第11話 二人だけの暗号
名残の月が照らし出すのは
二度と戻らぬ 眩い残照
あの日誓った 二人だけの秘密
棚田が広がる山あいの集落、月見里村。
澱の蹂躙に遭いながらも、月詠をはじめとした浄界庁による懸命な復旧作業により、風光明媚な姿を取り戻しつつあった。
夕陽が山際に沈む。棚田の輪郭を形作るあぜ道の影が、濃い群青色へと伸びていく。
山の上から吹き下ろす風に混じるのは、澄んだ水の匂い。
ハクは村の中央を貫く砂利道を進んでいた。
そっと後ろを振り向くが、しつこく付きまとっていた村長の姿はない。
軽く息を吐く。安堵感と開放感に満たされながら、村役場を目指す。
こじんまりとした集落の景観から浮き上がって見える、立派すぎる庁舎。
正面玄関から入ると、内部はどこか騒然とした空気が漂っていた。地元の役人と浄界庁の職員が、地図を囲んで今後の復興方針や補償について激しい議論を交わしている。
「隊長はおられますか」
張り詰めた空気に水を差すのは気が引けるが、呼び出されたのだから仕方ない。
話し合いの輪の中の一人が、煩わしげにこちらへ視線を向けた。
「シオン隊長ですか? 随分前に本部へ戻られましたよ。副隊長に指揮を引き継いだはずです」
月詠の隊長任務は多岐にわたる。
討伐の指揮だけでなく、政官との調整や次なる澱の予測――本部では山のような仕事が兄を待っている。
今回のような救援や復旧を目的とした任務であれば、副隊長のナナセに任せて本部に戻るのはごく自然な流れだ。
(ミナトに一杯食わされたな)
いや、違う。
自分を村長から解放してくれたのだ。
すれ違いざまに「貸し」だと言っていたのは、このことなのだろう。
ナナセの姿を探すが、役場内には見当たらない。ロビーにいる隊員たちも任務に区切りがついたのか、泥に汚れた装備を解き、三々五々撤収の準備に取り掛かっている。
ふと、肩にかかっていた重荷が下りた気がした。
あまり経験がない凄惨な現場。他部署の職員も多く、リョウガの扱いの難しさもあって緊張しどおし。
張り詰めていた糸が緩んだ途端、鉛のような疲労が全身に回る。
「疲れた……な」
ロビーの喧騒に飲み込まれて消える、独り言。
出口に戻り、観音開きの重い扉を押し開けて外に出る。
西の空が茜色から深い藍色へ溶けていく。
まだ明るい南の空には、白い半月が淡く幻想的に浮かんでいた。
(山のド真ん中で月見里村か……ずいぶんと矛盾した名前だな)
地獄のような一日を耐え抜いたこの村にも、無慈悲なほど平等に夜が訪れる。
家を、家族を、あるいは日常を失った村人たちにとって、それは永遠にも感じられる悪夢の一夜になるだろう。
そして何事もなかったかのように朝日は昇り、前へ進めと人々を戒めるのだ。
自分も、そうだった。
この世のすべてが終わったと絶望した、あの日。
スバルが死んだ、あの日。
また朝が来るのかと。
スバルがいないこの世界に。
何事もなかったかのように。
『コハク』
村長に呼ばれた、この名前。
久しく呼ばれなかった、呼ばせなかった、この名前。
不意に、夕闇の静寂を裂いて、誰かの声が鼓膜を震わせた気がした。
「コハク! 早く、早く!」
幻聴の中の声は、弾けるように明るい。
僕をその名で呼ぶのは、世界でたった一人、「彼」だけだった。
夕暮れの小さな公園。
二人の影が長く伸び、笑い声が響く。そのまま連れ立って自宅に戻り、勝手口の扉を開ける。鼻をくすぐる、夕飯の匂い。
「スバル君、今晩はハンバーグだから、うちで食べていかない? マスミさんには電話しておいてあげる」
そう言って母は、僕ら二人に目線を合わせて優しく微笑んだ。
「「やった!!」」
飛び上がってハイタッチ。揚げたてのポテトを二人でつまみ食い。「コラ!」という母の声を背に、再び裏庭へと飛び出す。
