第10話 灰色の楽園
呼び覚まされた記憶の名は
静けさを切り裂く悲鳴のよう
亡き者を悼む言葉すら
蝉時雨に 呑み込まれていく
そこには、戦うべき敵は、もはや存在しなかった。
腰の高さまで伸びた青々とした稲が、巨大なローラーで潰されたように平伏している。崩れた棚田のあぜ道から水が漏れ、泥と血の匂いが立ち込めていた。
あちこちから聞こえてくる村人のすすり泣く声。絶え間ない水の音がそれらを冷酷に塗りつぶす。
帝都から遠く離れた、辺境の棚田地帯。
浄界庁の精鋭部隊〈月詠〉の一団は、抜刀することすら叶わず、ただその蹂躙の跡に立ち尽くしていた。
援助要請を受け直ちに急行した彼らだったが、到着した時には元凶たる澱は霧のように姿を消していたのである。
せわしなく動き回る医療管理局の職員。傍らでは、情報管理局が村の地図を広げ、被害者の名前と所在を一つずつ書き込んでいた。
「壱番隊は外縁部の索敵にまわれ。あとの者は救護班のサポートだ」
シオンの鋭い声が飛ぶ。
ハクはリョウガを従え、救護班と共に子供のむせび泣く声が漏れる民家の中に走っていく。
庭の片隅に横たわる女性。その体は、脱ぎ捨てられた衣類のように血まみれで動く気配がない。畑は隕石が落ちたかと錯覚するほど大きく陥没し、夏野菜の収穫カゴが泥の中に散乱していた。
女性に縋り付いて泣きじゃくる幼子。凄惨な光景に呆然とする月詠の二人を横目に、救護班は身をかがめて素早く対応に当たる。
拳を固く握るリョウガ。
――かつての自分と重なる。一瞬にして、当たり前の日常が奪われる、地獄。
班長の男性がハクに口早に指示を出す。
「久遠寺さん、この子を公民館へ連れて行ってください。子供の一時預かり所になってます」
ハクが母親から息子を引き剥がそうとするが、頑なに離れようとしない。見かねたリョウガが手を貸した。
「坊主、母ちゃんはこの人たちに任せておけ。お前は公民館だ」
小さな体を無理やり持ち上げ、抱え込む。腕の中の塊は、金切り声を上げてリョウガの髪を引っ張り抵抗する。短い痛声を上げる狂犬。
「血圧低下、脈拍微弱、腹部に大きな皮下出血……意識レベル昏睡――」
救命措置の会話を背に庭をあとにする二人。リョウガが子供を肩に担ぎ直すと、暴れる足が隊服を泥だらけにした。
しきりに後ろを気にするハク。月詠の衣を身に纏い、いつになく緊張した面持ち。
「どした? 早く行こうぜ」
急かされて前を向き直るが、足取りが重い。
「あの女性……酷い怪我でした」
「そりゃそうだろ、澱にやられたんだから」
ばたつくの両足を腕で押さえつけ、なだらかな坂道を登っていく。ハクは眉間にシワを寄せた。
「あんなに体に傷をつけられた被害者を、僕は見たことがありません」
「澱じゃなくてクマとかだって言いてえのか?」
リョウガが口をとがらせながら、子供を抱え直す。
「それはありません。見てください」
前方の陥没した畦道、そして今しがた出てきた民家。順繰りに指をさす。
「陥没痕や足跡が、この周辺に全くありません。あの畦道から民家に飛んでいるのです。この跳躍力と破壊力は実在の動物ではありえません」
「じゃあやっぱり澱だろ」
「……ですが、澱らしくないと言うか……違和感があります」
歯切れの悪いハクだったが、間もなくして高台の先に公民館が見えてきた。
入口に待機していた月詠隊員に子供を預けると、隊員は中に入っていく。
すると、入れ替わるように丸メガネをかけた情報管理局の職員が建物から出てきた。ハクの姿を見ると、表情を明るくする。
「あぁ、ちょうどよかった。シオン隊長から、久遠寺主任に報告するように言われましたので」
抱えていた書類の一部を抜き取り、差し出す。手に取ったハクは、目撃証言のページに視線を走らせた。
「外見は猿のようですね……『三メートル強』、大きいですね。『西の結界を突破し村を横断、東の崖を飛び越えて逃げた』――」
