第1話 絞首台の狂犬
昨日笑った理由も
今日殺す理由も
すべては十六夜の向こう側
帝都の夜は、どんよりとした雨。
路面を叩く雨音さえも、不気味な静けさに飲み込まれている。
路地裏の袋小路。一人の屈強な男が立っていた。
名はリョウガ。
かつては帝国全土に名を轟かせた盗賊団の用心棒。
今は帝都を震撼させる人斬りの「狂犬」。
「ハッ……ハッ……」
全身を濡らす返り血が、雨に洗われて朱色に変わる。リョウガの体は、蒸気が立ち昇るほどに熱い。
すでにその身は満身創痍。「標的」の私兵が放った無数の毒針が肌を抉っている。彼らの捨て身の攻撃は、四肢を確実に消耗させていた。
刀を振るう度に視界は霞み、指先の感覚は、まるで他人のものだ。
「ひ、ひィ……! 寄るな化け物ッ!」
最後の生き残りであり、今宵の「獲物」でもある汚職官僚が、腰を抜かし泥の中を這いずり回る。
「ま、待て!! 殺さないでくれ! 金なら出す、いくらでも出す!」
リョウガの耳には何も入ってこない。男が何やら喚いているのはわかるが、その声は鼓膜を素通りしていく。
聞こえてくるのは、ドッ、ドッと重く響く、自身の荒々しい心拍音。
「うるせぇ……」
男が隠し持った短銃を懐から抜こうとした瞬間、リョウガが跳ねた。毒に侵された肉体を、無意識の殺意だけで駆動させる。
――斬。
引き金が引かれるより早く、彼の得物が男の喉笛を鋭く斬り裂く。雨を割る鮮血の線は、闇夜に光る花火そのもの。
彼は小さく血振りをすると、剥き出しの刃を雨に当てたまま静かに歩き出した。長い襟足からポタポタと雫が滴り落ちる。
濡れた柄を握る指には、血糊がべっとりとまとわりつき、拳は小刻みに震えている。
「くそっ、止まりやがれ……」
直後、彼の頭上の空間が真空へと転じ、大きく歪んだ。
「総員、全霊を注げ!」
暗がりに響く号令。
浮かび上がる、白銀の幾何学模様。それらが完全な円を構築すると、眩い光の鎖が現れ、逃れようのない速度でリョウガの五体を絡めとる。
「ぐあ、あーーッ!!」
抗うことのできない、魂を削られるような感覚。強靭な神経が、音を立てて断線する。
膝を折った彼の前に、陰雨の向こうから一人の男が現れた。
黒い軍服。襟元には金糸の刺繍。
深く被った外套の影から垣間見えるのは――隻眼。
「貴様一人を止めるのに、術式まで持ち出す羽目になるとはな……まぁいい。これでお前も年貢の納め時だ。狂犬」
どれほどの時間が過ぎたのだろう。
血を舐めたような鉄の匂いと、黒く淀む湿った空気。そして、肌を刺す残痛。
リョウガが目を開けると、そこは牢獄だった。
首筋には、くすんだ光を放つ金属の首輪〈霊鎖〉が食い込んでいる。
チカチカとした微弱な衝撃が脳に流れ込み、思考を寸断し目の前を霞ませる。その雑音を無理やりねじ伏せ、顔を上げた。
「おや。意識が戻りましたか」
鉄格子の、向こう側。
ぼんやりとした淡い灯の下に、一人の青年がパイプ椅子に座っていた。厚い専門書を、音もなく静かに閉じる。
純白の、塵ひとつない制服。
知性を湛えた切れ長の瞳。
掃き溜めに鶴というべきか。カビ臭い監獄に、違和感たっぷりに存在する「清潔感」を纏った男。
「驚きました。霊鎖をはめられて自力で起き上がったのは、貴方が初めてですよ」
「……誰だ」
声は弱々しく掠れたが、両の目だけは檻に閉じ込められた獣のようだ。
青年はおもむろに立ち上がり、こう続けた。
「僕は久遠寺コハク。浄界庁・技術開発部で主任を務めています。貴方の『新しい飼い主』と言えば分かりやすいでしょうか?」
言葉が紡がれる度に漂う、薄荷の香り。錆臭い空気のなかで、不釣り合いな存在感を示す。
リョウガは乾いた笑いを漏らし、鋼の隙間から彼を睨みつけた。
「くっだらねえ。さっさと殺せ。お前みたいな指一本汚したこともないような野郎と話すことなんざ、何もねえ」
「それは困りましたね。僕は貴方と契約をしに来たのですが」
コハクは傍らに立て掛けていた細長い漆塗りの木箱を、壊れ物を扱うように恭しく格子の手前に置いた。
「リョウガ、貴方は『澱』という存在を知っていますか?」
「知ってるさ。何度か斬ったが……あれはダメだ、手応えがねえ。雲を斬ってるようなもんだ。人間がどうこうできるもんじゃねえ」
「正解です。澱は本来、拘束した上で浄化術を施さなければ消滅しません――ですが、これは違います」
ゆっくりと箱の鍵を解き、蓋を開ける。
現れたのは、一振りの日本刀。
鞘に収まってもなお、肌を刺激してくる殺気。
コハクは親指で静かに鍔を押し上げる。わずかに覗いた刀身。
――妖刀。
その呼び名が、これほど相応しく思える代物はない。
異彩を放つ銀光。刀そのものが意志を持ち、使い手の魂を品定めしているかのよう――。
「この『十六夜白露』は、澱を完全に消滅し得る、この世で唯一の武器です」
あまりの美しさと妖しさに、リョウガは目を釘付けにされた。
人斬りの本能が、その刃の異常性を察知し訴えかけてくる。この一振りを手にする、代償の大きさを。
警告を無視して、彼の手は無意識に刀に伸びていく。これが「取り憑かれる」というのだろう。
震える指先が鞘に触れようとした――刹那。
「おっと。まだお預けです」
コハクは己のこめかみに細い指先を当てる。
「が――あァ!!」
リョウガは重力が増したかのように身体を床に縫い付けられた。
霊鎖に刻まれた呪印が、ドクン、ドクンと不気味な鼓動を打つ。そこから染み出してきたのは、黒く濁った赤光だ。
術者はその姿勢を崩さぬまま、冷徹な瞳でリョウガを見下ろす。
「いいですか、リョウガ。この刀を使うにはリスクがあります。十六夜白露は、対価として使い手の『記憶』を喰らうのです」
「き……記憶?」
「ええ。戦えば戦うほど、貴方の脳から記憶が剥がれ落ちていく。神の力を振るう代償です」
そこで言葉を切り、端正な唇の端が三日月のような弧を描いた。憐憫と冷笑が混ざり合った、酷くシニカルな微笑。
「もっとも、剣の振り方まで忘れてしまっては、本当にただの狂犬になってしまいますが」
リョウガは激痛に耐えながら、歪んだ自嘲の笑みを浮かべた。
「上等だ。どうせ鬱陶しい過去ばかりだ……よこせ」
「いい返事です。では、めでたく契約成立ですね」
コハクは霊鎖の出力を緩めると、十六夜白露をリョウガの膝前へと静かに滑らせる。
そしてすっくと立ち上がると、舞台役者が終演を告げるように、片手を胸に、もう片方の手を背後に回して深々と頭を下げた。
「僕のことは『ハク』と呼んでください、リョウガ。ようこそ、浄界庁へ」