庭に広がるのは、母のお気に入りのハーブ畑。ローズマリーの鋭い香りと、セージの柔らかな銀緑。
迷路のように植えられたそれらの間を、ジグザグに駆け抜ける。スバルは足が速く、僕は彼の背中を必死に追いかけた。
灰色がかった、不思議な髪色。
漆黒揃いの久遠寺家において、彼の存在は一際異彩を放っていた。生まれた時は黒かったというその髪は、成長と共に白を混ぜていく。
『分家で千鳥に覚醒した子供は、半世紀ぶり。天賦の才が髪に現れている』
一族の集まりで大人たちが囁き合う言葉を、当の本人はどこ吹く風で笑い飛ばしていた。
明るく、冗談好き。
けれどその実、風邪をひけば「もうちょっとそばにいて」と袖を掴むような、寂しがり屋。
「スバル、さっきまた『コハク』って呼んでたよ。『ハクって呼んで』って言ったじゃん」
湿った砂に木の枝で「コハク」と書きなぐり、すぐに「コ」の字だけを足の裏で乱暴に消す。
友達から「女の名前」と揶揄された瞬間から、自分の名前が嫌いになった。
家族は全員、ハクと呼ぶ。
なら僕はもう、「ハク」で良い。
「なんで嫌なんだよ? カッコ良いのに」
不思議そうに傾ける小さな頭。
「いいの! 僕はハクなの! スバルだけだよ、いまだにコハクって言ってるの」
むくれて木の枝で蟻の巣を突き始めると、ひょいと取り上げられた。
「え? オレだけ? そっか……わかった! じゃあさ、『コハク』ってのは、二人の暗号にしよう」
彼は手にした枝を剣のように左右に振り、悪戯っぽく笑う。
「暗号?」
「そう。オレだけはお前のことコハクって呼ぶ。それがオレが本物だっていう暗号。もし『ハク』って呼ぶやつがいたら、そいつはオレのニセモノだから」
「ニセモノのスバル?」
「そう! だからお前も、他のやつに『コハク』って呼ばせちゃダメだぞ。これは二人だけの秘密だからな」
「二人だけの、秘密……」
僕を特別な存在に変えてくれる言葉。
「わかった! 二人だけの秘密だね!」
ニッコリと笑って応じるスバルが、再び走り出す。
その背中を、また追いかける。
ただひたすら、前だけを見て。
彼がいることが当たり前で。当たり前すぎて。
失うことなど考えもしなかった、あの眩い季節。
「信じられない! あなた、何も言わずにノコノコ帰ってきたの!?」
塾から戻って玄関を開けた瞬間、リビングから聞こえてきたのは母の鋭い叱責の声。
閉じかけた扉から漏れているのは、いつもなら温かく感じるリビングの明かりだった。それが廊下の闇を細く鋭く切り裂いている。
標的は、父だった。
浄界庁の激務に追われて帰宅したばかりだというのに、ものすごい剣幕の母に捕まり、心底鬱陶しそうだ。
分厚いレンズの眼鏡を外し、胸ポケットから取り出した目薬。翡翠色に濁った瞳に一滴ずつ落とし、深い溜息とともに目頭を押さえる。
「本人がやると言ってるんだ。尊重すべきだろう」
いつもの小競り合い。
そう思って階段を上りかけたが、次に続いた母の言葉に後ろから強く引き戻された。
「あなた、スバルを死なせたいの!?」
ドクンと跳ねる胸。手すりを握る手に力が入り、吸いかけた息が喉の奥で詰まる。
忍び足で壁の影に身を寄せ、固唾をのんで会話に耳をすませた。
「仕方ないだろう。下手に反対すれば、分家の連中に『本家がやっかんでいる』と言われ――」
「言わせておけばいいでしょ! うちだって、シオンを入れてる。やっかんでるなんて言われたくない!」
言葉を被せ、激昂する母。
いつもの父なら反論せず、母の気が済んで自然に怒りが収まるのを待つのだが、この日に限っては――。
「今の月詠で千鳥を扱えるのはシオンしかいない。スバルが加入すれば、あいつの負担も減る。それはお前だって望むところだろう」
スリッパの足音が階段に近づいてくる。慌てて踊り場まで駆け上がり、息を殺して身を潜めた。
