第15話 血塗れの誓約
ミナトは走っていた。
目隠しをしていた効果は覿面。夜目はしっかりと効いている。
視界は良好だが、足元がとにかく滑る。それに加えクネクネと左右に曲がった通路と、不規則な天井の高さ。ひんやりとした空気を切り裂いて、細かいステップを踏む。
スタートのタイミングがわからず、完全に出遅れた。二秒近くロスしたかもしれない。リョウガの姿はすでに見えなくなっている。
洞窟の奥へと凄まじい勢いで遠ざかっていく狂犬の爆発的な足音は、鍾乳洞に飛び込んだ直後はよく聞こえていた。岩壁を叩くような力強い残響。だが、またたく間に迷宮の奥へと吸い込まれていってしまった。
天井の割れ目にはコウモリがびっしりと張り付いていて、漆黒の塊が押し込められているように見える。仲間に押し出されフラフラとあたりを飛んでいるものもいる。
キーンと高音で脳内に響く耳鳴り。唾を飲み込んでやり過ごしているが、しばらくは治りそうにない。最後尾だから大丈夫だろうと高を括っていたが、想像以上にしんどい。
狂犬の、渾身の一刀。
ハクは「機能不全にする」と言っていたが、蓋を開けてみれば、コウモリたちはまさに「正気に戻った」。
大きな影のようにうごめいていたコウモリの大群は、隊服の音響にさらされた瞬間、催眠術から解き放たれたのだ。平時の穏やかな姿――とまではいかなかったが、少なくとも敵意は感じられなかった。
高周波が行き届かなかった一部のコウモリが襲っては来たが、脅威という程ではない。斥候で侵入したときとは雲泥の差だ。
しかし、この状態がいつまでも続くという保証はどこにもない。いつまた彼らが「洗脳」されるかわからないのだ。
五秒ほど走り過ぎると、コウモリの姿は疎らになってくる。
刹那、闇の向こうから響いてきたのは、少し重い足音。バシャバシャと濡れた地面を必死に蹴っている。恐らくハクだろう。
姿は見えない。しかし角を曲がるたびに、荒い息遣いと、靴底が滑る不規則な音が確実に近づいてくる。リョウガに抜かされて、一心不乱にその背中を追っているに違いない。
おおよそ十秒経過したところで走るのをやめた。ハクの足音はどんどん遠ざかっていく。
(タイムアップじゃないのか? それとも、行けるとこまで行く気なのか?)
少し無機質でツンとした鉱物系の匂い。入り口の獣臭や糞の匂いとは違って、鍾乳洞の中だと否が応にも自覚させられる。
上がった息を整え、入り口の方に向けて耳を澄ますと、コウモリの羽音やキキキという威嚇音が聞こえてくる。
さっきまでとは明らかに違う、荒々しい音だ。
(催眠術が上書きされてまた暴れ出したか? でも、ここまで来たら前に進むしかない)
もう少し進めば、開けた場所に出られそうだ。おそらく澱はそこにいる。
ズカズカと入り込んで二人の邪魔をするわけにはいかない。
(ここは慎重に行きますかね)
岩壁に手を添えながら、ゆっくりと歩を進める。急勾配の下り階段を降りると、ドーム状の広場に出られるらしい。
よく見ると、階段の途中にリョウガが、降りた先の石柱の影にハクがいた。天井から伸びた鍾乳石が、宮殿を支える巨大な柱を想像させられる。
腰をかがめてリョウガのところまで近づいていくと、彼はヒョイと振り向いた。
「後ろから誰かついてくるなと思ったら――ミナト、お前だったのか」
「見聞役としてついてきました。で、ハク先輩はあそこで何を?」
「広場にいるはずなのにいねえからさ、澱が。様子を見に行ってる。俺は『飛び出せばむこうから出てくるだろ』って言ったんだけど、『上からも探せ』ってさ」