「追いかけようぜ! まだそんなに経ってねえだろ」
リョウガが突然声をあげた。その声量と勢いに、飛び上がる職員。
ハクが目を細めて諭す。
「今は被害者の救護と、この村の安全確保が最優先です。こんな山深い場所で無闇に追ってどうするんです。敵と遭遇する可能性は、ほぼゼロですよ」
「なんだよ、俺は澱を倒すためにいるんじゃないのかよ」
苛ついた様子で十六夜白露をガタガタ鳴らす。丸メガネの職員は青ざめた顔で二、三歩後退りした。
「澱を倒すのは市井の民を守るため。目的と手段を履き違えないでください」
大きく舌打ちして踵を返すリョウガ。ハクは彼の様子を見て小さくため息をついたが、すぐに書類に向き直る。
「人気の少ない早朝だったのは不幸中の幸いですね。ですが……」
ハクは目を見開いて、めくろうとしたページを指先でつまんだまま硬直した。視線は一点に据えたまま、深く思考に沈む。
「被害者全員、『脳の侵食の形跡・無し』になってますね……どういうことですか?」
――質問の答えが、返ってこない。
不審に思い、顔を上げる。
丸メガネは、ハクの背後にいるリョウガに気を取られていた。ポケットに手を突っ込み、落ち着きなく体を揺らす狂犬。
「リョウガ、先に村役場に行って下さい。兄さんかナナセ先輩がいるはずです。指示を仰いで下さい」
リョウガは小さく「おう」とだけ応え、大股で坂を下っていった。職員の方に向き直るハク。
「――失礼しました。で、これはどういうことですか」
狂犬が遠ざかったことで安心したのか、職員は流暢に喋りだす。
「言葉のとおりです。目的が村人の脳ではなかったということでしょう。たまたま村を通過して、邪魔者を傷つけたという感じでしょうか」
鼻にずり落ちてきたメガネのブリッジを中指でクイッと上げ、持論を続ける。
「村人の多くが『なにかに怯えてるようだった』、『興奮していた』と証言しています。何かに追われていて、興奮状態で村に入ったと自分は考えています」
「結界札は――」
「西側の第一から第三防護柵まで、消失しています」
ハクの言葉を遮り、被せ気味に喋る。
(『消失』……)
最後のページをめくると、村の地図が描かれている。西側の境界線付近は赤ペンで「第一から第三は全滅」と書き殴られていた。
報告書を脇に抱え、棚田を見下ろす。ぐしゃぐしゃに踏み荒らされた田圃の泥筋を視線で追うと、怪物の軌跡が見て取れた。
西の緩斜面から、結界を力ずくで突破し蹂躙しながら村を横断。そして、東にそびえる帝国の頂、天峰山の断崖へと向かっている。
(対岸の崖が酷く崩れている……飛び移った勢いか?)
「東に結界は?」
「ありません。あちら側は谷なので、元から設置はしていません。あそこを飛び越えたというなら、それこそ相当の質量です」
(その『相当の質量』が怯えて逃げる相手……)
西の稜線に目をやる。
穏やかだ。村の惨憺たる状況とは真逆。
この山の中に、何かが居るのだろうか。
「久遠寺主任。あの……少し、よろしいですか」
「なんですか」
改まった様子に、敏感に反応するハク。
「あの……『特別執行官』は、主任が常にコントロールされているんですよね?」
(特別執行官……リョウガのことか。上層部が表向きに付けた仰々しい呼び名だな)
「そうですが」
「それならいいんですが……その、ちょっと……」
「怖いですか」
当然だろう。殺した人間のリストが二頁にも及ぶ凶悪犯だ。普通なら手枷足枷を嵌められていてもおかしくない。
「すみません……」
うつむく丸メガネ。
「いえ。不安に思うのも無理はありません。ですが、杞憂ですよ。彼の霊鎖と私は常に同期しています。半径五キロ圏内なら位置の把握も、遠隔での制御も実証済みです。安心してください」
メガネの職員は頭を下げると、ぎこちない笑顔を残して去っていった。
救護班が一息つく頃には、すっかり陽が傾いていた。
