第4話 譲れぬ鎖
この鎖を 誰にも預けはしない
守るためか
繋ぐためか
浄界庁・技術開発部。午前八時。
朝日が差し込む執務室。まばらな職員が叩く打鍵音さえも、遠くの方でぼんやり聞こえる。
「ふぅ」
ハクの視界がゆっくりと、抗いようもなく沈んでいく。
昨夜の、リョウガに同行した〈澱〉の掃討任務。報告書を作成する指先が、キーボードの上で力なく滑る。二つの瞳の縁にはうっすらと隈が浮かんでいた。
(ダメだ……寝てはいけない……)
手に取ったのは小さな銀色のケース。小粒の錠剤を掌に出し、口に放り込む。鼻腔を突き抜ける鋭い刺激。
「主任、お疲れ様です」
背後から不意にかけられた声に、体ごと小さく跳ねる。
「あ、はい。おはようございます」
「部長がお呼びです。第三会議室です。シオン隊長もお見えでしたよ」
(兄さんが?)
まだ芯の残る錠剤と混ざり合う、嫌な予感。
無理矢理ゴクンと飲み込むと、胸のつかえとなって冷たく固まった。
第三会議室。
四人も入れば息苦しくなるような、窓のない密室。空調の効いた室内に粟立つ肌。
そこには、技術開発部を束ねる白髪の部長と、軍服の襟を正した〈月詠〉の隊長が待ち構えていた。
「座りなさい、久遠寺君」
部長の温和な口調が、逆に背筋を凍らせる。
着席するや否や、初老の上司は口を開いた。
「単刀直入に言おう。君をリョウガの任務から、段階的に外すことにした」
ドクンと、音を立てる心臓。
「そんなこと、聞いていません」
「先月の会議でも議題に上がっていただろう?」
「あの時は必要ないと答えて、保留になったはずです」
「『とりあえず』ね。だけどね、昨日の話し合いで正式に決定したんだよ」
有無を言わせぬ言葉。逃げ道を塞ぐ。
「昨日、僕は……」
(――任務で、会議を欠席した)
強引に押し込んだ薄荷が、今は喉の奥で焼けるような苦味に変わっている。
「議事録、まだ読んでいないだろう?」
図星だった。
昨夜は十六夜白露のデータ精査と、リョウガの記憶解析で徹夜。目を通す時間などあるはずもない。
「そういうことだ、ハク」
沈黙を貫いていたシオンが、ピシャリと言い放つ。その独眼は、こちらの限界を完全に見抜いていた。
「ですが、霊鎖のコントロールはどうするんですか」
「ナナセにやらせる」
「ナナセ先輩……に?」
実直で、何より霊媒師としての地力が高い。月詠の精鋭――。
「無理です。そんな一朝一夕にできる術じゃありません」
苛立ちを隠そうとしても、言葉にのってしまう。
「実はね。先月から、制御装置の試験運用を始めていてね」
部長は申し訳なさそうに、机の上に小さなデバイスを置いた。
「ナナセ君のような熟練者なら、霊鎖のオン・オフ程度は、これ一つで完結できるまで仕上がっている」
膝の上の拳を白くなるほど握りしめる。
(余計なことを……!)
