第4話あなたに名前を。
少年が屋敷に運び込まれて5日…ミラベルは今日も見舞いに訪れていた。
少年が屋敷へ運び込まれてから、五日が過ぎた。
アルヴェイン侯爵家お抱えの医師たちの懸命な治療と、ミラベルとユリウスが施した治癒魔法のおかげで命の危機は脱したものの、少年は深い眠りから覚めないままだった。
その間、ミラベルは毎日欠かさず彼の部屋を訪れていた。
(…今日もよく眠ってるわね)
窓辺には朝日が差し込み、穏やかな風が白いカーテンを揺らしている。
ベッドに横たわる少年の顔色は、初めて会った時とは比べ物にならないほど良くなっていた。
ミラベルは椅子に腰掛けると、濡らした布で少年の額を優しく拭く。
「本当に良かった…。」
あの日のことを思い出すだけで胸が締め付けられる。
もしユリウスが駆けつけるのがあと少し遅かったら。もし治癒魔法が間に合わなかったら。
この少年は、きっと――。
(…そんな未来にはしない)
自分に言い聞かせるように今一度心の中でそう思った、その時だった。
「…ん。」
小さな声が聞こえた。
「!」
少年の指先がぴくりと動く。
ゆっくりと瞼が震え、閉じられていた瞳が少しずつ開いた。
琥珀色の瞳だった。ぼんやりと天井を見つめ、やがて視線がミラベルへ移る。
「…ここ…は?」
掠れた声。ミラベルは思わず立ち上がった。
「目が覚めたのね!」
少年は驚いたように目を見開く。
「あなた…は?」
「よかった…!私はミラベルよ!あなたに助けられた!」
ミラベルは心の底から安堵した。
その声を聞きつけた使用人が医師を呼びに走っていく。
診察を終えた医師は満足そうに頷いた。
「傷は順調に塞がっています。しばらく安静にすれば歩けるようになるでしょう。」
侯爵夫妻も部屋を訪れ、少年の快復を喜んだ。
「君が娘を救ってくれたそうだ。」
ミラベルの父が穏やかに言う。
「心から礼を言う。」
「い、いえ!」
少年は慌てて起き上がろうとしたが、痛みに顔をしかめた。
「無理しないで。」
ミラベルの母が優しく制する。
「ここでは安心して療養していいのですよ。」
少年は何度も頭を下げ続けた。
「ありがとうございます……。」
その日の夕方。部屋にはミラベルだけが残っていた。
「みんな出て行ったわ。」
椅子へ座り直し、微笑む。
「今は二人きりだから、そんなに緊張しなくても大丈夫よ。」
少年は申し訳なさそうに視線を伏せた。
「でも…俺なんかが、お嬢様と…。」
「『俺なんか』なんて言わないで。」
ミラベルは少しだけ眉を寄せる。
「あなたは私の命の恩人なんだから!」
「…。」
「本当にありがとう」
その一言だった。少年の表情が崩れた。
「…っ」
唇が震える。
目に涙が溜まり、それは堰を切ったように溢れ出した。
「えっ…!?」
ぽろぽろ、と涙が止まらない。少年は必死に袖で拭うが、次から次へと零れていく。
「ご、ごめんなさい……!」
謝りながら泣いている。
ミラベルは何も言わず、ベッドの傍へ腰掛けると、そっと少年の背中をさすった。
「…話しを聞いてもいい?」
少年は小さく頷いた。
「俺…あの森で暮らしてたんです。」
「森で?」
「はい…」
少しずつ言葉を紡いでいく。
「俺…生まれた時には捨てられてて…親が誰かもわからなくて…俺だけじゃないんです。」
涙を流しながら笑う。
「一緒に暮らしてた…仲間もみんなそうでした。…みんな捨て子で……家族なんて誰もいなかった。」
ミラベルは静かに耳を傾ける。
「森の廃小屋で暮らして……木の実を採ったり、小動物を捕まえたりして……貧しかったけど…、みんな一緒だったから幸せだったんです」
その「幸せだった」という言葉が、かえって胸を締めつけた。
「でも…っ」
少年の声が震える。
「ある日、突然…魔物が現れました」
拳をぎゅっと握る。
「あまりにも強くて…俺たちじゃ何もできなかった。」
瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「目の前で…みんな…みんなが…っ!」
少年の言葉にならない、嗚咽だけが部屋に響く。
「俺だけ逃げ延びて…俺だけが生き残って……。」
肩を震わせながら俯く。
「どうして俺だけなんだろうって…!みんな死んだのに…俺だけ生きてて…!」