ミナトは静かに立ち上がり、ドームを見下ろす。中央の巨大な岩は青白いライトで照らされているが、広場全体はかなり薄暗い。
「目撃情報は『巨大なコウモリ』ですからねえ。流石に居たらわかると思うんですけど……」
「あー、めんどくせえ。行ってくるわ俺」
スタスタと階段を降りていくリョウガ。
ミナトは間を取るために留まった。ここからの方が二人の動きが見やすいだろう。
リョウガがハクの背後に静かにしゃがみ込む。振り返ったハクは、安堵したような顔を見せた。
「良いところで、降りてきてくれました」
「どした?」
ハクはリョウガと視線を合わせたまま、おもむろに天井を指さした。
見上げると、黒い岩石のドーム型の天井が広がっている。
「天井、だな」
「よく見て下さい。二時方向」
指定された場所を見るが、黒い岩にしか見えない――が、瞬きを我慢して目を見張ると、その一部は、数秒に一度、数センチだけゆっくりと膨らみ、縮んでいる。
「いたっ――」
ハクの手のひらが、彼の口を覆う。リョウガはそれを払いのけるでもなく、大袈裟に瞬きして彼を凝視した。
「……静かに」
そっと、手を離す。
口をすぼめて間抜けな顔のリョウガが、コソコソと喋る。
「全っ然、気づかなかった。よくわかったな」
「貴方が来る少し前に僅かに羽を動かしたので、わかりました」
二人は揃ってもう一度確認する。
岩肌と思われた天井は、ぬるりと黒く光る皮膜だった。突き出たトゲのようなものは、耳にあたる部分なのだろう。
「折角じっとしてるんだ、今のうちに千鳥で囲っちまえば良いんじゃねえか? 仕留めたいんだろ?」
「そうしたいのは山々ですが、敵の全体像を確認しないと。千鳥は澱の全体を檻に入れないと機能しませんから」
「じゃあ、真っ向勝負だな」
不敵な笑みを浮かべ、十六夜白露を握る。
しかし、ハクは「待って」と言わんばかりに、そこに自分の手を重ねた。
「敵は今までに相手にしたことのない、飛行タイプ。きちんと戦略を立てましょう」
「おう」
「むこう側の出口、見えますか? そこへ向かって天井が段々と低くなっています。白露が届くように、そこへおびき寄せましょう」
不服そうに口角を下げるリョウガ。鬱陶しそうに両肩を交互に回す。
「なんか、チマチマした作戦だな」
「おびき寄せるのは僕なんですから、文句を言わないでください」
「お前がひきつけて、俺が斬るんだな」
「その通りです。リョウガ、今こそ訓練の成果を発揮する時です。『パターンC』ですよ」
「パターン……」
相棒の反応の悪さ。意気揚々としていたハクは、深くため息をついて肩を落とした。
「僕が先行して囮になるパターンですよ……」
「『お前が囮になるパターン』だな。最初からそう言ってくれれば良いんだよ」
「……まぁ良いです。僕が引きつけるので、羽を斬ってください。片側だけで十分です。落下したところを千鳥で仕留めます」
リョウガが何かを思い出して、ハクの肩をポンポンと叩く。
「あ、そうだ。ダメだハク。千鳥は使えねえ」
途端にムッとするハク。
「何故ですか。まさか今更兄さんがどうのとか言い出すんじゃないでしょうね」
「違う、違う。後ろにミナトが――」
そう言いかけた瞬間、凄まじい暴風が襲ってきた。思わず身体を丸める二人。
頭上には巨大なコウモリが羽ばたいている。風というより空気の塊に押し付けられるような圧力。巻き上げられた小石や砂が、容赦なく二人を叩きつける。
それでもハクは体勢を低くして、柱の影から抜け出そうとする。
「リョウガ、パターンCです――行きますよ!」
「おい、待て! 無茶するなって!」
