第2話 十六夜白露
掌からこぼれ落ちたのは
敵の命か
昨日までの自分か
浄界庁・執行部、第一会議室。
投写機によって映し出された地図を前に、情報管理局の職員が無表情で報告を読み上げている。
空中の塵を照らしながら壁にぶつかる光は、日に焼けた藁半紙のようだ。
「被害者が脳死状態であったことから、澱による攻撃を受けたことは間違いありません。個体数は二。いずれも小型と思われます」
「……で、そいつらの向かった先は?」
問いかけたのは、執行部の精鋭部隊〈月詠〉の長、シオン。
軍服の襟を正し、チカチカと瞬く地図を鋭い眼光で睨む。その左目を覆うのは――漆黒の眼帯。
「目撃証言から、下層区の食糧庫に向かったと思われます。付近の住民には避難勧告を出し、現在は封鎖中です」
「――というわけだ。ハク。『十六夜白露』の初任務にはちょうど良いだろう」
彼の視線が、傍らに立つハクへと移る。
ハクは切れ長の目を書類に伏せたまま紙の端を指先でなぞり、静かに頷いた。
「分かりました」
「『分かりました』、じゃねえよ」
椅子の背もたれに体を預け、不機嫌そうな顔で毒突いたのは、リョウガだ。
浄界庁から支給された灰色の作業着は、彼には少し窮屈だった。隙間から覗く陽の名残を留めた精悍な肌だけが、くすんだ空気に満ちた室内で異質な熱を帯びている。
その首筋にぴったりと張り付くのは、鈍い光を放つ――〈霊鎖〉。
「急に呼び出したと思ったらなんだよ、いきなり。だいたい、人に話を聞かせるならこの首輪をどうにかしろ」
ハクは彼の無駄口を柳に風と受け流し、淡々と続けた。
「リョウガ。澱が人を襲う時は、必ずと言っていいほど脳の侵食を行います。通常の兵器では彼らの破壊行動を防げません、が……」
「『十六夜白露は違います』、だろ。聞き飽きたぜ」
「リョウガ。説明は最後まで聞け」
低く響く、シオンの声。
リョウガはその声に反応し、何かを思い出したかのように椅子を蹴って立ち上がった。
目の前の男が纏う、隙のない軍服。
左目を覆う、忌々しい黒い布。
あの雨の夜の、屈辱の瞬間が脳裏に蘇る。
「ああ、そうだ……思い出した。テメェあの時、俺をおかしな術でハメた野郎だな!」
リョウガの右手が腰の十六夜白露へと跳ねる。鯉口を切る音が響こうとした瞬間――。
「躾がなってないな」
シオンが眉間にシワを寄せながら、自らのこめかみに指を当てた。
「ぐ――あッ!!」
リョウガの体が、目に見えない巨人に押し潰されたかのように床へ叩きつけられた。
首輪の術印が発光し、激痛という鎖で縛り上げる。
「あ、がッ――はっ……」
「悪いな。霊鎖をコントロールできるのはハクだけじゃない。覚えておけ」
帝都第三居住区、最下層供給管理区画。
静寂に包まれた食糧庫は、湿り気を帯びた空気に満ちていた。土蔵の奥底に漂うような、重く沈んだ匂い。
重厚な鉄扉を蹴破り、リョウガが足を踏み入れる。
背後には技術開発部の制服を纏ったハク、そして月詠の数名が距離を置いて追従した。
「おい。なんだありゃ?」
眉間を険しく歪ませる。
広大な倉庫の奥、コンテナの影から姿を現したのは――二体のオオカミ。
しかし、それは生命の温もりを一切持っていない。泥を固めたような肉体、四肢からは煤のような煙が立ち上り、眼には赤い炎を宿している。
「あれが澱? 今まで見たのは、もっとこう……フワフワ浮いてるヒトダマみてぇなヤツだったぞ」
「それは澱の〈幼体〉です」
背後から聞こえてくる、ハクの抑揚のない解説。
「成体となった澱は、実在する生物を模して形を成します。見たところ狼に擬態していますから、それに準ずる特性を持っていると考えられます」
小さく舌打ちするリョウガ。白露に手をかける。
(斬れるのかよ、こんな影法師みたいな化け物を。また空振りになるんじゃねえか?)
