第14話 高周波の調律
日不見鍾乳洞を囲む、国立公園。
残暑とは思えない強烈な日差しが降り注ぎ、湯気のような陽炎がゆらゆらと揺れている。
売店の濃い木陰から、ハクは軽快な足取りで階段を降り、チケット売り場まで進んでいく。
そこで一度立ち止まり、リョウガと目を合わせると、クイと顎でついてくるよう促した。
ハクが向かったのは、その向かいにある団体客用の待機スペース。
広い空間を確保すると、追いついてきたリョウガだけを招き入れ、背後のナナセたちには、『ここで止まれ』と手のひらを見せて制した。
「なに始めるんだ?」
髪にこびりついた汚れを払い落としながら、怪訝そうに尋ねるリョウガ。
ハクは答えを返さず、ナナセたちの位置を一瞥すると、彼らからリョウガの顔が斜めに見えるあたりを狙って、土の地面に踵を打ち付けた。
「ここに立ってください。右足は、この線です」
少しずつ後退しながら、足で一本の直線を引く。そこから正確な歩幅で数歩離れると、クルリと顔だけこちらに向けた。
「僕の……そうですね、背中に当てるつもりで、思い切り素振りをしてください」
見守っていた月詠の面々からざわめきが漏れる。
流石のリョウガも十六夜白露の柄を掴んだまま立ち尽くした。
「素振り?……白露で、か?」
どう見ても白露の間合い。
「はい。とりあえずやってみましょう」
「いや、当たっちまうだろ。駄目だって」
たじろいで後退りするリョウガに、ハクは苛立ちを隠さず口角を下げる。
「あー、もう! 動かないでください」
トコトコと小走りに近寄ると、リョウガの腕を掴み、強引に元の位置へと引き戻した。隊服の袖に食い込んだ指先からは、信じてくれという思いが伝わってくる。
「大丈夫です。あなたの間合いは完璧に把握してますから。安心してください」
耳元で囁くような。
けれど、絶対の自信を含んで。
ハクは再び等間隔に歩を進め、無防備な背中を晒す。
「まっすぐ、僕の頭に向かって。しっかり最後まで振り抜いてください」
不安げに、眉を八の字にするリョウガ。
隊員たちの「正気か」「どうかしてる」と囁く声。しかし、ナナセだけは腕をガッシリと組み、沈黙を守ったままその光景を見据えていた。
状況を面白がるように薄く笑いながら、一人遠巻きに眺めるのは――ミナトだ。
「面白いことになってきたね」
リョウガが意を決したように、白露をゆっくりと引き抜く。
「本当に、行くぞ。良いんだな?」
右足を線に合わせ、左足を斜め後ろへ。半身の構えを取る。
それを確認すると、ハクはおもむろに隊服のボタンを外し、肩までだらりと着崩した。袖を振り、指先を隠すようにして垂らす。
「やべっ! なんかやらかす気だ!」
ミナトはハクの意図を察し、慌てて仕草を模倣する。
ハクが袖の先を耳の後ろに当てて保護するのが見えると、自分も同じように覆うのだった。
静寂の中で、ハクの落ち着いた静かな声が響く。
「良いですよ。どうぞ」
彼の白い首筋が、リョウガから少しだけ見える。なだらかに落ちた肩。上着を繋ぎ止めておくにはあまりに頼りない。
(「だらしねえ」って人には言うくせに、お前もやってるじゃねえか……)
――ヒュン。
リョウガの刀が空を切り、ハクの後頭部の毛先がわずかに揺れた。
直後、不満という言葉以外例えようがない顔のハクがズンズンと近づいてくる。
「動きましたね」
描いた線からわずかに下がった位置に、気まずそうに置かれているのは――リョウガの右足。
「何度も同じことを言わせないでください。ここから動かないで。それと、今のは完全に手抜きです。渾身の一刀、お願いします」
堪りかねた一人の隊員が、ナナセに耳打ちする。
「止めなくていいんですか」
だが、彼の返答は意外なものだった。
「久遠寺には、何か考えがあるようだ。やらせてみよう」
それを視界の端で目撃したミナトは、目を丸くして肩をすくめる。
(あれまぁ。ナナセさんまですっかりあの二人に毒されちゃって……)
ハクは定位置につき、背中を向けた。
「お願いします」
リョウガが再び線の上に立つ。
それまでの戸惑いが消え、鋭い眼差しがハクの背中を捉えた。深く吐き出された呼気が、大気に溶ける。
白露をまっすぐに振りかぶり――。
目にも留まらぬ速さで、正中線を一閃。そこには、風切り音すら存在しない。
次の瞬間、一拍遅れてやってきた超高周波の残響が、耳鳴りとなって周囲を襲う。
脳を直接掴んで揺らされていると錯覚しそうなほどの、衝撃波。思わず耳を塞ぎ、顔を歪める隊員たち。
刃の軌道上に跳ね上がったハクの後頭部の髪が、わずか数本、カミソリで削がれたように切り落とされ、ハラリと地面に舞い落ちた。
「ッ、っはあーー!」