心血を注いで作り上げた白露も、あの猛獣の首輪も、他人に委ねろと言うのか。
胃の中身が逆流するほどの、抑えきれない拒絶感。
「こんな重たい代物を持って任務ですか。とても現実的ではありません」
机上の筐体を持ち上げて、殊更大きく振ってみせる。
「君の指摘は、もっともなんだけどね……現時点ではこれが精一杯なんだよ」
後頭部を掻きながら部長が物言いたげに視線を動かす。それを受け取るシオン。
「ナナセならその文鎮を握ったままでも、十分に戦える。お前も奴の実力は知ってるだろう」
「練度や経験の問題ではありません。戦闘中に片手が塞がることが、どれほど致命的か――」
眼帯の奥から、刃物のような視線が刺してくる。
「ハク。月詠に求められるのは、確実な任務遂行と、徹底した管理体制だ。お前の『自分にしか扱えない』という自負は、任務における私情でしかない」
屈辱でヒリつく舌先。乾いた唇の薄皮を鋭く噛む。
ぷつりと裂けた粘膜から、生臭い鉄の味が広がった。
兄は追い打ちをかける。
「道具に愛着を持つのは勝手だが、それを組織に持ち込むな。リョウガと十六夜白露の管理は、他の者でも代行可能にしておく。これは決定事項だ」
「兄さん!」
「――久遠寺君」
たまらず声を荒らげて立ち上がったが、その熱は部長の静かな声に冷やされた。
一瞬の沈黙。
重く沈滞する、部屋の空気。
「まぁ、とりあえず一度、軽めの任務にナナセ君を行かせてみようじゃないか。そこで判断しよう……それでよろしいですかね、久遠寺隊長」
「結構です」
シオンの返答は短く、慈悲はない。
歯をぐいと食いしばり、震える声を絞り出す。
「分かりました。ですが、その任務――」
兄を真っ向から射抜く、漆黒の瞳。
「僕も、同行させてください」
帝立公文書図書館。
帝国が誇る知の殿堂。その場所は今、幾重にも張られた規制線と、異様な静寂の内側にあった。
正面入り口では所轄の警吏が慌ただしく動き回り、霊媒師たちが黄色いテープに呪札を貼っている。
「規制線はもっと手前に引け。マニュアルでは出入口から五メートルのはずだ。やり直し」
警吏たちを鋭い声で叱責するのは、月詠隊員の「ナナセ」。
無駄のない体つき。額を見せた潔い短髪。アイロンの隙もない隊服の着こなし。
手にあるのは無骨な鉄塊――霊鎖の、制御装置。
その背後をひどく不満そうに歩くのは、首輪を巻かれた「狂犬」だ。
「なんだよ。見張りはいらねえからこれからは二人で、なんて言ってたくせに……話が違うだろ」
容赦のない睨みが、ナナセの背中に突き刺さる。だが、当の本人は振り返りもせずにそれを切り捨てた。
「私語は慎め、狂犬。これ以上余計な口を叩くなら、その場で床に這いつくばらせるぞ。私は久遠寺ほど甘くはない」
「ハイハイ、申し訳ございませんねぇ」
肩をすくめ、隣を歩くハクへ眼差しを向ける。
苦いものを噛み潰したような顔で、ハクはナナセから露骨に距離を置いていた。
「おい。もしかしてお前、あいつと仲悪いのか?」
「……お喋りしすぎると、本当に霊鎖を起動されますよ」
神経を逆撫でするいつもの皮肉も、今日ばかりは鳴りを潜めている。
ナナセが立ち止まり、図書館の吹き抜けを見上げた。指を差したのは、二階へと続く大階段。
「久遠寺、打ち合わせ通りだ。私とリョウガは一階を。お前は二階の捜索に当たれ」
「先輩。流石にここで制御装置を使うのは……」
ナナセのギロリと光る目が、進言を遮断する。
「何を言っている。こういう場こそ危険だ。戦闘のどさくさに紛れて、逃げ出す可能性は十分にある」
「そんな――」
『そんな男じゃありませんよ』
言葉が喉まで出かかって、口をつぐむ。
獲物を前にしたリョウガが、逃げ出すはずがない。だが、それを説いたところで伝わるはずもないのだ。