そして、震える声で絞り出すように尋ねた。
「……俺だけ生き残って……良かったんでしょうか?」
その瞬間、ミラベルは両手で少年の頬を包み込んだ。
「!」
少年が顔を上げる。ミラベルは真っ直ぐにその瞳を見つめていた。
「そんなこと考えなくていいの!」
いつになく強い口調だった。
「確かに、大切な仲間を失った悲しみは消えない…苦しいよね…辛いよね…。私には、その痛みを全部理解できるなんて言えない。」
前世で何人もの患者仲間を見送った。
自分もまた、生き残ることに罪悪感を覚えたことがある。
だからこそ、分かることもあった。
「でもね…だからって、あなた自身が生き残ったことを責める必要なんてどこにもない。」
少年は涙で滲んだ瞳を見つめ返す。
「私は嬉しい。」
「え……?」
「あなたが生きていてくれて。こうして『ありがとう』って伝えられることが、本当に嬉しい。」
ミラベルの声も少し震えていた。
「だから…」
彼の頬を優しく撫でる。
「二度と。そんな悲しいことを言わないで?」
少年は目を見開いたまま固まっていた。やがて、大粒の涙を流しながら。
「…ありがとう。」
小さく呟いた。
「ありがとうございます…!」
二人はしばらく何も話さなかった。
静かな時間だけが流れる。
やがて涙も落ち着き、少年は照れくさそうに笑った。
「そういえば…」
ミラベルが柔らかく尋ねる。
「あなたのお名前は?」
しかし少年は困ったように首を横へ振った。
「……ないんです。」
「え?」
「俺……っていうか…仲間もみんな…名前がないんです。」
ミラベルは息を呑む。
「みんな捨て子だから、呼ぶ時は見た目で…出っ歯とか…チビとか。俺は仲間の中では背が高かったから…」
少し照れながら笑う。
「『ノッポ』って呼ばれてました。」
ミラベルは何も言えなかった。
ゲームでは、名無しの平民。その一文で終わっていた存在。
でも目の前には、笑って泣いて、生きている一人の少年がいる。
(この世界には、主要人物だけじゃなく…一人ひとりに人生がある。)
胸が熱くなる。
そして自然と、一つの想いが込み上げてきた。
「…だったら。」
少年を見つめる。
「私が、あなたに名前をつけてもいい?」
「えっ!?」
少年は飛び上がりそうなほど驚いた。
「そ、そんな!お嬢様にそんなことしていただくなんて恐れ多すぎます!」
ぶんぶんと首を横へ振る。
しかしミラベルは優しく微笑んだ。
「命の恩人であるあなたを、あだ名じゃなくて世界に一つだけの名前で呼びたいの。」
少しだけ首を傾げる。
「…ダメ?」
その笑顔に少年は完全に降参した。
「そんなふうに言われたら…断れません…じゃあ…お願いします。」
ミラベルは嬉しそうに微笑み、少しだけ考えるように目を閉じた。
けれど、その答えは最初から決まっていた。
静かに目を開き、ゆっくりと言う。
「あなたの名前は――」
一拍置いて。
「ブレイブ。勇敢という意味よ。」
少年は目をぱちぱちと瞬かせる。
「勇敢…。」
「私を助けるために、自分が傷付くことも恐れなかった。そんなあなたにぴったりだと思うの。…どうかな?」
少年――いや、ブレイブは呆然としていた。
何度もその名前を口の中で転がす。
「ブレイブ……俺が…ブレイブ……」
やがてその頬が赤く染まり、これまで見せたことのない心からの笑顔が咲いた。
「はいっ!」
力強い返事だった。
「とっても素敵な名前です!」
涙を浮かべながら笑う。
「今日から…俺は、ブレイブと名乗ります!」
その笑顔を見たミラベルも、自然と笑みを浮かべていた。
「気に入ってくれて良かった。」
その日。
一人の名もなき少年は、初めて世界にたった一つの名前を手に入れた。
そしてその名前は、やがて「悪役令嬢」と呼ばれるはずだった少女の運命を大きく変えていくことになる。
二人はまだ知らない。
この出会いが、誰にも書かれていない物語の始まりであることを。
名もなき少年がミラベルによって「ブレイブ」という名前が与えられました。ミラベルとブレイブ、本来乙女ゲームで婚約関係にあったユリウスの3人の関係もこれから書いていきたいと思います。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