風に煽られてよろめきながら、出口を目指すハク。彼の背中に向けて敵は翼を大きく振り下ろした。
爆風に足元をさらわれながらも、懸命に前に進む。敵の追尾を確認しようと振り向いた瞬間、身体がフワリと宙に浮き上がった。勢いよく岩肌に打ち付けられるハク。
「うあッ!」
相棒の悲鳴で、リョウガの目の色が変わる。
「ハク!! てめえ、ぶっ殺す!!」
目にも留まらぬ速さで抜刀。滑る床をものともせず、思い切り踏み込んだ。体ごとコウモリにぶつかるように、巨体の懐へ一気に飛び込む。
翼に向けて一閃が走る。怯んだところに追撃の一太刀。
彼の動きにあわせて、銀色に瞬く刀身。
澱は煤を撒き散らしながら力なく地面に落下し、リョウガは勢いのまま胴体を白露でえぐろうとする――しかし。
「リョウガ下がって! そこにいると出力が落ちます!」
絶叫とも言える声に、反射的に顔を上げる。
体勢を立て直したハクが素早く術式の印を組みながら、「下がれ」とばかりに、顎の先で後方を鋭く指し示している。
飛びのけるリョウガ。頭上ではすでに千鳥の「檻」は完成しており、今まさにコウモリに覆い被さろうとしていた。
ハクの顎から汗が落ちる。
(想像よりかなり大きい……しかし、この程度の敵を倒せるようにならないと、「スバルの虎」は倒せない!)
固める決意。
「――千鳥!!」
金色に輝く光のカーテンが、静かに降りてくる。
「嘘、だろ……」
一部始終を見ていたミナトは、茫然自失で立ち尽くした。
(千鳥……隊長の許可は取ってるのか? 聞いてないぞ)
階段の手すりから身を乗り出して、ハクの秘術を見つめる。発光するビロードのカーテンがミナトの目を刺激し、思わず顔をそむけたくなる。
(すげえ光……隊長の千鳥とは全然違う……檻に歪みがない)
やがて檻の中の澱は黒い煤となり、胴体に座していた核がゴトンという音を立てて岩畳に転がった。
「これが、本当の千鳥……」
意図せず口からこぼれ落ちる。
しかし次の瞬間、視線の先で立っていたハクが、ガクリと膝を折り、そのまま横倒しになった。
「おいおいおい――ヤバいんじゃないかコレ!」
大慌てで階段を降りる。最後の数段を飛び降りて着地し、ハクに駆け寄った。
「ハク先輩!!」
上体を抱きかかえると、ハクは悶絶しながら両目を手で覆っている。指の隙間から流れるのは――鮮血。
息を呑むミナト。
「先輩、しっかりして! リョウガさん、ハク先輩が!」
ハクを抱きかかえたまま、後方にいるはずのリョウガへと振り向く。
そこには呆けた様子で座り込んでいる、リョウガの姿。大口を開けたかと思うと、突然盛大なくしゃみをした。
「さ、寒っ! ここどこだ? 洞窟? あ、そうか……だから寒いのか」
異様な反応。ミナトは背筋が凍りつくのを感じた。
「リョウガさん――」
「あぁ、お前……月詠の。えっと……あれだ、お前だ。お前、なんでこんなとこにいるんだ?」
(まさかリョウガさん……記憶が……)
歯が勝手にガタガタと震える。
自分では抑えられない。止まらない。
「なんだ……やだなぁ。とうとう俺の名前まで忘れちゃったんですか。酷いなぁ……酷い――」
不意に、腕を強く掴まれて身体が跳ねる。
ハクだった。
両目から血を流し、鬼の形相でこちらを睨んでいる。驚きと恐ろしさで、目が離せない。
「ここで見たことを……誰にも話しては、いけません」
痛いほど力を込められ、隊服の袖を通して鈍い湿り気が染み込んでくる。漂ってくるのは、鉄錆にも似た血の匂い。
「でも、先輩――」
「口外したら、殺します」
脅しでもハッタリでもない。
これは、予告だ。
言葉を失ったミナトは黙って頷くしかなかった。