呼吸を忘れていたリョウガが、肺に溜まっていた空気を大きく吐きつくす。
「なるほどね……お見事!」
耳を塞いでいたお陰で難を逃れたミナトは、袖を戻して手を叩く。
顔をしかめていたナナセの体から力が抜けていく。冷や汗びっしょりの手で額を覆い、大きく仰け反った。
ハクは隊服を着直すと、指先で髪の感触を確かめる。そして今日一番の満足げな笑みを浮かべた。
「良いですね。では、実践といきましょう」
リョウガを労い、その肩をポンと叩く。我慢の限界を迎えたナナセが、二人に向かって怒鳴りつけるように歩み寄ってきた。
「とりあえず、説明をして、もらおうか」
乱れた隊服の襟を丁寧に整えるハク。狂気の沙汰の直後とは思えないほど柔らかな手つきだ。
「歩きながら、説明しましょうか」
チケット売り場の脇にある、錆びついた鉄製の階段を降りる。下った先は清流を渡る吊り橋だ。
先頭はミナト。頭の後ろで手を組み、足元に落ちている小石を蹴飛ばしながら歩いていく。
ハクは並行して歩くナナセに時折目を向けながら、説明を始めた。
「リョウガの素振りと、この隊服の特性を利用して、コウモリの群れを一時的に機能不全にします」
「……あ?」
二人のすぐ後ろで、リョウガが間の抜けた声を出す。救いを求めるようにナナセを見たが、彼も口を閉ざしたままだった。
「ご覧になってわかったと思いますが、リョウガの渾身の一刀は常軌を逸したエネルギーがあります。それをこの隊服で受けることで、高周波を発生させます」
「コウシュウハ……」
リョウガは無意識に反復するが、ナナセが振り返って口の前に人差し指を立てた。
「わからなくなるから、途中で茶々を入れるな」
「へーい」
露骨に口をへの字に曲げるリョウガを見て、ハクがクスリと笑いながら続けた。
「コウモリは超音波を使って飛ぶ生き物。高周波を洞窟内で発生させて、コウモリを混乱させます。その隙に僕とリョウガは深層部に向かいます」
すると、ミナトがくるりと振り返り、真っ直ぐに片手を挙げた。
「はい、質問!」
ハクが視線だけをそちらへ向けて、小さく顎を引く。許可を受け取ったミナトが口を開いた。
「でも、それで入口んトコにいる奴らをかわせたとしても、もっと奥にまたウジャウジャ居るかも知れませんよ? それでまた素振りなんかする余裕、あります?」
ハクはわずかに目を細め、柔らかい温度で、「良い質問です」と呟いた。
「日不見鍾乳洞の規模を考えればコウモリの数はだいたい二千から三千。ミナト君の見立てが正しければ、殆どが入口の『防衛隊』に回っている計算になります」
ミナトは階段の終わり際、残りの二段をまとめてピョンと飛び降りる。トン、と小気味いい音を立てて床に着地すると、こちらを振り返った。
「つまり、ここさえ突破できれば、あとはラスボスしかいないと」
「そういうことです」
返事を聞いたミナトは前を向いて吊り橋を渡り始めた。細い吊り橋は、彼が乗っただけでグラグラと揺れる。
「ちょっと待て」
置いてけぼりを食らっていたリョウガが、眉を逆立てて割って入る。
「隊服に当てて、なんで高周波とやらがでるんだ?」
リョウガの素朴な疑問に、月詠は互いに顔を見合わせながら、橋を渡り始める。
ギシギシと鳴る足場をゆっくりと進みつつ、ハクは自身の隊服の袖を指で弾いた。
「月詠の隊服が特別な作りになってるのは、皆さん御存知ですよね?」
間抜けな顔で頷く一同。
ハクはロープに手をかけて後方に身体を向ける。頭上に居座るのは、遠慮を知らない太陽。手の甲で汗を拭うと、胸元を掴み、パタパタと波打たせて風を中に入れる。
「隊服の生地は、着ている人間の霊力に反応し、繊維を構成する分子が常に震えています。そして、外部から受けた霊力は着用者には通さず、繊維を伝って外へ逃がす構造になっています。」
「全然わからねえ……」
肩を落とすリョウガを、苦笑いをしたナナセがたしなめる。
「とりあえず黙って聞いていろ。お前は聞くよりやってわかるタイプだ」
前を行くミナトが、呆れたように首を振って翻訳を引き受けた。
「つまり、リョウガさんの斬撃のエネルギーを、隊服が『音』へ変換するってことですよね?」
「その通りです」
ハクは橋を渡り切ると、湿り気を含んだ石造りの階段を上り始める。段差を下ってこちらに流れ込んできたのは、ひんやりとした冷気。濡れた岩と生臭い獣の匂いが鼻を突く。
「理屈は、わかった」
ナナセが苦虫を噛み潰したような顔で、ようやく重い口を開いた。
「だがな、久遠寺。何故わざわざあんな距離で、しかも背中で受けた? 一歩間違えばお前は背中を真っ二つにされていたんだぞ」
「単純に、ピンポイントで受けるためです。胸より背中の方が表面積が広いですしね。それに――」