うんざりした様子の父が、階段の脇をすり抜け、書斎へと逃げ込む。母はその背中を執拗に追った。
「そのシオンでさえ十五歳で入隊したのよ。スバルはまだ十三。いくらなんでも無理、まだ子供よ」
書斎の扉に手をかけたまま、返事をしない父。沈黙が、母を余計に苛立たせているように見えた。
「マスミさんだって本当は嫌なはずよ。でも周りが言わせない空気を作ってる。見てられないわ!」
これ以上取り合うつもりはないとばかりに、父は部屋に入るやいなや扉を閉めようとした。
だが、母は閉まりかけのドアの隙間に強引に体をねじ込ませる。
「みんなあの子にプレッシャーをかけすぎてる。スバルは責任感が強いから……『両親のため』、『久遠寺のため』って考えてるに違いないわ」
少し間を置いて、父が静かに口を開く。
「入隊したからといって、今日明日に最前線に放り出すわけじゃない。十分な訓練期間を設け、軽微な事案から段階的に経験を――」
「嘘!! シオンの時もそう言ってたじゃない! 『小さな任務』とか言いながら、すぐに大怪我して帰ってきたじゃない!!」
突然の金切り声。父と、そして隠れていた僕も同時に肩が跳ねる。
ここからでは父の声がよく聞こえない。もう一段だけ――そう思って身を乗り出す。
半分だけ開いた書斎の扉。その隙間から、父の姿がかろうじて見えた。
父は机上のトレーにある自宅用の眼鏡にかけかえると、少し落ち着いた様子で溜息をつく。
それからようやく母と正面から向き直った。
「わかったから、少し落ち着け。私だってスバルのことは案じている。明日執行部へ行って、スバルの配属については慎重に検討するよう釘を刺しておこう」
「絶対、約束だからね。お願いだから、あの子を守って」
今思えば、母は正しかったのだ。
あの時彼女が感じていたのは、ひと足早く月詠に息子を預けた母親としての、「直感」。
そしてその予感は、残酷なほどの的中を見せることになる。
父は母との約束を守り、スバルに一年間の試用期間を設ける特例措置を取り付けた。
季節が巡るたびに、僕らはそれぞれ別の場所で忙しくなっていった。気がつけば、スバルとはすれ違ってばかりの日々。
ある夜、夕飯のお裾分けを持って行くついでに彼の部屋を訪ねると、分厚いテキストを開いたまま机で寝落ちしていた。
顔や手には、いくつもの絆創膏。二の腕はいつの間にか僕の倍の太さに。
彼ほどの優秀な人間でさえ、これほどの努力をしなければならない、「月詠」。
子供の頃は自分も無邪気に憧れたものだが、こうして現実を見せつけられると、身の程知らずという言葉が脳裏をよぎる。
いくら修行を重ねても千鳥の兆しは全く現れない。
このまま覚醒せず、月詠にも入れず。久遠寺の血を引くものとして、生まれてきたのに。
おこがましいとはわかっていたが、僕はスバルを支えたかった。
そう思って挑戦したのが、浄界庁の論文公募だった。
公募の要項には、「既存概念にとらわれない斬新な術式」という言葉。
「やってやる」という血が沸き立つような感覚と、武者震いに似た高揚感。
僕の術式で、僕の理論で、彼を支える。
失敗作の魔石の山に埋もれて、そのまま朝を迎えたのは一度や二度ではない。
塾をサボって図書館に行き、どこで何を間違えたのか調べるが、最早近所の図書館でわかるものではなくなっていた。大学の公開講座に申し込んで、教授に直接質問をしてようやく糸口が見つかることもあった。
そうやって幾度となく仮説と術式を組み替え、ようやく導き出した理論。その理論を証明する魔石を組み込んだチョーカーを仕立てた。
スバルの入隊式を翌日に控えた夜、僕はそれを握りしめて、彼の家を訪ねるのだった――。
「え、これ俺に? すげー嬉しい! サンキュー、コハク!」