ハクは二階へ上がり、愛刀〈叢雲〉を携えて廊下を慎重に進む。
(被害者は図書館司書二名、警備員一名、所轄警吏二名。蜘蛛のような外見。大きさ約四十センチ。数は、「一匹」)
頭の中に記録された報告書を反芻するが、意識はどうしても階下へと向いてしまう。
「こんな任務で判断されても……」
冷えた館内に吸い込まれる、独り言。
その時だった。
ズン、と。
階下から、地響きに似た震動。
「――っ!」
一階へ飛び降り、激しい破壊音が轟く部屋へと迷わず踏み込む。
なぎ倒された本棚。埃とカビの混じった、むせ返るような古書の臭い。舞い散る資料は紙吹雪のようだった。
横倒しになった棚板の上に、獣のごとくしゃがみ込んでいるのは、十六夜白露を抜いたリョウガ。
数メートル後方では、ナナセが左手の制御装置を彼に向けて構えていた。
二人を嘲笑うかの如く、並び立つ背表紙の隙間からクモが影をちらつかせては消え、彼らを攪乱する。
「ちょこまかしやがって!」
リョウガは獲物を狙う猛禽類の如く、視線を上下左右に巡らせつつステップを踏む。彼の動きに呼応するナナセ。
「リョウガ、私からあまり離れるな!」
ハクは、阿吽の呼吸でナナセの背後を守る配置についた。
「ナナセ先輩、少し下がりましょう。ここだとまだリョウガの間合いです」
「――しかし!」
直後、新書本ほどの大きさの黒い塊がリョウガの足元から飛び出した。その胴体へ深い切り込みを入れる、白露の一閃。
一撃離脱する八本脚。傷口から黒い煙を上げながら再び闇へ消える。鋭く弾けるリョウガの舌打ち。
ハクが微かな違和感を口にする。
「四十センチには、見えませんでしたが……」
「ああ、そんなにデカくねえ。けど――クソ速え!」
二人の会話を冷徹に遮断するナナセ。
「目撃者は大抵オーバーに言うものだ。脚の長さを本体と勘違いしたのだろう」
断じられたが、胸のざわつきは収まらない。
(そうだろうか。被害者の中には警吏が二人もいた。素人の見間違いで済む話では――)
刹那、今度はハクの視界の端、窓際に敵の姿。口から粘液状の糸を吐き出し、叢雲を絡め取ろうとする。
鮮やかな斬撃でそれを振り払うが、刃が糸を断った瞬間、怪異は再び書架の奥へ――。
それが闇へ紛れるのと同時に、今度は天井からリョウガへ向けて白糸が放たれる。
白露で応戦するも、狂犬は吐き出すように声をあげた。
「これ、一匹じゃねえだろ! ぜってえ二匹いるぞ!」
ナナセは敵の挙動を見極めようと目を細めた。右手一本で握る叢雲に、力が入る。
「そう考えるのが妥当だ。二体で一つの残像を見せている。強敵だ。二人とも油断するな!」
四方八方から飛来する影に踊らされ、三人の距離が不自然に離れていく。
「奴ら、私達を分断するつもりだ。術中にハマるな!」
「――んなこと言われたってよぉ!」
弱音を吐くリョウガを見て、ハクは思考を巡らせる。
(確かに、攻撃の仕方が不自然だ。しかし一対一に持ち込まれたとしても、三対二でこちらが有利。何か別の狙いがあるのか?)
結論を導く間もなく、ナナセが声を張り上げた。
「天井、十時方向ッ!」
叫びと同時に、肉薄する澱。ナナセの咆哮――猿叫が館内に響き渡る。
「キェェェェェ!」
野太い奇声と共に、豪快な一太刀が足を数本叩き斬る。しかし敵は煤を撒き散らしながら、大げさに跳ねて逃げていく。追撃するリョウガ。
「待ちやがれ!」
深追いするその背中に、ナナセの怒号が浴びせられる。
「リョウガ、待て! 離れるんじゃない、戻れ!!」
「待ってくださいリョウガ! これは罠です! 戻って!!」
ハクの制止も、戦闘狂の耳には届かない。
焦燥に駆られたナナセは、手に持った制御装置をリョウガに向けた。汗で滑る筐体を握り直し、ボタンをスライド。
(安全装置解除――起動!)