先程まで耳をつんざくほどけたたましく騒いでいたアブラゼミは鳴りを潜め、ひぐらしが静かにささやき始めている。
月詠隊員は物資搬入のための道路の確保や水田の修復に追われ、全員泥だらけ、疲労困憊の状態だった。
上着を脱いで上半身裸で地べたに座り込んでいるリョウガに、ハクが眉を八の字に下げて近づいてくる。
「何やってるんです。ちゃんと着てください。上着、どこにやったんですか」
「あれ? 役場かな」
泥だらけの手の甲で無造作に鼻をこすると、顔中に泥がつく。ハクはくすりと笑った。
「白露は汚してませんよね?」
「『ヨル』だよ、『ヨル』。そうだ、話してなかったか。ヨルにしたって」
押し黙るハク。あのときの会話は、彼の中では消えているのだ。
「そんな名前にしても僕は呼びませんからね。白露は白露です」
「良いよ。お前は仲間に入れてやんねえ」
「また子供みたいなことを――」
言いかけた、その時。
「コハク様!? コハク様じゃありませんか!」
唐突に、場違いなほど明るく素っ頓狂な声が響く。
振り返ると、農夫と呼ぶには違和感のある派手な着衣の中年男性が、小走りでこちらへ駆けてくるところだった。
それよりもリョウガを驚かせたのは、目の前のハクの表情だった。
コハク。
そう呼ばれた瞬間、彼の瞳から色が褪せていくのが見えた。
魂を抜き取られたような、虚無の双眸。リョウガが一度も見たことのない顔だった。
(コハクって言ったよな。今、確かに)
「月見里村の村長、谷津でございます。コハク様、ご無沙汰しております」
リョウガは恐る恐るハクを覗き込んだが、その表情はいつもの「能面」へと修復されていた。
谷津と名乗る男は、自分の村が壊滅的な被害にあっているにも関わらず、ヘラヘラと笑顔を見せた。男の白い歯に一瞥もくれず、ハクは無表情で返す。
「月詠の久遠寺です。よろしくお願いします」
「いえいえ。お母様と月詠の方々には本当にいつもお世話になって。この度は遠いところをご足労いただき――」
「任務ですので」
ピシャリと遮断。ハクのいつにない態度に、違和感を覚えるリョウガ。思わず立ち上がる。
(なんだ……? 知り合いか?「お母様」?)
「パーティでお見かけした折には、まだ可愛らしい少年でいらしたのに。凛々しくなられて――」
取り付く島もないハクの態度にも一切屈せず、谷津は彼の周りをウロウロし始める。
その沈黙を、謙遜か何かだと好意的に解釈したようで、饒舌に言葉を重ねる。
「先程シオン様のお姿は拝見しましたが、本日はスバル様もご一緒ですかな?」
(「スバル」……?)
聞き覚えのない名前。
リョウガがハクに視線を戻すと、彼の顔色は幽霊のように真っ青になっていた。唇も紫に染めて、息が荒い。
「いえ……僕、は……」
立っているのもやっと。それほどに視線が泳ぎ、足元がふらつく。
「おい、どうしたよ……」
脇から抱きかかえようと手を伸ばした、その刹那――。
「久遠寺先輩っ!」
空気を切り裂くように割って入ってきたのは、月詠のミナトだった。
我に返るハク。大きく息を吐きだし、焦点の合っていなかった瞳はミナトをしっかりと捉えた。
「村役場の前で、隊長が探してましたよ!」
自分の来た方向を指差し、大げさに腕をグルングルンと回すミナト。
ハクは額の汗を手で拭い、隊服の襟を整えた。
「わかりました――では村長、私は任務がありますので」
そう言うと、行き場を失って宙に浮いていたリョウガの手首に、そっと自分の手を添えた。
『大丈夫です』
そんなハクの声が聞こえたような気がして、リョウガは黙って腕を下げた。
「コハク様。お母様に、谷津がよろしく申しておりましたと……」
村長はしつこく喋り続けるが、無視しているのか聞こえないのか、ハクは振り返りもせず離れていく。
そんな中、ミナトはすれ違いざまに「先輩、一回貸しっスよ」と悪戯っぽくささやくのだった。