昔から手先が器用だったので、アクセサリーを作るのは造作もない。しかしこれは、ただの装身具ではない。
「この石に、お前の霊力が込められてるって……どういうこと?」
革のベルトの中央に、爪先ほどの、青く透き通った魔石が組み込まれている。それを不思議そうに覗き込むスバル。
「浄界庁の論文コンペに参加したって話しただろ? その論文のテーマが、この魔石なんだ」
鏡の前でチョーカーを首に当てようとしたスバルが、弾かれたようにこちらを振り返る。
「そうだ、論文コンペ! 優勝したんだってな、史上最年少で。すげえじゃん!」
「ありがとう……それでね、この魔石には僕の霊力が込められてるんだけど、手順を踏めばスバルが使えるようになるんだ」
「そういや、お前、うちに魔石めちゃくちゃ持ってきて、霊力を出してだの入れてだの言ってたよな。これのことだったのか……ん?」
鏡の中のスバルが、ピタリと動きを止める。
「霊力って自分のものしか使えないんじゃなかったっけ?」
「それを可能にする方法を証明したから、優勝したんだよ」
スバルは目を丸くし、チョーカーと僕の顔へと視線を往復させた。
「へー。なんだかわかんないけど、お前もすごいこと考えるな……で、どうやって使うんだ?」
「説明書をつけておいたから、後で読んで――」
「あー、そういうの苦手。今ここで教えて」
「仕方ないなぁ……」
呆れながらもスバルに歩み寄り、チョーカーをつけてやろうと背後に回る。
日焼けした首筋に、Tシャツの跡がくっきりと白く残っている。そして、いつの間にか伸びた襟足。
「髪、少し伸びたんじゃない? 明日入隊式なんだろ。切ってやろうか」
「あ、やっぱまずい? 面倒でついつい後回しにしてたんだよな」
「ちょっと待ってて。マスミ叔母さんに言って、ゴミ袋と新聞紙もらってくる」
昔から自分の家のように出入りしているスバルの家。間取りも物の置き場も熟知している。
返事を待たずに部屋を飛び出し、階段を颯爽と駆け下りた。
ゴミ袋に穴を開けた、即席ポンチョ。新聞紙を広げた上に椅子をおいて、ポンチョ姿のスバルを座らせる。
静かな部屋に響く、シャキシャキとリズムの良いハサミの音。
指の間に挟んだ銀髪のような白い髪は、見かけによらず柔らかい。どこか懐かしいシャンプーの匂いが、ふわりと鼻をくすぐる。
スバルの髪を切るのは、久しぶりだ。かつては当たり前だった日常の光景。
けれど最近は、僕は塾の講習、スバルは月詠の訓練と、違う時間を過ごすことが多くなっていた。
「そういやこの間、月詠の部内対抗戦があってさ。俺、自幻流の六つ上の先輩相手に、めちゃくちゃ粘って旗判定まで持ち込んだんだぜ」
顔を見なくても、彼が得意満面にニヤついているのが手に取るようにわかる。
「自幻流って……あの、竹刀ごとへし折るっていう、あの荒っぽい流派? よく無事だったね」
「まぁな。結局一対二で負けたけど、先輩たちがみんな『すげえ』って言ってくれたんだ」
「それは本当にすごいよ。六つ上っていったら、シオン兄さんのひとつ下じゃないか」
最後に髪をまんべんなく梳かし、ポンチョを外す。仕上げに着けるのは、プレゼントのチョーカー。
スバルは新聞紙の上をそっと歩き、鏡の前に立つ。部屋に広がる、油分の混ざったインクの匂い。
「『後ろのほう、こんな感じでいかがでしょうか』」
手鏡を合わせ鏡にして後ろを見せてやり、美容師の真似事をする。
「おっ、良いね! チョーカーもカッコいいし、これで明日の入隊式は決まったな!」
二人で、顔を見合わせて笑う。
幸せだったのは、おそらくこの瞬間が、最後。
月詠になれば過酷な任務が待っている。恐らく千鳥も使うだろう。
僕の霊力が、少しでも彼を支えることができるのなら。
このお守りがきっと彼を守ってくれる。
そう信じて、疑う術すら知らなかった。