階段を上った先は少し開けた場所になっており、大きな口を開けた洞窟が待ち構えていた。
縦書きで『日不見鍾乳洞』と書かれた看板。掠れた文字が独特の不気味さを醸し出している。
「僕の見立てでは、リョウガの一刀でコウモリの動きを止められるのは約十秒、最悪……五秒です。その一瞬で鍾乳洞の深部まで駆け抜けなければなりません」
そこまで話すと、ハクはわざとらしく明後日の方向を見て、前髪を指で伸ばし目を隠そうとした。
「リョウガの脚力なら問題ありませんが、僕は残念ながらそれほど速くはありません。リョウガの前に立っていなければ、間に合わないんです」
聞き終えたナナセは「ならば我々も――」と言いかけたが、直ぐに口を閉じた。
(ここでなまじ手を出して、図書館の時と同じ轍を踏むわけにはいかない)
この無謀な作戦の鍵を握るのは、この二人の連携だ。自分たちが出て行けば、足手まといになりかねない。
壱番隊を引き連れておいて討伐に参加しないなど、通常であれば受け入れられない。
しかし今は意地を捨て、彼らに委ねるのが最適解ではないか。
「了解した。ここはお前たち二人に任せて、我々は待機しよう。だが、絶対に無理はするなよ」
「ありがとうございます」
ハクは素直に返事をすると、鍾乳洞の入口に向かい、そっと洞窟の中の様子を伺った。外の光が届くか届かないかの境目あたりで、既にコウモリが何匹もフラフラと飛んでいる。
リョウガは後頭部をボリボリと掻き回し、面倒くさそうに吐き捨てた。
「よくわかんねえけど、コウモリ共を相手にしないで済むなら大歓迎だ」
「――リョウガ」
改まった顔つきでナナセが声を掛ける。
「お前の腕は確かだ。それは間違いない。久遠寺の期待にしっかり応えてやれ」
「おう、気張ってやるぜ!」
エールを送られ、軽くサムアップ。すると早速ハクからお呼びがかかる。
「リョウガ、こっちに来て下さい」
「なんだ? もう始めるか?」
飼い主に呼ばれた「狂犬」は地面を蹴って飛んでいく。
「ええ、でもその前に。中はかなり滑ります。足元には十分気を付けて。進行方向は誘導灯の灯りに沿って下さい」
洞窟内に点々と続く、観光客向けの緑色の誘導灯。まるで底なしの冥府へ誘う鬼火のように、暗闇の中で浮かび上がっていた。
ハクの指が地面のコンクリートを指し示す。
「貴方のスタート位置は、あそこ。コンクリートが途切れた、黒い岩盤との境界線のところです。あそこなら天井に余裕があって白露を振れますから、あそこにしましょう。更にその奥、黄色い看板が見えますか?」
「ああ。『頭上注意』ってやつだろ?」
小さく頷くハクの顔。
「そうです。僕があそこに立って、耳を覆ったら直ぐに振ってください。タイミングはおまかせします」
「おう、任せとけ」
リョウガの意気込みを聞くや、ハクはナナセたちに向かってスッと手を上げた。
鍾乳洞の入口へ向けて、音もなく足を踏み入れていく。白露を抜いたリョウガの足音があとに続く。
その一部始終を、ナナセは真剣な眼差しで見守っていた。
不意に、背中の隊服がぐいっと後ろに引かれる。のけぞりながら振り向くと――ミナトだった。
ナナセの服の裾を掴んだまま腰を落とし、脇腹のあたりからひょっこりと覗き込んでくる。
「俺、ついていっちゃダメですか?」
上目遣いで、悪戯っぽく微笑む。ナナセは煩わしそうにミナトを見下ろし、ため息交じりに答えた。
「お前の俊足ならついていけるだろうが……二人の邪魔はするなよ。見聞役に徹しろ」
「ナナセさんが言うと説得力あるなぁー」
わざとらしく肩をすくめて皮肉ると、ナナセの額に青筋が浮かんだ。
「お前は一度、お灸をすえてやらねばならんな……」
「怖っ!」
芝居がかった悲鳴を上げるミナト。しかしナナセの表情は、「壱番隊隊長」としての顔に素早く切り替わる。
「ミナト。万が一、久遠寺とリョウガが無力化された場合は、お前だけ戻ってこい」
ミナトの顔から笑顔が消えた。
彼は無言のまま、左の掌で自身の利き目である左目をそっと覆った。これから向かう暗闇の任務に備え、外光を遮断する。
そして、ひとつの文言を静かに暗唱した。
「『見聞役は、生還が鉄則』――でしょ?」
「そうだ。『自分が何とかしよう』などと、不遜な考えは起こさないことだ」
それまでの軽薄な笑みが嘘のように消え去り、瞳には冷徹な刃のような光が宿る。
片目でナナセをまっすぐに見据えたまま、ミナトは静かに吐き出した。
「わかってますよ」
少年の皮が剥がれ落ち、そこには一人の月詠が立っていた。
「望月ミナト、行ってきます」
上官に素早く敬礼すると、ミナトは弾かれたような速さで洞窟の闇へと吸い込まれていった。




