われたからだ。死にたくねえからな」
鼻息を荒くし、あからさまに顔を背ける。
「ふふ。そういうことにしておきましょう」
少し照れくさそうに、ハクは前髪を指で弾いた。
「これで兄さんも、僕以外の人間に貴方の世話をさせるなんて、血迷ったことは言わなくなるでしょう」
「なんだよ『世話』って。俺は犬か」
クスクスと喉を鳴らして笑うハク。
「狂犬なんでしょう? 貴方は」
「お前、なんか……嬉しそうだな」
「そんなことはありません」
天井を見上げて、そっけなく返す。
だが、彼の横顔を盗み見たリョウガは、その白い頬が、隠しきれずにぷっくりと持ち上がるのを見逃さなかった。
切れ長の目をさらに細めて。
吐息のように。
「そんなこと、ありませんよ」
自分だけがこの猛獣の鎖を握り、隣に立てる。
優越感にも似た安堵が、夕暮れの部屋に静かに溶けていった。