目的を果たした谷津は、リョウガとミナトに軽く会釈をすると、満足げな表情でそそくさと去っていく。その背中に冷ややかな視線を浴びせるミナト。
「あー、やだやだ。おべっか使って」
頭の後ろで手を組んで毒づくと、いつの間にか隣には物言いたげな顔のリョウガが。
「おいミナト。あのオッサン何者だ? ハクのお袋さんとなんか関係あるのか?」
待ってましたとばかりに鼻をフンと鳴らす。
「久遠寺先輩のお母さんは、財団の理事長なんです。『パーティ』って言ってたのはその財団の晩餐会のことですよ」
「ザイダン?」
間抜け面で質問すると、ミナトは少し複雑な笑顔を見せた。
「うーんと……この村もそうですけど、澱対策で結界敷くってなると、お金かかるじゃないですか。その資金の出どころ、って感じですかね。国からも勿論出ますけど、財団から結構出てるんですよ」
身振り手振りで説明するが、リョウガはぽかんとした顔をしている。
「……よくわかんねえな。それより『スバル』って誰だ? あいつ、名前聞いた途端に顔真っ青にしてたぞ」
周囲に人がいないかを確認するように、視線を巡らせるミナト。あちこちに、疲れ切った月詠たちが腰を下ろし、水分補給したり、仲間同士で雑談をしている。
リョウガを上目遣いに見ながら、顔の横で小さく手を招く。腰をかがませ、耳を貸すリョウガ。
「ちょっと、場所変えませんか」
道路や建物の洗浄が残した、そこかしこの大きな水たまり。夕陽を映し出す水田。見渡せば、集落全体が茜色の鏡のようだ。
二人は砂利道から外れて、クヌギの大木の下で立ち止まった。日に干された泥の匂いが、鼻先を通り抜ける。
「流石に疲れたっスね」
ストンと腰を下ろすミナト。叢雲がカチャリと音を立てる。視線で促され、リョウガも隣に座った。
「箝口令が敷かれてるんで、あまり大きな声じゃ言えないんですけど」
そう切り出すと、上着のボタンをひとつふたつ外して、パタパタと胸元に風を送る。
「スバルさんっていうのは、元月詠の隊員です」
「元ってことは、もう辞めたのか?」
「殉職したんです。任務で」
リョウガの耳から、音が消えた。
田を洗う水の音も、夕刻を告げる烏の声も、鼓膜を素通りしていく。聞こえてくるのは、ドクンドクンと重く響く、自身の心拍音。
ミナトはポケットから飴玉を取り出すと、ポイと口に放り込んだ。
「俺が入隊した時にはもういなかったんで、詳しくは知らないんですけど、久遠寺の人間だったんですよ」
もう一つ飴玉を握った拳を差し出すが、首を左右に振られる。
「それって……ハクの、兄弟か?」
「従兄弟ですよ」
カラカラと口の中で飴を転がす。
忙しなく瞬きをして、口元に掌を当てるリョウガ。指の隙間から絞り出すように言葉を漏らす。
「死んだって……もしかして、千鳥が原因だったりするのか?」
「流石にそこまでは。でも、当時は月詠存続の危機って言われるくらいの大事件だったらしいです。久遠寺の人間が任務で亡くなるなんて、めちゃくちゃヤバいんで」
「ハクはそのことを――」
「当然知ってますよ。二人は同い年で、小さい頃から相当仲が良かったらしいです。『幼馴染』ってやつじゃないですか」
ミナトは飴をガリリと奥歯で噛み砕いた。言葉を失うリョウガをよそに、呑気に軽口を叩く。
「そういえば久遠寺先輩、月詠の隊服着るようになったんですね。ビックリ。リョウガさんが着ろっていったんスか?」
「言ったかも、知れないな……」
呆然自失のリョウガ。
「そっかー。リョウガさんの言うことなら聞くのか。へー」
ものいいたげな、ミナトの目線。相手にされていないと気づくと、顎に手を添えて独り言を喋りだす。
「可愛いとこあるよなー。俺もこれから『ハク先輩』って呼ぼうかなー」
聞こえてくるのは、山から降り注ぐ蝉時雨。
涼し気なはずのひぐらしの声が、今は鼓膜を刺すほど激しく鳴り響いている。
今のリョウガには、それがハクの悲鳴のように聞こえてならなかった。