獣じみた叫びを上げる怪異。
一体がリョウガの喉元めがけて飛びかかった。
「――くたばれ!」
思考より早く、刃を走らせる反射神経。
一閃。
白露の輝きが狼の頭部を確かに捉えた。
手応えはある。
だが、肉を断つ感触ではない。
両手に残るのは、泥の塊を一息に断ち斬るような、重く滑らかな余韻。
狼の首が半ばまで斬り裂かれ、黒い飛沫が舞う。
だが、澱は地面を転がりつつも瞬時に体勢を立て直した。
それどころか、傷口から煤が溢れ出し、瞬く間に肉を繋ぎ合わせていく。
「なっ!?」
リョウガは鮮やかな身のこなしで牙を回避し、胴を払い、脚を断つ。
しかし、いくら斬れども手応えだけを残して元の形に戻っていく。終わりのない徒労感。
彼の顔に、焦りの色が見え始める。
「これじゃキリがねえ! 斬っても斬っても――!」
「〈核〉を探してください」
抑揚のない、平坦な声で告げるハク。
「その個体から推測するにサイズは小さいと思いますが、体内のどこかにあります。球体です。破壊してください」
「それを先に言えよ!! って、『どこか』ってなんだよ!」
ヤケクソ気味の絶叫。
「どこだ! どこに隠してやがる!」
飛びかかってきた狼の顎を強引に掴み、胴体へ刀を突き立て力任せに薙ぎ払う。
裂けた断面。その奥深くに、一際禍々しく、だが宝石のように透き通った赤黒い珠が露出した。
「これか!」
核めがけて、切っ先を叩き込む。
パリン、と。
硝子が砕けるような、高い音。
消えゆく破砕音とともに狼は形を保てなくなり、灰色の煙となって霧散する。それはリョウガを包み込み、そのまま虚空へと消えていく。
「よっしゃ!――次!!」
コツを掴んだ彼の動きは、もはや「狂犬」そのものだった。残る一匹が背後から飛びかかるより早く、地面を蹴って踊るように回転する。電光石火の勢い。
流れるような一太刀で真っ二つに割られる胴体。
引き抜いた刃を返し、肉の間に埋もれた核を一突き。二体目は断末魔すら上げることなく、一瞬にして塵となって消え去った。
「……ふぅ。なんだ、わかっちまえば呆気ねえな」
肩で息をするリョウガ。
手元の十六夜白露が、一瞬だけ、鋭い銀光を放ったのを彼はまだ知らない。
幕が下り、食糧庫には再び倉庫独特の肌寒い静寂が戻った。
慣れた手つきで所轄の警吏と連携をとり、事後処理の指示を出す月詠隊員たち。
残されたのは、神剣をゆるりと鞘に収めるリョウガと、彼の様子を見つめるハクだけだ。
「終わったぜ」
汗ばんだ首筋を拭い、不遜に笑う。
だが、ハクはそれに応えることなく、そそくさと背嚢から手帳とペンを取り出した。
「リョウガ、いくつか確認させてください」
カチカチと忙しなくペンをノック。その先を手帳にあてる。
「あ?」
「質問に答えてください。貴方の名前は?」
「リョウガ」
表情は変わらず。サラサラと走る筆。
「貴方が持っている刀の名前は?」
「十六夜白露」
「僕が誰だか分かりますか?」
「……お前、俺のことをバカにしてるだろ?」
込み上げる苛立ち。だがハクの瞳に映る自分は、まるで飼育箱のモルモットか何かのようで――。
「いいから、真面目に答えてください。これもデータ収集の一環です」
「――ハク」
吐き捨てるように言う。
ハクは手帳から目を離さず、にべもなく問いを重ねる。
「ここは、どこですか?」
「帝都、下層の食糧庫」
「何故、ここに来ましたか?」
「ニ、ン、ム! もういいだろ!」
思わず声を荒らげる。
初めて手を止め、顔を上げるハク。
「では、質問を変えましょう。リョウガ、貴方が今朝食べたものは何ですか?」
「は?」
言葉が、止まった。
頭の中をまさぐる。
数時間前。独居房の中で、自分は何を口にしたか。
思い出そうとすればするほど、記憶の断片は掌からこぼれ落ちていく。
「そんなの、いちいち覚えてねえよ。興味ねえし」
「リョウガ。今朝、貴方は何も食べていません。朝食を抜いたという事実そのものが、貴方の意識から剥落しています」
ハクは事務的に、残酷な事実を突きつけた。
「何食ったか思い出せねえ奴なんて、いくらでもいるだろ」
乱暴に鼻息を荒くする狂犬。
「そうかもしれません。ですが、貴方が忘れていることは紛れもない事実です」
几帳面に手帳を閉じる。純白の制服のポケットにそれを収めると、リョウガの横を通り過ぎ、出口へと歩き出した。
置き去りにされたリョウガの腰で、白露が冷たく沈黙している。
その重みは、先ほどとは比べものにならないほど、ずっしりと感じられた。




